
日神の対島、月神の壱岐
日本の神道では、「八百万の神々がいる」としていますが、原始神道は一神教で、高皇産霊神のみが存在していたそうです。そして、高皇産霊神(任那の神? 任那=高天原?)は日神・天日神命を生んで対馬に、月神・天月神命を生んで壱岐に鎮座させたので、「日神の対島、月神の壱岐」は「日本神道発祥の地」となりました。
その後、北九州勢力の東進により、壱岐の月神は山城国の歌荒樔田、ついで対島の日神は大和国の磐余に祀られたそうです。
┏天日神命:対島の阿麻氐留神社→大和国の磐余
高皇産霊神┫
┗天月神命:壱岐の月読神社 →山城国の歌荒樔田
三年春二月丁巳朔、阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶」。
事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田(歌荒樔田者、在山背国葛野郡也)。壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠。
顕宗天皇即位3年2月1日。阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は、命を受けて、日本を出て、任那(朝鮮半島南部)に使者として行きました。すると月神(ツキノカミ。天月神命)が人間に憑依して言われました。
「我が祖先・高皇産霊(タカミムスビノミコト)は、最初に天地が溶けあっていた天地を想像した功績があるので、民地(かきところ)を我が月神に奉りなさい。もし、私の請うままに献上するならば、福慶(幸福と慶び)があるだろう」
そこで阿閉臣事代は、京に帰って詳しく奏上した。それで歌荒樔田(うたあらすだ。歌荒樔田は山背国葛野郡宇太村のことである)を月神へと奉った。壱岐県主の先祖・押見宿禰(オシミノスクネ)が祠(まつり。祭祀)を行った。
※歌荒樔田の神社:松尾大社境外摂社・月読神社(京都府京都市西京区松室山添町15)
夏四月丙辰朔庚申、日神、著人謂阿閉臣事代曰「以磐余田、獻我祖高皇産靈」。事代、便奏。依神乞獻田十四町、對馬下縣直、侍祠。
顕宗天皇即位3年夏4月5日。日神(ヒノカミ。天日神命)が人間に憑依して阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に言われました。
「磐余(いわれ)の田を我が祖先・高皇産霊に献上しなさい」
そこで阿閉臣事代は、奏上しました。それで日神が乞うままに神田14町を献上しました。対馬下県直(つしましものあがたのあたい)に祠(木嶋坐天照御魂神社)に仕えさせた。
※磐余に神田がある神社:磐余(いわれ)は奈良県桜井市。神社は木嶋坐天照御魂神社(京都府京都市右京区太秦森ケ東町)。
北條勝貴は、『日本書紀』顕宗天皇紀において、阿閉事代という同一人物の関与(コトシロは神の言葉を預かり述べる象徴的な人物を意味するとされる)や、事代に託宣を下すのが高皇産霊命を祖とする月神・日神であるという神格の対応性、祭祀を司る氏族がともに玄界灘の島を本拠とし卜部を出す壱岐・対馬の旧国造系氏族であるという祭祀担当者の対応性からすれば、壱岐・対馬の日神・月神が密接な関係にあることは明らかであり、木嶋坐天照御魂神社が元来対馬氏によって奉祀されていたのか、それとも尾張氏系の氏族によって奉祀されていたのかは不明であるが、顕宗3年2月紀・4月紀に見える、上記のような対応性を考慮すれば、日神を奉祀する木嶋社が葛野の月読神社と地理的に近接している事実は無視できず、日月の両信仰が、ある時期に玄界灘から畿内地方へともに移植され、両社もそれらと軌を一にして創建されたものではないかとしている。
壱岐では、
・天日神命=昼間の航海安全の神
・天月神命=夜間の航海安全の神
でしたが、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)が登場(一説に渡来)し、本来、「天照」の「天(あま)」は「海」であったが、太陽神(日神)に変貌しました。
・天日神命=昼間の航海安全の神→日神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
・天月神命=夜間の航海安全の神→月神・月読尊