
徳川家康の馬印「金扇」
徳川家康の「馬印」(戦場や行軍で、自分の位置を示すために用いた軍旗のような物)は、大馬印が「金扇」(きんおうぎ、きんせん。久能山東照宮博物館所蔵)、小馬印が「銀の繰り半月」、纏が「厭離穢土 欣求浄土」だったという。「金扇」は大馬印というだけあって、ビッグでびっくりする。(那須与一の「扇の的」の扇だと思ったら大間違い。)
https://www.toshogu.or.jp/kt_museum/collect/
大馬印「金扇」の由来については、
①本多家由来説
②牧野家由来説
③石川家由来説
がある。
1.本多家由来説
徳川家の家紋「三葉葵」は、伊奈本多家の家紋に由来するという。
*参考記事:「三河国宝飯郡の城⑤伊奈城(1/4)概要」
https://note.com/sz2020/n/n9359f6cda8cc
そして、大馬印「金扇」も本多家に由来するという。
■『柳営秘鑑』(巻3)
一、扇の御馬印は、5本骨にして、親骨の方を竿付きにして持ち為さらる。元来、本多平八郎忠高所持の持物にて、数度の戦功顕し、天文18年、安祥城責めの時、一番乗りして討死之後、其の子・中書忠勝、相ひ伝へ、之を用ひる処、文禄2年、大神君、御所望有りて、御当家随一の御馬印に成し置からる。
2.牧野家由来説
牧野氏が聖眼寺(愛知県豊橋市下地町)の太子堂に奉納した2本の金扇の1本を、徳川家康が吉田城(愛知県豊橋市今橋町)を攻めた時(「下地合戦」)、聖眼寺を本陣(後に糟塚砦に移動)とした際に、住職が「正しく、御身より分身、紛れ無し」(徳川家康が聖徳太子の分身であることは明白である)として、徳川家康に献上したという。(吉田城の城代・大原氏との和議は、聖眼寺の住職の仲介による。)
聖眼寺に残った金扇は、延宝元年(徳川家綱の時代)、徳川家康の馬印と照合された。その結果、徳川家康の馬印と寸分違わぬ物だったという。
■『牛窪記』「牧野家参神君大原退駿州事」
(前略)其の後、天正18年、小田原御陣に、神君、御馬印に右の金の扉〔扇〕をあそばしたる也。牧野半右衛門も印に金の扉〔扇〕なれば、遠慮に思ひ、さささりけるを、神君、聞こしめされ、「同縁浅からぬことなれば、同じ印も苦しからず」と御免を蒙りける。
すべて牧野家は、保成の御時より仏神を崇敬したまひて、近郷の寺社を修理のことどもはからはれける。この陣の門出にも、長谷堂の観音を信じ、立願あって院内を道栄〔造営〕し、「豊山」の「豊」を「武」の字にあらためらる。
■『牛窪密談記』「金扇馬標」
一、家康公、吉田の城代・大原肥前守、御退治として、永禄8乙丑歳、御出馬なり。牧野右馬允、先陣を蒙りける。下地村聖眼寺御本陣なり。右馬允つくづく思ふやうは、「家康公の御手に属し、初めての軍なれば、一手柄なくては」とて、聖眼寺太子の御前にうづくまり、牧野家の馬印扇2本を太子の宮殿に籠めて、暫く観念あり、退出しけり。余人是を知らず。其の後、住持、太子を拝せられけるに、件の扇、仏前に有り。「正しく、御身より分身、紛れ無し」と、家康公に言上有りければ、1本召し上げられ、残り1本は聖眼寺の什物と成る。(中略)其の後、右馬允は、聖眼寺の尊像・太子、牛久保に安置し、聖眼寺末葉・養樹寺太子堂の本尊となせり。扨又、長谷寺の観音堂再興ましまし、「武運山」と名く。今は略して「武山」と号す。
(中略)
一、天正十八寅歳、小田原御陣に牧野半右衛門が馬印は、扇なり。家康公の御馬印も扇なれば、半右衛門遠慮する処に、下地聖眼寺太子にての事仰せ出され、同様苦しからざる旨御免を蒙り、牧野家の誉なり。
■『三河国宝飯郡誌』「聖霊山聖眼寺」
聖霊山聖眼寺 (中略)永禄七年吉田の城主・小原肥前守鎮実を攻め給はんとて、神君、当寺を陣営となし給ふ。則、聖徳太子の宮殿にして、天下泰平の事を祈り給ふ。或夜、御夢中に雙扇を感得し給ふの御奇瑞あり。夫より1扇を以て馬幟とし、牧野康成、先陣に進む。1扇は当寺に止めて霊法となさしめ給ふ。則、吉田城、程なく御手に入るこそ奇特なれ。馬標扇、延宝元年、将軍・家綱治世の砌、徳川家所蔵の扇と照合ありて由緒顕れ、年頭登城。白書院、時服拝領すと云。(後略)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765323/175
※聖霊山聖眼寺(しょうげんじ):愛知県豊橋市下地町
※武運山長谷寺(ちょうこくじ):愛知県豊川市牛久保町八幡口
3.石川家由来説
『三河物語』に、永禄6年(1563年)の「三河一向一揆」の時、石川新九郎親綱が、「金の団扇の指物(さしもの)」を指していたとある。
「指していた」とあるだけで、徳川家康に譲ったとは書いてないし、「団扇」は「扇」ではなく、「軍配団扇(軍配、団扇(うちわ))」である可能性が高い。
■『三河物語』
石河新九郎は、「道を帰(替)て退きては、たとえば生てをもしろからず。又、道を替て山の中にて打れたらば、『新九郎社、へり道をして打れたる』などと人に定(沙汰)せられん事は、骸の上の恥辱成るべし」とて、本道をすぐに退きければ、金の団扇の指物を指しける間(後略)

