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善良な人

    私がこれから記すのは、今から十七年ほど前、ある小さな町で起こった出来事である。

    事件と呼ぶには、あまりに些細なことであった。誰も死なず、誰も傷を負わず、警察の世話になった者もいない。

    しかし私は、あの日のことを、いまだに忘れることができない。

    その町に、一人の老人が住んでいた。

    名を佐伯という。

    佐伯は町でも評判の善人であった。困窮する者があれば金を貸し、病人が出れば見舞いに赴き、身寄りのない子供には菓子を買い与えた。

    その善行を疑う者は、少なくとも私の知る限り、一人もいなかった。

    ある冬の日、町に一人の若い女が越してきた。

    女は幼い息子を連れていた。夫の姿はなく、昼は工場で働き、夜は内職をして暮らしていた。

    佐伯は、すぐに親子の世話を始めた。

    米を届け、薪を運び、子供に新しい靴を買い与えた。

    女は何度も礼を述べた。

    その冬、子供が高い熱を出したことがあった。

    折悪しく雪が降り、町医者は往診を断っていた。女は途方に暮れ、佐伯の家を訪ねた。

    佐伯は事情を聞くと、すぐに外套を羽織った。

    雪の中を隣町まで歩き、医者を連れて戻ってきたのである。

    診察代も薬代も、佐伯が支払った。

    女は泣いて礼を言った。

    後日、金を返そうとしたが、佐伯は受け取らなかった。

    「子供が元気になった。それで十分だよ」

    私はこの話を聞いて、深く感心した。

    あれほど親切な人間は、滅多にいるものではない。

    近所の者も、口をそろえてそう言った。

    やがて佐伯は、女の留守にも家へ出入りするようになった。

    雨戸を直し、庭の草を刈り、子供の食事を用意した。

    女が帰宅すると、佐伯が台所に立っていることもあったという。

    一度だけ、女が佐伯に何かを断っているところを見たことがある。

    何を断ったのかは分からない。

    佐伯は笑っていた。

    女も笑っていた。

    結局、佐伯はその家に上がっていった。

    私は、親しい間柄なのだろうと思った。

    ところが、春の終わりに、女が町を去るという噂が立った。

    工場を辞め、遠方の親類を頼るのだという。

    佐伯はひどく驚いた。

    「何か不自由があったのか」

    女は首を振った。

    「いいえ。大変お世話になりました」

    「ならば、なぜ出ていく」

    女は答えなかった。

    佐伯は困惑した様子で、これまで自分がしてきたことを一つずつ挙げた。

    米も届けた。薪も運んだ。子供の面倒も見た。

    「あの子が熱を出した夜だって、私は放っておけなかった」

    女は、そのたびに頭を下げた。

    「本当に、ありがとうございました」

    その声は、私にはひどく疲れているように聞こえた。

    佐伯は最後に、こう言った。

    「私は、お前さんたちが幸せになることだけを願っていたのだよ」

    女はしばらく黙っていた。

    やがて、静かに答えた。

    「はい。存じております」

    それだけであった。

    女と子供は、翌朝、町を去った。

    佐伯は見送りに来なかった。

    その後、彼は以前と変わらず善行を続けた。

    町の者は、女を恩知らずだと言った。

    私も当時は、そう考えたように思う。

    しかし、歳月が過ぎるにつれ、あの女の沈黙が、妙に気にかかるようになった。

    そして、もう一つ。

    女が去った翌年、佐伯は町に越してきた別の家族の世話を始めた。

    それもまた、生活に困っている母親と、その幼い子供であった。

    佐伯が悪人であったとは思わない。

    女が悪人であったとも思わない。

    雪の夜、佐伯が医者を連れて戻ったことも事実である。

    あの女が、泣いて礼を述べたことも。

    ただ、あの冬、二人の間には、私の知らぬ何かがあったのであろう。

    私は今でも、ときおり考える。

    あの日、佐伯の問いに答えず、ただ頭を下げていた女。

    そして、自分の善意が理解されぬことを、心底悲しんでいた老人。

    今、あの町の台所には、誰が立っているのだろうか。



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    猫を眺めたり、仕事をしたり、日常の小さなことを考えたり。こう見ると少し面白い、を気ままに書いています。

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