
【読書記録 -185】遅読のすすめ
公園の芝生で読みたい本
山村修著『遅読のすすめ』
本書は、2002年に新潮社より発刊されたハードカバーの単行本で、今年の4月に購入していたもののなかなか手が出なかった本だ。

なんでなかなか手を付けなかったかというと、ボクがこの本を「ゆっくり読む方法を勧める自己啓発本の類」だと思っていたからだ。
だけどそうじゃなかった。
この本はエッセイだ。
山村修自身がこれまで読んできた数多くの本の中から50冊ほどを引用し、且つ(すでに鬼籍にお入りになられている)ジャーナリストの立花隆の本の読み方を軽くdisってるエッセイだ。
だから、この本はデスクに齧りついて読むより、公園の芝生とかで読むほうが似合ってるとボクは思う。秋晴れの昭和記念公園のみんなの原っぱあたりが最高なんじゃないだろうか。
通読すること
山村修は本書の中で以下のように述べている。
読書といえば、まず通読である。そのことがいま、あまりにないがしろにされている。私にはそれがもったいなくも思える。一冊の本をおわりまで読みあげることは、読書の快楽の一つではないか。
彼は「読書が時間をくうのは当然」だと言う。食卓についたら、食卓の時間をくう。職場で仕事についたら、仕事の時間をくう。それと同じように読書も暮らしの一部なんだと言っている。
ボク自身も、どちらかというと立花隆寄りの読み方をしていたクチだ。
そう、今年の前半くらいまでは、ボクも手当たり次第に本を買い、読書記録を書くためにポイント部分だけをつまみ読みするようなことが多かったのだ。それはある意味、自分に読書の(言い換えると読書記録の)ノルマを課していたからだと言えるだろう。
だけど、最近はそういう読み方をやめた。
本書を読み進めていくと、遠藤隆吉という教育者の著書『読書法』の引用で「初の十頁」が大事だという一文がある。山村修は、それを「文体にせよ、内容にせよ、すこぶるユニークな著作」と評しているが、ボク的にもすこぶるしっくりくる一文だった。
その一文は「最初の十ページを隅々まで読み込めば、その後のページを理解するのが早くなる」という意味合いなのだが、ボク的には「最初の十ページを読んでみて、ピンと来なかったらその先を読まない」という判断材料として使っている。そんな違いはあるけれど。
DHBRがボクに与えた影響
そういった読書に対する考えの変化…
それは、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー(以下DHBR)の読書記録記事を書くようになったことも大きい。
ボクは、本を読むときにその本の内容を記憶しようとしていない。気になったポイントに付箋を貼りまくり、後からそこに戻れるようにしておくだけだ。そして、本に書かれていることと自分の持っているコンテクストが接続できそうなこと(もしくは接続できたこと)は、その場でChatGPTかGoogle Keepにメモをする。読書記録に書きたいことはChatGPTへ、ビジネスに活かせそうなことはGoogle Keepへ、という使い分けだ。
ボクはそういった行為を「Indexを付ける」と呼んでいる。そしてそのIndexを基にして、ボクは読書記録を書く。そこまでやれば、ボクの脳内でいろいろな方向にニューロンが接続され、思考のネットワークが形成される…と信じているからだ。
だけど、DHBRの場合はそうはいかない。
あのムック本は、だいたい3本前後の論文と日本の大企業の経営者へインタビューで構成されている。そして、それぞれの論文は時として微妙に方向性が異なっていたりする。そしてそれぞれが10~20ページくらいで完結している。
DHBRの書評を書こうとすると、各論文のテーマになっていること、それぞれの論文ごとの言葉の定義、主張の違い、場合によっては原文(英語)と日本語訳のニュアンスなどを、何度も何度も比較していくことになる。
それぞれの同じところ、似ているところ、違っているところ、切り口を変えてみると見えてくること、など…
最近では、そんな思考で本を読んでいる。
そして、それでいいのだろうかと若干の疑問を持っていたのも事実だ。
だけど、人にはそれぞれの読書スタイルがある。
文章の構成に惹かれる人もいれば、装飾表現の優雅さに魅入られる人もいるだろう。それらを学ぶために読書をする人もいれば、著者が構築した世界観に浸ることを楽しむ人もいるだろう。どれが良くてどれが悪いということじゃない…
本書『遅読のすすめ』はそんなことを考えさせてくれる一冊だ。
ボクにとって「読書」は、本を読むことそのものより、思考を拡げ、知識と経験を接続させる行為なのだ。だから「乱読」であってもよいが「速読」である必要はない。
いや、「ゆっくり読む」というより「ゆっくり考える」ことがボクに向いているんだろうと思う。