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ずっと忘れられなかった人に会ったら、なぜか胸が揺れなかった | #風まかせ文芸部

    彼女に会うまで、世界はずっと彼女に似ていた。

    コンビニの冷蔵棚で、彼女がよく飲んでいたミルクティーを見つけただけで、心臓が一拍遅れた。

    どこにでもある、少し甘すぎるミルクティー。
    新商品でもなければ、限定品でもない。
    ただ、彼女がよく飲んでいた。

    それだけなのに、手が止まった。

    冷蔵棚の白い光の中で、水滴のついたボトルが並んでいる。
    そのうちの一本だけが、妙に目に入ってしまった。

    彼女は、ストローを少し噛む癖があった。
    本人は気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか、飲み終わるころには、いつも先が少し平たくなっていた。

    「これ、甘すぎるんだよね」

    そう言いながら、結局いつも買っていた。

    思い出した瞬間、胸の奥を軽く叩かれたような気がした。
    痛いというほどではない。
    でも、なかったことにできるほど小さくもない。

    俺は冷蔵棚のドアを閉めた。

    何をやっているんだろう、と思った。
    ミルクティー一本で動揺している三十路手前の男というのは、なかなか見苦しい。

    その日は水だけ買って店を出た。
    それでも、外に出てからしばらく、胸のあたりが落ち着かなかった。

    たぶん、それが始まりだったわけではない。

    もっと前から、世界は少しずつ彼女に似ていた。

    電車の中で、低い位置でひとつに結ばれた髪を見ると、反射的に顔を上げてしまう。
    本屋で、彼女が読んでみたいと言っていた作家の名前を見つけると、背表紙の前で足が止まる。
    雨の日に紺色の傘が視界に入ると、昔、彼女が何も言わずに傘をこちら側へ寄せてくれたことを思い出す。

    あのときも、何かがあったわけではない。

    肩が少し近かった。
    雨の音がうるさかった。
    彼女の袖が濡れていた。
    それだけだ。

    それだけなのに、記憶は勝手に編集する。
    ただの十センチを、告白前の沈黙みたいに切り取って、きれいに保存してしまう。

    たちが悪い。

    街を歩いていて、似た香りがしたこともある。
    誰かが横を通りすぎただけだった。
    シャンプーか、柔軟剤か、その程度のものだと思う。

    なのに俺は、ほとんど反射で振り返っていた。

    もちろん彼女ではなかった。
    当たり前だ。
    そもそも、彼女がいまどこで何をしているのかも知らない。

    それでも一瞬だけ、世界が本当に彼女を連れてきたのだと思ってしまった。

    そのあとで、ひどく恥ずかしくなった。
    誰にも見られていないのに、耳の奥が少し熱かった。

    彼女本人には何も言えないくせに、彼女に似たものには毎日負けている。

    そう思うと、笑えてくる。
    笑えるのに、少し苦しい。

    スマホの変換候補に、彼女の名前の一文字目が出ただけで止まったこともある。
    ただの予測変換だ。
    機械が過去の入力を拾っただけで、そこに意味なんてない。

    ないはずなのに、画面に浮かんだその一文字が、こっちを見上げてくるような気がした。

    重症だと思った。

    こういう自分を、正直少し面倒くさいと思う。
    でも、その面倒くささごと、どこかで手放したくなかった。

    会いたいのかと聞かれたら、たぶん違う。
    連絡したいのかと聞かれても、それも違う。
    実際、俺は彼女に連絡しなかった。近況を調べもしなかった。共通の知人に名前を出すこともしなかった。

    ただ、似ているものに弱かった。

    本人には触れない。
    本人には近づかない。
    そのかわり、世界の中に散らばった彼女の欠片だけを、毎日勝手に拾っていた。

    馬鹿みたいだと思う。
    でも、その馬鹿みたいな時間は、少しだけ甘かった。

    ある金曜日の夕方、会社を出たあと、駅までの道で三回彼女を思い出した。

    一回目は、自動販売機に並んだミルクティー。
    二回目は、信号待ちをしていた女性の、低い位置で結ばれた髪。
    三回目は、すれ違った人の笑い声の、最後の音。

    三回目で、さすがに立ち止まりそうになった。

    ここまでくると、もう偶然ではない気がしてくる。
    いや、偶然に決まっている。
    でも、偶然が続きすぎると、人はそこに勝手な物語を見つけてしまう。

    俺はまだ、彼女が好きなのだろうか。

    そう考えた瞬間、胸の奥がまた少し揺れた。

    もし今会ったら、どうなるんだろう。
    ちゃんと話せるだろうか。
    目を見られるだろうか。
    昔みたいに、言いたいことを半分飲み込んで、どうでもいい話だけしてしまうのだろうか。

    そんなことを考えながら、駅前のコンビニに入った。

    水を買うつもりだった。
    本当に、それだけだった。

    自動ドアが開いたとき、店内のBGMが少し大きく聞こえた。
    冷房の匂いと、揚げ物の油の匂いが混ざっていた。
    レジ前には仕事帰りらしい人が二人並んでいて、コピー機の横では高校生くらいの子が何かを印刷していた。

    いつものコンビニだった。

    その雑誌棚の前に、彼女がいた。

    風は吹かなかった。
    時間も止まらなかった。
    BGMも変わらなかった。
    店内の照明が急に柔らかくなることも、周りの音が遠のくこともなかった。

    世界は、気の利いた演出を何ひとつ用意していなかった。

    ただ、彼女がいた。

    髪は少し短くなっていた。
    記憶の中よりも、輪郭がはっきりしていた。
    笑った顔はたぶん同じなのに、俺が何度も思い出していたものより、ずっと普通だった。

    彼女がこちらに気づいた。

    「あれ。久しぶり」

    その声を聞いた瞬間、俺は思った。

    ああ、本物だ。

    それだけだった。

    心臓は跳ねなかった。
    息も詰まらなかった。
    手も震えなかった。
    顔が熱くなることもなかった。

    むしろ、拍子抜けするくらい静かだった。

    「久しぶり」

    自分でも驚くほど普通の声が出た。

    彼女は少し笑って、肩にかけたバッグを持ち直した。
    仕事帰りなのだろう。少し疲れて見えた。

    「元気だった?」

    「まあ、普通。そっちは?」

    「私も普通かな。最近ちょっと忙しいけど」

    そんな話をした。

    本当に、それだけの話だった。

    仕事のこと。
    引っ越したこと。
    最近このあたりに来ることがあること。

    昔なら、一つも聞き逃したくなかったはずの近況なのに、その場ではただ普通に受け取れた。

    彼女は記憶の中ほど、きらきらしていなかった。
    思い出の中ほど、声が近いわけでもなかった。
    彼女は、俺の記憶よりも少し現実の速度で話した。

    会えなかった時間の中で勝手に増えていた彼女たちより、目の前の彼女はずっと小さくて、具体的で、少し疲れていて、ちゃんと現実の人だった。

    それが、嫌ではなかった。

    むしろ、少しほっとした。

    俺の中で勝手に増えすぎた彼女が、ひとつずつ、元の場所に戻っていくような気がした。

    ミルクティーのラベル。
    低く結ばれた髪。
    雨の日の傘。
    通りすぎた香り。
    変換候補の一文字。
    似ている声。
    似ている背中。
    似ている何か。

    それらは全部、彼女ではなかった。

    そんな当たり前のことを、目の前の彼女が教えてくれた。

    「じゃあ、また」

    彼女はそう言って、レジのほうへ歩いていった。

    俺は少しだけ手を上げた。
    何かを言い足したくなるかと思った。
    でも、何も出てこなかった。

    何も出てこなかったことに、少し安心した。

    彼女が店を出たあと、俺は冷蔵棚の前に立った。

    あのミルクティーがあった。
    ピンク色のラベル。
    透明なボトルについた水滴。
    白い光。

    少し前なら、それだけで胸が騒いだと思う。

    俺はそれを一本取って、レジに持っていった。

    外に出て、キャップを開けて飲んだ。
    甘かった。

    ただ、甘かった。

    記憶の味ではなかった。
    彼女の味でもなかった。
    ただの、少し甘すぎるミルクティーだった。

    それでよかった。

    彼女に会うまで、世界はずっと彼女に似ていた。
    でも、世界中に散らばっていた彼女は、その日、ようやく一人に戻った。



     
     
    ことばの奥の揺らぎを、 構造として掬い上げる文章を書いています。 迷いのかたちを可視化する試みとして、 《タロット風心理》を綴っています。

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