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木陰の約束|拝啓文芸部

    祖母の部屋は、閉めきっていたせいか、樟脳の匂いがこもっている。

    ゴールデンウィークに帰省すると、母が遺品の片づけに行くと言うので、僕もついていった。祖母が八十二歳で亡くなったのは、二月のこと。祖父を見送って、ちょうど一年後になる。

    「迷ったら、やってみなさい」が口癖の人だった。七十を過ぎてから水泳を習いはじめ、スマホの使い方も、人に訊かずに自分で覚えてしまった。僕が横浜の大学でサークルを三つ掛け持ちし、取らなくていい講義にまで顔を出しているのは、たぶんこの人の影響だろう。何になりたいのかは、まだ決まっていない。

    箪笥のいちばん下、着物を包んだ畳紙の下から出てきたのは、布張りのアルバム。母も見たことがないという。

    写真はどれも色が抜けて、茶色がかっている。毛先を内に巻いた、二十歳そこそこの女の人。目もとが祖母だった。坂道。港。洋館の玄関。一枚だけ、男の人と並んだものがある。仕立てのいい背広を着て、磨きあげた乗用車の屋根に手を置いていた。

    「お父さんじゃないわね」

    母がつぶやく。祖父は、背広を着るといつも借り物のように見える人だった。

    最後のページに写真はない。台紙にじかに、ボールペンでこう書いてあった。

     もう一度横浜に行きたかった

    インクは写真よりずっと新しい。

    「横浜なんて、行ったことあったのかしら」

    母は首をかしげる。合格を報告した日、祖母は「そう、横浜」と言ったきり、何も訊かなかった。いつもなら質問攻めにする人なのに。

    最初からめくり直して、一枚の前で手が止まった。大きな木の下のベンチで、祖母が膝に本を広げている。幹の傾きかたと、奥に見える石段。

    大学のそばの公園だ。日中に通りかかると、あのベンチでは、白いワンピースの女の人がよく本を読んでいる。二十代半ばくらいだろうか。男が声をかけ、二言三言で離れていく姿も何度か見かけた。

    横浜に戻るとき、母に頼んでその一枚を借りてきた。祖母が座っていた場所を、自分の目で確かめたかったのだ。

    連休明けの午後、講義のあとで公園に寄る。ベンチには、白いワンピースの彼女が座っていた。少し離れて写真をかざしてみると、石段の位置も、幹の傾きも同じ。違うのは、木がひとまわり太くなったことと、ベンチが新しいことくらいだろうか。

    気づくと、彼女が本から顔を上げてこちらを見ている。自分のほうへ何かをかざしたまま、じっと立っている男がいるのだ。また声をかけにきた一人だと思われたのかもしれない。

    「すみません、怪しい者じゃないんです。祖母の若いころの写真が、ここで撮ったものらしくて。見比べていました」

    彼女は何か言いかけて、やめた。膝の上の本に目を落とし、それから自分の座っているベンチと、頭上の枝を順に見る。指が、しおりの紐を何度もたぐっていた。立ち去ったほうがいいのだろうかと思いはじめたころ、ようやく彼女が口を開く。

    「……その写真、見せていただいてもよろしいですか」

    差し出すと、彼女は本を閉じ、両手で受け取る。長いこと見つめてから、僕の顔に目を移した。

    「おばあさまは、いま」

    「二月に亡くなりました」

    彼女は何も言わず、また写真に目を落とした。親指が、写真の縁をゆっくりなぞっている。頭上で葉が鳴る。僕は立ったまま、待つしかなかった。

    「……同じ写真が、祖父の机にもありました」

    ようやくそう言うと、彼女は少し横にずれて、ベンチの隣を空けてくれる。腰を下ろすと、正面に石段が見えた。

    「祖父は若いころ、この近くで、ある女性と暮らしていたそうです」

    彼女は言葉を選ぶように、少しずつ話しはじめた。

    「親御さんの許しがないままで。その方は、迎えにきたご両親に連れて帰られたと聞いています」

    洋館の玄関の写真が浮かぶ。祖母の郷里は、ここからずいぶん遠い。

    「別れる前に、二人で決めたそうです。いつか、もう一度ここで会おうと」

    彼女は写真の中のベンチを、指先でそっと押さえた。

    「亡くなる少し前、祖父に頼まれました。来る人がいるかもしれない。いつでもいいから、あそこに座っていてくれないか、と。……どなたも来ないまま終わるのだと、思っていました」

    僕はすぐには返事ができなかった。石段を、子どもが二人駆け下りていく。

    頭にあったのは、アルバムのもう一枚だ。背広を着て、乗用車の屋根に手を置いていた男の人。母も僕も、誰なのかわからなかった。

    「アルバムに、男の人と並んだ写真が一枚だけありました。背広で、車の横に立っていて」

    彼女が顔を上げる。

    「夏に帰ったら、借りてきます。見てもらえますか」

    「お願いします」と、彼女は小さな声で言った。

    もうひとつ、伝えておくことがある。僕の知る祖母は、やりたいことを先延ばしにする人ではない。その人が、これだけは「行きたかった」と過去形で書いていた。誰にも話さず、アルバムを箪笥の底にしまっていた人だ。行かなかったのではなく、行けなかったのかもしれない。

    「祖母は、アルバムの最後に書き残していました。もう一度横浜に行きたかった、と」

    彼女は写真を両手で持ち直すと、少しうるんだ目を細めて、ゆっくりとほほえんだ。

    (終)

    お題記事

    Mr.Qさん、素敵なお題ありがとうございます。


     
     
    Webライター5年目【SEO・求人・IT系記事校正】 Amazonのアソシエイトとして適格販売により収入を得ています ◆経歴:IT業界15年(PM/PL) ◆資格:情報処理系複数 ◆強み:IT全般 ◆興味:大谷翔平/歴史/AI/メタバース ◆信条:学びに終わりなし

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