
武田信玄の最期
武田信玄が死んだ。享年53。
・いつ、どこで?
・死因は?
・遺体はどこに?

🔳『甲越勇将伝 武田家』

武田大膳大夫従五位下兼信濃守晴信入道信玄
清和天皇六世孫鎮守府将軍源頼義三男新羅三郎義光の家嫡武田冠者義清後胤。幼名勝千代丸。加冠あって太郎晴信と申す。
天文五年冬十一月、十三歳にて初陣あり。十八歳にて家督相続なしたまふ。同二十年春二月、薙髪におよび、法性院大僧正信玄と法号す。
知勇古今に秀(ひいで)、兵を用る事神の如く、生涯二百二十度の戦場に一度も敗(おくれ)を取る事なきとかや有るが中にも、上杉家と争戦(とりあひ)五度の内、終(おわり)のお一戦は信州更科郡川中島に出張あって、十二段の備(そなへ)を立て、名だたる勇将・謙信が車がかりの陣に対し、突戦数刻に及ばれつつ、竟に牛角(ごかく)の軍(いくさ)を遂げ玉ふ。実(げ)に比類なき智将とや唱ふべき。
🔳『信長公記』
浜松之城堅固候被成御拘。信玄者得勝利人数打入候也。
「三方ヶ原の戦い」の後、徳川家康は浜松城に立て篭もり、堅固に守った。武田信玄は、この「三方ヶ原の戦い」に勝利を得て、さらに(三河国へと)侵攻した。
🔳『明智軍記』

木ノ目山、有乳峯、白妙に雪降りければ、義景、帰路の塞がらん事を憂ひ、終に兵馬を収めて越前へぞ皈りける。
斯くて其の年も暮れ、翌年、遠州の東照大君の飛札、岐阜に到来し、「甲州の武田信玄、多数にて、当国へ襲来し、二俣の要害を攻め抜き、勢ひに乗じ、攻進候故、味方ヵ原にて摂戦に及び候ひしに、味方、利を失ひ、将士若干討死し、力なく浜松城へ引き返し畢(おわん)ぬ。敵、尚、形部(をさかべ)に屯(たむろ)して越年し、味方、愈々難渋に及び候。急ぎ御加勢頼み候」とぞ仰せ越されける。因て茲に織田殿の令を受け、佐久間右衛門尉、林佐渡守、滝川左近将監、五千余騎を卒し、尾州熱田迄の出張したりける。
【現代語訳】 木ノ目峠、愛発山 (あらちやま)に白く雪が降り積もったので、朝倉義景は、帰路が雪で閉ざされることを心配し終に兵馬を収めて越前国へ帰った。
こうしてその年も暮れ、翌年、遠江国(静岡県西部地方)の徳川家康の飛脚が岐阜城に到着し、「甲斐国(山梨県)の武田信玄の大軍が、当・遠江国へ襲来し、二俣城を落とし、その勢いに乗じて進軍して来たもで、出馬して三方ヶ原で交戦したが、味方、利を失って、将兵が若干名討死し、力尽きて浜松城へ引き返した。敵は、尚も進軍せず、刑部(をさかべ)砦に駐屯して年を越し、味方は、いよいよ困り果てている。すぐに御加勢をお頼み申す」と言って来られた。このため、ここに織田信長の命令を受け、佐久間信盛、林秀貞、滝川一益らが5000余騎を率いて、尾張国熱田まで出陣したが、武田信玄が西上しなかったので引き上げた。
〽八田の野の浅茅色づく有乳山嶺の淡雪寒く散るらし
(『万葉集』巻10-2331)
「三方ヶ原の戦い」や、その後の武田信玄の足取りについては、既に『どうする家康』の時に現地取材をして書いた。

《武田信玄の足取り》
三方ヶ原の戦い
↓
刑部砦
↓
野田城攻め
↓
鳳来寺(湯谷温泉で湯治):井伊直政との出会い
↓
福田寺
↓
波合
↓
駒場→信玄塚
→諏訪湖の湖底
→恵林寺
〽大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
《武田信玄の終焉地》
①【田口】福田寺の武田信玄公塚(『野田実録』)
②【津具】信玄塚
③【根羽】信玄塚と宝篋印塔(「ねばねの上村と申す所」『甲陽軍鑑』)
④【平谷・浪合】(『三河物語』)
⑤【浪合】(「信濃國波合にてはかくなりぬ」『徳川実記』)
⑥【駒場】火葬塚、長岳寺の灰塚供養塔(「御宿監物書状(写)」)
《武田信玄の死因》
①【病死】持病の労咳(肺結核)(「御宿監物書状(写)」)、肺炎
②【病死】胃癌、あるいは、食道癌(『甲陽軍鑑』)
③【病死】ストレス性胃潰瘍
④【病死】日本住血吸虫病=肝硬変
⑤【毒殺】織田信長に寝返った側近による毒殺
⑥【銃殺】野田城攻めの際に撃たれる。(『徳川実記』)
⑦【仏罰】鳳来寺の秘仏・峯之薬師像を出させて抱きついたから。