
甲州街道(八幡山駅~芦花公園駅近くまで杉並区上高井戸が半島のように突き出ているのにも歴史的理由が、、、)
先日、青梅街道を取り上げたので、次は、江戸五街道の一つ、甲州街道を取り上げます。
甲州街道は、ご存知の通り、東京と甲府を結ぶ国道。甲府と言えば武田信玄ですが、武田信玄が生きた戦国時代、信玄は軍事的な意味での道路整備を進めましたが、武田氏と北条氏の対立の影響からか、甲州街道に該当する道は、幅1.2m程の「日陰の4寸道」と呼ばれ、国境には「長峰砦」が築かれ、外敵侵攻に備えていたそうです。この頃、信玄は「甲斐九筋道」と呼ばれる九本の古道を主要道路として整備を進めましたが、甲州街道の部分は「守りに徹する」方角だったのかも知れません。
甲州街道が主要幹線道路となったのは、ご存知、徳川家康の時代。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いに勝利した家康は、2年後の慶長7(1602)年江戸ー甲府間の整備に着手します(家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府が成立するのはその翌年の慶長8(1603)年)。慶長から元和(1615-24)にかけて、「日陰の4寸道」から主要幹線道路への工事は急ピッチで進められました。江戸に居を構える徳川家康にとって甲州街道は、万が一の場合に一旦江戸城から退去し甲府に籠城するための緊急避難路だったと考えられています(奇しくも、甲州街道から江戸城に入る門の前には、家康の腹心、伊賀者服部半蔵の屋敷があり、江戸城のその門が、まさに「半蔵門」!!)
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そのような事情もあってか、短い街道にも関わらず、小仏、鶴瀬と2箇所も関所が設けられ、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩が参勤交代に利用、多くの宿場も設けられました。当初、日本橋を出て最初の宿場が高井戸宿で、慶長2(1602)年の甲州街道整備着手の年、下高井戸村周辺を中心に置かれました。ところが、当時の下高井戸村の経済力では一村で宿を支える事は困難である事がわかり、2年後の慶長7(1604)年、月の前半を下高井戸村、月の後半を上高井戸村が担当する半月交代の宿場になりました。その際、上高井戸村は甲州街道の道筋から外れていたため幕府街道奉行は甲州街道周辺の土地を烏山村から上高井戸村に移管、現在の芦花公園駅東から八幡山駅周辺まで、世田谷区の中に杉並区が半島に伸びる、区境の形の原型が出来上がりました。


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こうして成立した上高井戸宿・下高井戸宿ではありましたが、元禄12(1699)年、ライバルの登場により危機が訪れます。上述の通り、当初高井戸宿は甲州街道で日本橋から最初の宿場町と位置付けられましたが、日本橋から4里と、あまりにも遠いという理由で、約2里の場所に新しい宿場が作られる事になりました。これが新宿「内藤新宿」で、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)分から新宿三丁目交差点(追分)付近まで延びていました。ライバルの出現により、上下高井戸宿は素通りされることが多くなり、困窮したと言われています。(なお、内藤新宿は享保の改革の最中の享保3(1718)年一旦廃止されますが、明和9(1772)年再開されます)