
【覚書】徳川家康の「家」は源義家の「家」(資料集)
■林百助『立路随筆』
ある人が博識な新井白石に「徳川家康の「家」とは?」と聞くと、「松平元康が伊束法師に『源義家の「家」を使って「松平家■」と改名したい。(画数などを考えて)良い下の字を教えて欲しい』と頼むと、伊束法師は『「康」のままで』と答えたという。「康」を良い字としたのは、『書経』(周書)「洪範」篇に「家用平康」とあり、「家」と「康」はセットであるからであろう」と答えたという。
※曰、「王省惟歳、卿土惟月、師尹惟日。歳月日時無易、百穀用成、 乂用明、俊民用章、家用平康」:曰わく、「王の省るは惟れ歳、卿土は惟れ月、師尹は惟れ日なり。歳・月・日の時、易わること無くんば、百穀用(もち)て成り、 乂(がい。治める人。賢君)用て明らかに、俊民(すぐれた人々。賢臣)用て章(あき)らかに、家用て平(たいら)かに康(やす)し」と。(『書経』(周書)「洪範」篇)
※方広寺の鐘銘は「国家安康」。
普通の武士の名は「家の通字1字+1字」であり、有力武将の名は「現在の主君の1字+家の通字1字」であって、「家康」のように、「家」は源義家の「家」、「康」は松平清康の「康」と、故人の名を使うのは珍しいと思うが、新井白石によれば「異朝の人、名を命ずること、斯くの如し」(外国人の命名法)だという。
或る人問ふ。白石、答へて曰く「御諱、御元服の時、今川義元の元を授け奉りて、元康公と申し奉りしを、後に改めさせ玉ひし時に、「八幡殿の御諱の下の字を上になして、宜しき字を撰みて参らせよ」と仰せられしかば、伊束法師と申す者、「家康」公と名付け参らせ候。是は『書経』「洪範」にあり。「家用平康」と云ふ詞の上下の熟字を取り用ゐたりと見えし。是れ則ち故人の名を撰みし例にして、今も異朝の人、名を命ずること、斯くの如し。誠に目出度き御諱なり」と答へしと也。
■秦滄浪『一宵話』(巻3)「軍法」
この改名の詳細は、秦滄浪『一宵話(ひとよはなし)』(巻3)「軍法」(文化7年(1811年)跋)に載っている。

かけまくもかしこたれど、「神君の御軍法は儒家の流なり」と申し候。是、「其の後、無き事にあらず」と或る人いへり。此の事は、神君、織田殿、御合体の後、清洲にて御対面なしとき、末座に意足居士(いそくこじ)といふ者、居りたりしを、織田殿、「此の居士は八幡殿の軍法の伝を得たる者にて候。為、某(それがし)、学び度(たく)候へども、平氏なれば許さず。公には源家の華冑。その伝をうけ給はばなるべきの(由)」申さる。神君よろこばせ給ひ、岡崎へ連れられ、石川日向守家成など御同学ありき。此の比まで御諱の一字、「元」と申せしが、「家」と改め給ひしも、此の居士がすすめ、名乗らせしとかや。(是は永禄五年壬戌二月廿四日なりとかや。)
居士は尾張の国葉栗郡光明寺に住居し、日向守殿より贈られし書ども、今、此の寺にあり。人よく知る所なり。
■小菅廉等編『尾参宝鑑』
小菅廉等編『尾参宝鑑』(明治30年)にも簡潔に載っている。
松平元康は、「清須同盟」締結のために清須へ行った時、織田信長から「源義家の兵法」を知っている軍師・意足(伊束)法師を紹介されたという(この軍法を伝授された事により、徳川家康の軍法は「儒家の流をなす」と評された)。「源義家の兵法」は、織田信長は平氏なので伝授してもらえないが、松平元康は源氏なので伝授され得るという。そして伝授が終わり、伊束(意足)法師に「源義家の兵法を極めたので、義家の家の一字を受けられよ。敗者・今川義元の元は縁起が悪い」と言われた松平元康はこれに従い、「家康」と改名したという。
証拠は伊束(意足)法師が住職をつとめる安照院光明寺(愛知県一宮市光明寺)蔵の石川家成の手紙である。
七月。元康、名を更めて家康と云ふ。 改名の理由 永禄四年、信長と面会の節、信長曰、「尾張国葉栗郡光明寺村、光明寺住職・意足和尚、兵学に長ずと聞き、吾(信長)、之を学ばんとせしに、八幡太郎義家の兵法を伝授せり。故に源氏に非ざれば、伝へずと。吾は平氏なれば、門弟たるを得ず。御辺は源家に付き、意足に就いて之を学ぶべし」と。元康、意を了し、意足を岡崎に迎へ、師として学ぶ。業を卒ふ。意足曰く「公は、八幡公の兵学を窮(きわ)む故に、義家の一字をも受けらるべし。且つ、義元、滅亡して「元」の字は吉兆に非ず」と。元康、之に従ひ、名を更めて家康と云ふ。
右、光明寺に当時、石川日向守家成より送りし書翰を存す。確証とすべし。
■『尾張志』
光明寺住職・青井意足が、「八幡殿(源義家)の軍法を伝授された上は、『家』の字を取って名乗られよ」と言ったので、そうしたとある。
家康公、大に悦び、岡崎に率いて帰り、悉く其の伝を受けらる。
意足云ふ。「八幡殿の伝を受け給ひぬる上は、義家の字を以て、御諱に用ゐ給へ」と申ししかば、元康を改めて家康と為し給ひしとぞ。
当時、石川日向守家成より意足に与へし書、今に光明寺に蔵せり。