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聚楽第落首事件

     「落首」とは、「落書き」「和歌版川柳」であり、当時の政治批判である。
     徳川家康は、「庶民が自分のことをどう思っているか知りたい。落首を読みたい」と言った。現在ならば、写真を撮って見せるだけであるが、書かれている壁を剥がして持って行けない。(実物でなくても、紙に書き写して見せればよいと思うが。)
     たまたま短冊状のものに書かれていた落首が柿の木に吊るされていたので、見せることが出来た。

     御所柿はひとり熟して落ちにけり 木の下にいて拾う秀頼

    (御所柿(「大御所」と呼ばれる徳川家康)は、勝手に年をとって死ぬだろう。柿の木の下で、落ちた柿(天下)を拾うのは、豊臣秀頼(幼名:拾)である。)

     御上洛ありて二条城におはしませしころ、落書する者おほし。所司代・板倉伊賀守勝重、「これを搜索せむ」といふ。君、「そのまま捨て置くべし。そもそも、いかなること書しぞ。みそなはさむ」とあれば、御所柿にたにざく樣のものつけしをもち出で御覽にそなふ。

      御所柿はひとり熟して落ちにけり 木の下に居て拾ふ秀頼

     御覽じて、「このうへとても落書禁斷すべからず。はしたなき事ながら、わがみて心得になることもあれば、そのまゝにせよ」。幾度も御覽あらむと仰せられしぞ。

    (徳川家康が上洛して二条城にいた頃、落書きをする者が多かった。京都所司代・板倉勝重は、「捜査する(犯人を見つけ、今後、落書きが書かれないようにする)」と言った。徳川家康は、「そのままにしておけ。というか、どんなことが書いてあるか見てみたい」と言うので、板倉勝重は、御所柿(の枝)に短冊のような物が結びつけられたものを持ってきて見せた。
     御所柿は独り熟して落ちにけり 木の下に居て拾う秀頼
    それを見て、「今後も落書きは禁止するな。迷惑な事ではあるが、私が見て参考になることもあるだろうから、そのままにしておけ」と。(今回だけではなく)何度も読みたいと仰せられた。)

    『古人物語』
    https://dl.ndl.go.jp/pid/925722/1/141

     高齢の徳川家康は、謙虚だった。
      実るほど頭を垂れる稲穂かな
     これに対し、高齢の豊臣秀吉が見せたのは「狂気」である。天正17年(1589年)、豊臣秀吉は、落首の存在を知り、烈火の如く怒り、関係者113人が処刑された。世に言う「聚楽第落首事件」である。

     天正17年2月25日夜、豊臣秀吉が住む聚楽第の番所の白壁に落書きされた。前田玄以が密かに消したというが、豊臣秀吉の知るところとなり、番衆(見張り番)17人が処刑された。それは、まず、2月29日に鼻を削ぎ、翌2月30日に耳を削いだ上で逆さ磔にするという厳しいものであった。
     豊臣秀吉の怒りはすさまじく、最終的には113人が処刑された。(落首だけにうち首かと思ったら、磔であった。)

     当時の史料で確認していこう。

     
     
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