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Photo bywitty_jaguar4681

磯野員昌と坂井尚恒の「姉川の戦い」

    🔳『太平記英勇伝』磯野員昌

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      磯野丹波守定正
     江州名誉の俊傑。元亀元年、姉川の戦ひに長政の先陣として、さしも織田の猛将が堅陣を五備迄打ち破り、已に信長の本陣へ切り入らんせしかど、謀略齟齬し、ついに味方、敗走して、小谷の本城へ退がる後、台命に依て和を做(なす)といへど、「浅井家の武運、開かざる」と見破り、招きに応じて信長に従ひしが、はたして丹波が先見の如くなりし。

    ※「五備迄打ち破り」:13段構えの11段まで破ったと聞いてますが・・・

    🔳『ウィキペディア(Wikipedia)』

    磯野 員昌(いその かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏、後に織田氏の家臣。近江国佐和山城主。

     元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いでは、織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らが駆け付け、その後、朝倉軍を撃破した徳川家康軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退した。この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る( 浅井三代記)。

    🔳『太平記英勇伝』坂井尚恒

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      坂井久蔵尚恒
     右近尚政の一子。年十五の初陣に建部源八郎とて近江第一の猛勇を討ち取り、後に浅井家の勇将・磯野丹波守を組み敷く。已に差し殺さんとせし時、渠が家人、馳せ来ってしたたかに突きければ、さしもの久蔵たまりえず、遂に丹波が為に討たれぬ。

    🔳『ウィキペディア(Wikipedia)』


     坂井 尚恒(さかい ひさつね)は、戦国時代の武将。織田信長の家臣。通称は久蔵。父は坂井政尚。諱である「尚恒」は確実な史料からは裏付けられていない。

    生涯

     弘治元年(1555年)、織田信長の家臣である坂井政尚の嫡男として生まれ、父と同じく信長に仕えた。
     永禄11年(1568年)に信長が上洛を開始した時にも従軍しており、六角義賢の観音寺城攻めに参加して武功を挙げ、足利義昭から感状を与えられている。
     その後も信長の主要な合戦の多くに参加して武功を挙げたが、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いで浅井長政の軍と戦い戦死した。享年16。


     
     
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