
誰かを悪者にしたら、幸せになれるんやろうか。
【誰かを踏んづけた先にある幸せって、なんなんやろう】
先日、テレビで
サンドウィッチマンが
アウシュヴィッツを訪れる番組を見た。
去年、ひとり親家庭サポート団体全国協議会の全国大会が、広島県福山市で行われたので
前泊をして「ホロコースト記念館」を訪れたときのことを思い出した。
そこで、ずっと心に残っているものがある。
「150万の命のビーズ」。
ホロコーストで命を奪われた子どもたちと
同じ数の150万個の小さなビーズが
ガラスの筒に入って飾られている。
こんなにも???
うそやろ。
想像がつかない。
でも、現実に起こったことなんよね。
目の前にある150万個のビーズを見ても
失われた命の重さを
本当の意味で想像することなんてできない。
その数の大きさを目の前に
一生懸命に想像をしてはみたが
まったく想像ができなかった。
テレビを見ながら
そのときのことを思い出していた。
【誰かを悪者にすると、社会はまとまる】
人々の暮らしが苦しくなったとき。
不安や不満が大きくなったとき。
誰かを悪者にすることで
その不満をひとつにまとめることが
できるのかもしれない。
「あいつらのせい」
「あいつらが悪い」
「あいつらがいなくなれば」
そう言ってしまえば
そう思ってしまえば
自分たちが苦しい理由が
すごくわかったような気になる。
自分たちの不満を
代わりに口にしてくれる人がいれば
「そうだ、そうだ!!」
と思う人も集まってくる。
そして、支持が集まる。
ナチス・ドイツによる
ユダヤ人への迫害とホロコーストには
長年の反ユダヤ主義や人種差別や
国家による組織的な迫害など
さまざまな背景があったと思っている。
(わたしは決して詳しくはないのだが…)
今の日本と、当時のナチス・ドイツが
同じだと言いたいわけではないし
同じだとも思ってはいない。
でも、今の日本で
「外国人」をひとくくりにして悪者にしたり
排除しようとしたりする言葉を目にすると
考えずにはいられない。
誰かを悪者にすることで
自分たちの暮らしを守ろうとする。
自分たちとは違う誰かを排除することで
自分たちの安心を手に入れようとする。
そういうことが
社会の中で
少しずつ当たり前になっていくとしたら…。
わたしは、それが怖い。
誰かを踏んづけた状態で
「幸せだ」って本当に思えてしまうんやろうか。
わたしは未婚で子どもを産んだ。
結婚していないことを理由に
何かが足りない家族のように
見られることがある。
父親がいないことを理由に
子どもがかわいそうだと思われることもある。
でも、わたしたちは
わたしたちの家族として暮らしている。
わたしたちの幸せは
誰かに決めてもらうものじゃない。
結婚している家族には
その家族の暮らしがある。
結婚していない家族にも
その家族の暮らしがある。
それだけのことやと思う。
なのに
どうして誰かの家族を
「足りない」
と決めつけることで
自分たちの家族のあり方を
“正しいもの”
にしようとするんやろう。
どうして
自分たちとは違う人を
「かわいそうな人」と設定しなければ
自分たちの幸せを肯定できないんやろう。
もちろん
外国人への排除と
ひとり親家庭への偏見は
同じものではない。
でも、社会の中で
「普通」とされるものから外れた人を
何か問題のある存在として扱うこと。
その人がどんな人で
どんな暮らしをしていて
何を大切にしているのかを
知ろうともせず
ひとくくりにしてしまうこと。
自分たちの安心のためなら
その人たちが
傷ついてもかまわないかのように扱うこと。
わたしは、そういうあり方に
すごく違和感がある。
誰かを下に置くことで
自分が上に立つ。
誰かを否定することで
自分の正しさを確かめる。
誰かを排除することで
自分の居場所を守る。
それって、本当に幸せなんやろうか。
わたしは、そうは思わへん。
けど、いつか
思ってしまうこともあるんやろうか。
誰かが犠牲にならなければ
幸せになれないんやろうか。
自分の暮らしが苦しいとき。
先が見えなくて、不安なとき。
誰かのせいにしたくなることは
あるのかもしれない。
自分とは違う誰かを悪者にしたら
少し気持ちが楽になることも
あるのかもしれない。
でも、そのとき
自分が悪者にした相手にも
暮らしがあることを
忘れてしまってないやろか。
その人にも、大切な人がいる。
守りたい生活がある。
自分と同じように
幸せになりたいと思っている。
そんな当たり前のことが
見えなくなってしまう。
そして
誰かを排除することが
正しいことのように
語られるようになる。
わたしは
やっぱりそんな社会で生きたいとは思わへん。
誰かを排除しなければ
自分の居場所をつくれない。
誰かを踏みつけなければ
自分が上に立てない。
誰かを犠牲にしなければ
自分が幸せになれない。
そんなふうに
「誰かの幸せ」と「自分の幸せ」が
“奪い合うもの”になってしまうことが悲しい。
わたしは
誰かを踏んづけて上に立つことを
幸せやとは思わへん。
これは
ただ「差別をなくそう」という話では
ないんやと思う。
わたしは
どういう社会で生きたいのか。
どういう幸せを大切にしたいのか。
そういう話なんやと思う。
誰かを悪者にしなくても。
誰かを排除しなくても。
誰かを犠牲にしなくても。
幸せをつくっていきたいな。
そして、誰かの幸せも
わたしの幸せも
どちらかを犠牲にせな成り立たへんような社会であってほしくないな。
誰かが幸せになるために
別の誰かが傷つけられたり
存在を否定されたりする。
そんなことが
当たり前の社会であってほしくないな。
去年
ホロコースト記念館で見た
150万個のビーズ。
「こんなにも?うそやろ?」
そう思ったときの感覚を、忘れずにいたい。
あのビーズのひとつひとつに、命があった。
わたしたちの社会が
ついひとくくりにしてしまう「外国人」にも
「ひとり親家庭」にも
その向こうには一人ひとりの人間がいる。
わたし自身も
誰かにひとくくりにされる側として生きてきた。
だからこそ、思う。
誰かを踏んづけた先にある幸せって、なんなんやろう。
わたしは、そんな幸せを望んでいない。
誰かを犠牲にしなくても
誰かを排除しなくても
幸せになれるはずやと思うねん。
わたしは、そういう社会で暮らしたい。