
LOST IN TIME「366」をもってすれば、こんなことも起きるかもしれない。
※以下は楽曲から想像した物語(フィクション)です。太字は歌詞引用。
ガチャリ。
いつぶりに使ったか思い出せない鍵で記憶よりも色褪せた家のドアを開ける。
途端に耳に飛び込んだのは赤ん坊の泣き声だった。
おぎゃあと、まるで漫画の吹き出しのまま聞こえてくるその声にハッとする
そうだった。
姉が出産し、自分には甥が生まれたのだ。
今日は姉も帰省する日だったのか。
「おかえりー」
まるでこちらが状況を把握したタイミングを見計らったように姉が玄関口に現われる。
後ろには父と母までがぞろぞろと出迎えに出てくるため、たじろいでしまう。
約十年ぶりの帰省だが、目的は実家に置いていた必要なものを取りに来たという無味乾燥な理由である。
家族との再会のためでも、生まれたばかりの甥っ子会いたさにはせ参じたというわけでもなく、そのことに突如後ろめたさを覚えた。
「今日帰って来るって聞いたから、せっかくだから日程合わせたの」
赤ん坊の泣き声を背景に姉がどこか得意げに唇の端を持ち上げてみせる。
「ほら、初めましてって。私の弟だよ。叔父さんだよ」
姉が抱えた赤ん坊をあやしながら、こちらによく見えるようにと腕の位置を調整する。
先日この世に生を受けたばかりのその存在は姉に抱えられて、腕やら足やらをバタバタさせ、終始もぞもぞと落ち着かない様子だ。
その風貌は赤ん坊と聞いて思い浮かべる姿よりも更に何もかもが小さく、息づいていることが奇跡のように感じられた。
「ねえ、後で抱っこしてあげてよ」
姉から放たれたその言葉を吟味するよりも先に「いや、俺はいいよ」と断ってしまう。
もはやここまで儚げで無垢な存在を目の前にすると、どうしたらよいかわからない。
「あんた、何か取りに来たって言ってなかった?」
ふいに思い出したといった様子の母の言葉に、これ幸いとばかりに靴を脱いで家に上がると、かつて自分の部屋だった場所へと急いだ。
無事に目的を果たして、帰宅前に一声かけようとリビングを覗くと、父が腕に赤ん坊を抱えており、その傍らに座る母と一緒になってあやしているところだった。
思わず声を掛けるのも忘れて、しばしその光景に見入ってしまう。
「おお、笑ってる」
父が愉快そうに腕を揺らすその仕草の静かで丁寧なこと。
母が抱えられた存在に向かって掛けるその声の鈴の音のような澄んだ響き。
あの厳めしい父が。あの小言ばかりの母が。
ふいに強烈に時の流れを感じた。
この家を出たのは思春期真っ只中で、両親のイメージはその頃のままで止まっていたが、当然ながら年月は経過するものなのだと実感させられる。
「もう帰るの?」
背中から声が掛かり、不意打ちに振り向くと、いつの間にか姉が背後に立っていた。
彼女は彼女で二階から用事を済ませて戻ってきたところらしい。
「ね、せっかくだからやっぱり抱っこしてみない?」
姉がさっさと両親のもとに歩み寄ると、父の腕から甥っ子を抱き取る。
断ろうとしたが、一度言い出すと昔から譲らないのが我が姉である。
最後は折れて従ってきた習性が抜けず、結局は新生児を抱っこするという名誉に預かることとなった。
「ちょっと、これ大丈夫?」
腕に預けられた存在から伝わるしっとりと息づく体温に緊張が走る。
こちらの挙動で何かあったらと思うと、満足に身動きもできない。
「大丈夫、大丈夫」
姉は鷹揚に頷いて満足そうだ。
「今度はまたゆっくり会ってあげて」
無事に甥っ子を姉の腕に戻し、掌に滲んだ汗を感じながら、姉のその言葉に思わず頷いている。
短い滞在を非難されながら、総出で見送られ、久方ぶりの実家から退去した。
運転席から記憶の中の景色とどころどころ食い違う風景を辿る。
最初の信号で停車すると、すぐに音楽の再生マーク目掛けて指を動かしていた。
雄弁で躍動感のあるピアノの音色が四角い空間一杯に広がる。
先ほどからずっとこの曲が頭の中で鳴っていた。
君以外の全ての人が
笑顔で溢れていたんだよ
わかるかい?
まあ、わからなくてもいいけど
大声で泣いているのは
周りで君だけだったんだよ
わかるかい?
まあ、わからなくてもいいけど
あの日から始まった君の
君にしか歩けないストーリー
その続きを描くノートは
いつだって君自身が持っているんだよ
366の始まりとその足跡が
360°見渡した世界 溢れてる
数えきれない記念日を 一つも残さずに祝おう
今 君の未来にエールを
歌詞の通り、まるで全方位に鳴り響くファンファーレのごとく祝祭が溢れるその歌に目を細める。
良かった、とふいに思う。
何に。両親が孫をあやしている。あの、幸福と呼ぶ以外に呼びようのない光景に世界が辿り着いてくれたことに対して。
重ねて、強烈に感謝したくなる。
誰に。姉に。義兄に。あるいは彼自身に。いくつもの奇跡が寄り集まって生まれた大きな奇跡に。
この曲を初めて聴いた時、満ち溢れる祝祭感に感動を覚えたものの、いつか自分がこんな気持ちを抱くことがあるのだろうかと思った。
その時が今、訪れたのだ。
この世に生まれ得ただけで周りの人を幸せにする。その存在が、その未来が、その前途が、ただ健やかであってほしい。もはやその思いしか浮かばない。
どうか、そうであるように。遠巻きながら延々と続くエールを。
より一層高らかに広がる雄大なメロディとラララで紡がれる柔らかな歌声が初めて抱く類の強い思いをまるごと包み込んでくれた気がした。
最近、身近に新しい命が誕生し、思い浮かんだのがこの曲だった。
まさに全方位に鳴り響くファンファーレのようなこの曲が、ずっと頭に鳴っていた。
圧倒的な歌声と雄大で温かみに満ちたメロディに力を借りて。