
第2回「兎と狼」(復習)
「桶狭間の戦い」については、資料はたくさんあります(豊明市史の別巻に全て掲載されています)が、書いてある事が食い違っていますので、史実が、なぜ3000人で25000人の今川軍に勝てたのかが、分かりません。

【通説】 織田信長は善照寺砦に入り、密かに裏山(朝日出山)に全員を集め、起請松(現在は、世界に誇るプロコスプレイヤー・えなこさんの母校・鳴海高校)の下で演説と作戦の伝達を行った。全軍を2手に分け、別働隊は西へ移動して武者山の今川軍(鷲津砦を襲って休養している軍)を鉄砲を使って襲って今川軍(先鋒や鳴海城の城兵)の目をひきつけ、本隊は坊主山の裏を密行して別働隊とは逆に反対方向の東へ移動し、太子ヶ根と大将ヶ根の間で西からの暴風雨が上がるのを待ち、晴れると一気に丘陵を駆け上がって、今川本隊をピンポイントで攻撃し、大将・今川義元を討つと、今川軍はバラバラになって逃げた。
【「信用できる」とされる『信長公記』の記述】 織田信長は善照寺砦に入り、中島砦に移って、演説と作戦の伝達を行った。そこから桶狭間の山際まで密行すると、暴風雨となった。晴れるのを待って、織田信長は突撃命令を下した。織田軍は、今川義元本陣めがけて駆け出した。今川軍は崩れた。今川義元は、周囲を約300人に囲まれて後退したが、数度にわたる攻撃を受け、約50人にまで減った。今川義元は、深田に足をとられたところを槍で刺されて絶命した。
桶狭間と云ふ所は、狭間、くてみ(注)、深田、足入、高み低み茂り、節所と云ふ事、限りなし。逃げ入る者は、所を去らず、這いずり回るを、若者共、追ひ付き、追ひ付き、2つ3つ宛、手々に首を取り持ち、御前へ参り候。「首は、何れも清洲にて御実検」と仰せ出され、義元の首を御覧し、御満足、斜めならず。元御出の道を御帰陣候也。
(桶狭間という場所は、谷は湿地で、深田では足がとられ、高い木や低い草が生い茂る凄い難所である。逃げてきて桶狭間に入った者は、そこから出ることが出来ず、這い回っていると、若武者達(織田信長の精鋭部隊)が追いかけ、追いかけて、1人で2~3個の首を取って手に持ち、織田信長に見せた。織田信長は、「首実検は清洲城で行う」と仰せられ、今川義元の首を見て大変満足していた。もと来た道を通って清洲城に帰還した。)
※織田信長はヒット&アウェイ。その日のうちに清洲へ帰り、翌日、首検分をした。「桶狭間の戦い」の日は、桶狭間に残って大高城を攻めることも、逃げた今川軍の深追いもなかった。
(注)くてみ(久手み):「小牧・長久手の戦い」の「久手」。「長久手」は「細長い湿地帯」。「久手み」は「湿っていて」。多くの解説書では、「くみて(組て)」の誤りとして、「入り組んでいて」と訳している。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920322/1/77
──なぜ3000人の織田軍が、25000人の今川軍に勝てたのか?
学者が言うには、
①3000人 vs 25000人ではなかった(今川軍は分散していた)
②今川義元本隊をピンポイントで襲った
ので勝てたというが、①は納得できるが、問題は②である。「どうして善照寺砦から今川義元本隊まで、敵(今川軍)に会わなかったのか?」「どういうルートを通ったのか?」である。
また、今川義元が討たれた桶狭間村の深田とはどこなのか?
雑感①:古文書には「桶狭間」とはない。「鳴海桶狭間」とある。また、今川氏真の手紙には「鳴海原」(「原」は「台地」の意)とある。合戦は「鳴海村~桶狭間村の丘陵部」で行われたのではないか?
雑感②:『信長公記』には、中島砦から今川義元本隊までの詳細な移動ルートが書かれていない。今川義元は中島砦のすぐ前の山にいたのではないか? 『信長公記』の記述は「織田信長が目の前の山(丘陵「鳴海原」)に登ったら、桶狭間山の本陣にいるはずの今川義元が目の前にいて驚いた。今川義元も、善照寺砦にいるはずの織田信長が目の前にいて驚いた。今川義元は、桶狭間山の本陣へ向かって逃げていくが、どんどん守兵が討たれていき、最終的には桶狭間山麓の深田に足を取られて追いつかれ、抵抗するも討たれた」と読めるのでは?
【追加記事】
・大樹寺 -登誉上人と「厭離穢土 欣求浄土」-
https://note.com/sz2020/n/n319923eba460
・松平氏の系譜と大草松平昌久
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・徳川家康は寅年生まれか?兎年生まれか?
https://note.com/sz2020/n/n64cf01030950
・竹千代が人質になった経緯
https://note.com/sz2020/n/n5755a3254c48
・感想&解説動画集
https://note.com/sz2020/n/na7eb03e8ee6a