
「社会に出たらわいせつ罪」指導が映す学校現場の限界 一斉教育と専門職不在が生む構造的課題
愛知県弥富市の小学校で、プール後に床に寝そべった男子児童に対し、担任が「社会に出たらわいせつ罪になる」と言い放ち床を拭かせた結果、児童がいじめ重大事態認定を受けて転校する事態が生じた。第三者委員会は「発達段階を踏まえておらず適切でなかった」と報告書で結論づけた。
このニュースに触れたとき、強い違和感を抱かざるを得ない。事態が深刻化した後に第三者が「配慮が足りなかった」と評価することは容易である。しかし、そもそも一人の教員が30人以上の児童を抱え、多様な特性や行動を示す子どもたち全員に対して、その都度適切な指導を行うことなど、はじめから不可能に近いのではないか。
現在の学校現場は、教員に対してあまりに過大な役割を求めている。一斉授業による学習指導に加え、生活指導、人間関係の調整、さらには高度な専門性を要する発達上のサポートまで、すべてを学級担任の肩に負わせている。しかし、集団の統制と個別の最適化は、本質的に相反する課題である。特別な配慮を必要とする行動(アウトライナー)に対し、限られた時間とリソースの中で瞬時に最適な解を導き出すことを一教員に求めるのは、制度としての設計自体が破綻していると言わざるを得ない。
本来、学校における役割分担はもっと明確であるべきだ。教員は本来の専門である「教科指導」に専念させる仕組みを作り、個別の生活支援や心理的アプローチ、多様な特性への対応は、福祉や心理の専従スタッフが担うべきである。教員という職種に過度な万能性を期待し、現場の努力や精神論に依存し続ける限り、教員の疲弊も、子どもたちの生きづらさも解消されることはないだろう。
限界を迎えたシステムに対して後から非難を重ねるのではなく、集団教育の枠組みそのものと、教員が負うべき役割の境界線を再定義する時期に来ている。