
映画『オデュッセイア』と名もなきモブについて(あと『映画まどマギ』の話)
クリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』観てきたので感想とか。
普通に面白かった。
エンターテインメント的なカタルシスあるわけではない、社会的メッセージ性もない、ましてや文芸的な人物の深みがあるわけではない。
でも、面白かった。
ぼくなりに解釈するとこの映画のテーマは「名もなきモブの死を、どう追悼するか?」なのだと思う。
この映画のほとんどのシーンは主人公であるオデュッセウスの回想である。
つまり、客観的な第三者からの視点ではなく、主観的な視点で構成されている。
そして、時間軸は順番通りではなく、あっちにいったりこっちにいったりする。
すべての映画は客観的視点ではありえない。
起こったすべての事象を映像に記録することは不可能だ。
何を映すか、どのように映すかなど、絶対にだれかの意志が介在してくる。
それは編集と呼ばれている。
記憶だってそうだ。
「自分は客観的で普遍的な視点をもっている」とひとはどうしても思ってしまうが、それは幻想だ。
そして、たとえ自分の視点が幻想だとわかっていても、なにか意見を言う時、だれかを批判するとき、そこがすっぽり抜け落ちてしまう。
記憶は意識的にも無意識的にも主観によってゆがめられている。
だから、映画は記憶のようでもあるのだ。
また、この規模の映画で神話をモチーフにしながら、絵づくりはチープである。
どこにでもありそうな海、雑木林で撮ったような映像が流れている。
何千年前の神話の話であるのに、そこにあるのは幻想的な世界ではなく、ごくごく日常的な、みたことありそうな風景である。
その他の同じような規模の映画がCGや美術にお金をかけて、異世界を表現し、世界観への没入感を高めているのに対して、『オデュッセイア』は没入感は薄く設計されている。
その没入感の薄さにより、観ていると「これは映画でしかない」という意識になる。
スクリーンの中の「映画」と外側にいる「観客」が分離される。
そして、オデュッセウスの回想に感情移入することを拒まれる。
むしろ、オデュッセウスって性格悪いなと冷静に思わされる。
彼の回想は後悔、罪の意識で構成されている。
彼はトロイア戦争にて、かの有名な「トロイの木馬」作戦を指揮していたが、この作戦を悔やんでいた。
なぜなら、この作戦は敵味方かかわらず聖なるものの信仰を揺るがす行為であるからだ。
それは人の信頼をも破壊する行為であると劇中で語られる。
彼はトロイア王国に勝つだけのために、踏み込んではいけない領域に踏み込んだのだ。
このように彼は徹底的な合理主義者として描かれる。
また彼は敵味方にかかわらず「名もなきモブ」をよく見捨てている。
味方に関しても「かまっている暇はない」と見捨てる。
劇中でよくそのシーンが反復される。
その結果、味方からの信頼もなくしていく。
そして、彼の中に家族愛もそこまで感じられない。
妻のペネロペや息子のテレマコスに対して愛情をあまり感じない。
そこら辺も徹底的である。
しかし、もう一度言うがこの映画はオデュッセウスの記憶で構成されている。
彼は合理主義者のはずなのに、なぜ記憶の中で後悔や罪が反復され描かれているのだろうか。
合理主義にとってそれは足を引っ張るノイズでしかない。
そう、記憶は恣意的に改変することができない。
どんなに合理的に生きようとも、むしろ徹底的に合理的に生きているからこそ、罪や後悔を重ねていく。
意識が合理的に切り捨てたものが、無意識の次元ではそこから反立し、記憶に残滓として強く残る。
その残滓とは、大量に見捨ててきた「名もなきモブ」たちの死であった。
「名もなきモブ」は名前も与えられず、物語の中心にも入ることのできなかった、物語の機能のほんの一部でしかない人々。
そんな人たちの死が記憶に残っている。
だから、彼は最終的に追悼のために祖国をはなれ旅立つ。
このアプローチについて、同時期に公開された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』と比較してみる。
『映画まどマギ』では「名もなき魔法少女」が主要人物たちによって名をあたえられることにより救済する。
「名もなき魔法少女」は機能としてしか存在していないが、名付けることにより人物にキャラクターとして輪郭が与えられ、救われる。
「名もなきモブ」を「名もなきモブ」のままどう追悼するべきか、が問われている『オデュッセイア』とは逆のアプローチをしている。
そして、『映画まどマギ』は最も愛する者の名を呼ぶことでその人を救う。「最後に愛が勝つ」という結論だった。
そのラストシーンがあまりに演出が過剰であり、この結論はアイロニー感があるけど、結局は「最後に愛は勝つ」。
『映画まどマギ』は、複雑な世界観を持ちながら、最終的には「愛」という単純なものへと収束していく物語であった。
『映画まどマギ』は、ひとの善性や愛により世界を救おうとする。
そこに屈折はない。まっすぐである。
愛の排除性を鑑みていない。
その意味で、この映画は成熟していない。
永久に成熟しない少女たちが遊ぶテーマパークのような映画だ。
対して『オデュッセイア』は排除された者を排除されたままにしておく。
「名もなきモブ」とはこの排除された者のことだ。
ひとが生きている限り、誰かを排除することからは逃れられない。
万人を救うことはできない。
成熟とは、屈折や悪や弱さを解消しきることではない。
「名もなきモブ」に名を与え救うことでもない。
どうしても解消しきれない残滓ーー「名もなきモブ」の死の後悔と共に、生きていくことである。