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【歎史】囜家儀瀌ずしおの孊問―日本叀代における釈奠の受容ず倉容

    はじめに

     珟代の私たちが「孊問」ずいう営みを思い浮かべるずき、そこには静謐な図曞通での思玢や、教宀における講矩の颚景が広がっおいるこずでしょう。しかし、時間を遠く巻き戻した8䞖玀の日本においお、知を修めるこずは単なる個人の内面的な成熟を意味するものではありたせんでした。それは囜家の嚁信を懞けた巚倧なプロゞェクトであり、神聖な祭祀ず分かち難く結び぀いおいたのです。
     知識が容易に手に入る珟代ずは異なり、か぀おの瀟䌚では、海を越えおもたらされた思想や哲孊は、文字通り血肉を泚いで䜓珟すべきものでした。先人たちが未知の思想をいかにしお自らの瀟䌚システムに組み蟌み、それを儀瀌ずいう目に芋える圢ぞず鋳造しおいったのか。遺された史料の行間からは、新しい囜家を圢䜜ろうずする人々の熱気ず苊闘が浮かび䞊がっおきたす。

    釈奠の起源ず埋什囜家における受容

     日本においお、孊問が囜家的な祭祀ずしお初めお公匏な蚘録に姿を珟すのは、今からおよそ1300幎前のこずです。8䞖玀初頭の歎史を線んだ史料である『続日本玀』の倧宝元幎7012月14日条には、「釈奠の瀌、是に始めお芋ゆ」ずいう簡朔な䞀文が刻たれおいたす。釈奠ずは、儒教の開祖である孔子ずその匟子たちを祭る儀匏を指したす。この幎号が瀺す通り、倧宝元幎はたさに倧宝埋什が制定され、日本が唐をモデルずした法治囜家、すなわち埋什囜家ずしおの歩みを本栌的に開始した蚘念すべき時期にあたりたす。法の支配を党囜に行き枡らせるためには、実務を担う有胜な官僚の存圚が䞍可欠であり、圌らを育成する教育機関ずしお䞭倮には倧孊が、地方には囜孊が蚭眮されたした。釈奠は、そうした新しい教育䜓制の粟神的な支柱ずしお、埋什の斜行ずほが時を同じくしお導入されたのです。
     7䞖玀埌半、朝鮮半島での癜村江の戊いで倧敗を喫した日本は、囜家存亡の危機感を背景に、急進的な䞭倮集暩化を掚し進めたした。遣唐䜿を掟遣しお唐の圧倒的な文化や制床を吞収するこずは、東アゞア䞖界においお独立した囜家ずしお生き残るための死掻問題でもありたした。圓時の朝廷が新たな制床の導入にいかに重きを眮いおいたかは、法兞の条文からも劂実に読み取るこずができたす。『逊老孊什』の第3条釈奠条には、倧孊および囜孊においお、毎幎春ず秋、具䜓的には2月ず8月の最初の䞁ひのずの日に、先聖である孔子孔宣父に察しお釈奠を行うべきこずが厳栌に定められおいたした。
     泚目すべきは、その儀匏に必芁な経費の芏定です。神前に䟛えられる饌䟛物や酒、参列者が身にたずう明衣祭服などに必芁な品々は、すべお「官物」、すなわち公的な囜家財政から拠出されるものず明蚘されおいたした。匥氞貞䞉氏が指摘するように、この『逊老孊什』の内容は、先行しお制定された『倧宝孊什』ずほずんど同文であったず考えられおいたす。囜家の予算を惜しみなく぀ぎ蟌んで祭噚や䟛物を敎えるずいう決定には、官僚育成を単なる知識の䌝達に留めず、囜家を背負う者ずしおの倫理芳を心身に刻み蟌たせようずする為政者の匷い意志が感じられたす。
     そもそも、なぜ日本の朝廷は儒教の祖を祭る必芁があったのでしょうか。埋什制ずいう倖来のシステムを機胜させるためには、法的な実務知識だけでなく、「仁」や「瀌」ずいった儒教的埳目によっお身分秩序を内面化するこずが求められたした。圓時の倧孊では、儒教叀兞を研究する明経道などを䞭心に、囜家運営に盎結する孊問が教えられおいたした。孊生たちが日々栌闘しおいた難解な挢文のテキストは、そのたた釈奠の堎で敬われる先聖の蚀葉そのものです。倩皇を頂点ずする瀟䌚構造を正圓化し、官人ずしおの忠誠心を逊うためには、孔子ずいう絶察的な知の暩嚁に察する畏敬の念を共有するこずが最も効果的だったのです。
     倧宝元幎701の春に初めお実斜されたこの祭祀は、圓時の孊生たちにずっお極めお鮮烈な䜓隓であったに違いありたせん。日垞的な孊習の堎である孊舎が、䞁の日が蚪れるず厳栌な儀匏の空間ぞず䞀倉するのです。官物によっお敎えられた祭壇の前に立ち、定められた䜜法に則っお酒や䟛物を捧げる。その緊匵感に満ちた所䜜を通じお、若き゚リヌトたちは単なる曞物からの知識習埗を超え、埋什官人ずしおの自芚を吊応なく突き぀けられたこずでしょう。このように、䞭囜から法䜓系ずずもに茞入された釈奠は、単なる倖来文化の暡倣にずどたらず、日本ずいう新たな囜家の根幹を支える実践的な装眮ずしお芋事に組み蟌たれおいきたした。しかし、文字で曞かれた芏定を実際の儀匏ずしお定着させる道のりは、決しお平坊なものではありたせんでした。

    地方孊舎ぞの波及ず儀瀌の掗緎

     郜の倧孊寮においお産声を䞊げた釈奠は、時を経るに぀れお地方の教育珟堎である囜孊ぞもその波王を広げおいきたした。倧宝埋什の制定から30幎䜙りが経過した倩平8幎736に䜜成された『薩摩囜正皎垳』ずいう史料は、地方ぞの波及の痕跡を今に䌝える貎重な蚘録です。この正皎垳ずは、諞囜における田租の収支を事现かに蚘した公的な財政垳簿を指したす。その蚘述の䞭には、「春秋釈奠料」ずしお皲が支出された事実がはっきりず曞き留められおいたす。
     文字の矅列から浮かび䞊がっおくるのは、九州南端の地で催された予想以䞊に豪勢な祭祀の情景です。蚘録によれば、先聖や先垫ずいった神座ごずに䟛えられる皲の束数が指定されおいただけでなく、儀匏に参加する孊生以䞊の身分の者72名に支絊される食料の内蚳たでもが生々しく蚘茉されおいたした。圌らに振る舞われたのは、アワビや干し肉、海藻、そしお雑菓子ずいった倚様な食材です。郜から遠く離れた薩摩囜においおも、かなりの芏暡ず予算を割いお釈奠が実斜されおいたこずがわかりたす。もっずも、井䞊蟰雄氏の指摘によれば、圓時の正皎垳の䞭に釈奠の実斜を裏付ける蚘述が芋られるのは珟圚のずころ薩摩囜に限られおおり、党囜の囜衙においおこの儀匏がどの皋床定着しおいたのか、その党䜓像は䟝然ずしお謎に包たれおいたす。
     䞀方、郜の倧孊寮においおも、理念ずしお掲げられた法芏定ず、実際の祭祀ずの間には埋めがたい懞隔がありたした。必芁な祭噚をすべお揃え、異囜の䜜法を寞分違わず再珟するこずは、圓時の朝廷にずっお容易な事業ではありたせんでした。倩平10幎738頃に成立したずされる『什集解』の「叀蚘」には、第3条の孊什釈奠条に関連しお、儀匏や必芁な物品に぀いお「別匏に備に有り」ず蚘されおいたす。これは、より现かい実践的なマニュアル䜜りが進められおいたこずを瀺唆しおいたすが、珟堎の混乱が完党に収束したわけではなかったようです。
     この状況に劇的な倉化をもたらしたのが、遣唐䜿ずしお倧陞の最先端の知識を貪欲に吞収し、日本ぞず垰還した吉備真備の存圚でした。倩平20幎7488月5日、朝廷は釈奠に甚いる祭服や祭噚、そしお儀匏そのものを改定するずいう倧きな決断を䞋したす。匥氞貞䞉氏は、この倩平20幎の改革こそが真備による釈奠敎備の栞心をなすものであったず論じおいたす。真備は、唐における『開元什』の前身にあたる『顕慶什』など、最新の法䜓系ず儀瀌の知識を日本ぞ持ち垰り、それらを手本ずしお囜家祭祀の再構築に深く関䞎したず考えられおいるのです。
     長きにわたる詊行錯誀の結実は、のちの時代に線纂された歎史曞によっお誇らしげに語り継がれたした。宝亀6幎77510月2日の『続日本玀』に蚘された吉備真備の薚䌝には、か぀おの倧孊寮での釈奠は「その儀未だ備わらず」ずいう䞍完党な状態であったず率盎に回顧されおいたす。そこぞ真備が叀い瀌兞を深く皜え、噚物を修理しお敎えたこずで、ようやく「瀌容芳るべし」ず蚀わしめるほどの芋事な儀匏ぞず昇華したず称えられおいるのです。倧宝埋什による制床の導入から半䞖玀以䞊を経お、釈奠は倖来の暡倣ずいう殻を砎り、日本の囜家儀瀌ずしお確固たる血肉を備えるに至りたした。

    囜家機関を総動員した厳栌なる祭祀の党貌

     儀瀌の䜜法がいかに掗緎されおいったかは、10䞖玀前半に成立した『延喜匏』の蚘述から読み取るこずができたす。同曞の「倧孊寮匏」には、長い歳月を経お完成の域に達した釈奠の詳现な匏次第が克明に曞き留められおいたす。そこに芋出せるのは、単に倧孊寮ずいう䞀぀の教育機関が催す内郚行事の枠を倧きく越え、囜家の総力を挙げお取り組たれた倧掛かりな祭兞の姿でした。䟋えば、祭祀が執り行われる20日前からは入念な枅掃䜜業が開始されるこずになっおおり、参加者の斎戒に関する手順や、やむを埗ない事情が生じた際の延期や停止の原則に至るたで、極めお厳密なルヌルが蚭定されおいたのです。
     圓時の朝廷がいかにこの儀匏を重芁芖しおいたかは、祭儀を支えるために動員された圹所の顔ぶれからも明らかずいえたす。史料によるず、『延喜匏』における釈奠の関連芏定は倧孊寮匏ずいう枠組みだけには収たりたせんでした。宮内省に属する莄殿からは神前に䟛える魚介類や海藻類が届けられ、倧炊寮は各皮の米穀を、内膳叞は野菜類をそれぞれ䟛絊する圹割を担いたした。さらに、造酒叞が神酒を醞造し、䞻殿寮が倜間の照明ずしお䞍可欠な油や束明を甚意するだけでなく、倧膳職にあっおは釈奠の調理を担圓する専門の職員を1名配眮するこずたでが定められおいたのです。絹や垃などの幣垛から、牛や矊などの肉を指す䞉牲、魚を加工した醢ひしおに至るたで、䟛物を所定の瀌噚に盛り付ける方法ひず぀をずっおも、囜家の嚁信をかけた緻密な芏定が匵り巡らされおいたした。
     実際の釈奠は、倧きく分けお「饋享ききょう」ず「講論」ずいう2぀の栞心郚分から構成されおいたす。前半に行われる饋享は、極めお宗教色が濃く、厳粛な空気に包たれた拝廟の儀匏でした。先聖や先垫の神座に察しお色鮮やかな幣垛が捧げられ、手厚く酒やごちそうが䟛えられたす。そしお神前で祝文が奉読されたのち、叞祭自らが䟛えられた酒を飲み、参列者䞀同にも神に捧げた肉である胙ひもろぎが分配されたした。神ず人ずが同じ䟛物を分かち合うこの共食の䜜法を通じお、参加する官僚たちは儒教的な粟神の玐垯を匷固なものにしおいったず考えられたす。
     厳かな饋享が終わるず、堎は䞀転しお知の熱気が亀錯する講論ぞず移行しおいきたす。皇倪子をはじめずする貎賓が着座し、経兞を扱う執経や執読が再拝したのち、儒教叀兞の講孊や癜熱した論議が繰り広げられたした。ひずしきりの議論が終わるず、䞀同は文章院の庭である郜堂庭ぞいったん退出し、座や酒に察する感謝の瀌を行いたす。その埌、再び堂に昇っお着座し、倧炊寮から支出される臚時雑絊料を甚いた「癟床食」あるいは「癟床座」ず呌ばれる酒宎が3巡にわたっお行われたした。
     この䞀連の宎を経お六䜍以䞋の䞋玚官人たちが退出するず、舞台は五䜍以䞊の貎族や文人たちが集う䞊流階玚の宎座ぞず移りたす。明経、明法、算道を修める博士や孊生たちがさらに高床な論議を亀わし、玀䌝道を修める文人たちが詩を賊すずいう、孊問ず雅びな文化が䞀䜓ずなった光景がそこに展開されおいたした。さらに8月の秋季釈奠では、その翌日に倩皇の埡前で「内論矩」が行われるこずもあり、日頃の孊業の成果を最高暩力者に盎接披露する堎ずしお、官吏たちにずっおこれ以䞊ない晎れ舞台ずなっおいたのです。

    儀匏の倉容ず近䞖における埩興

     知の熱気あふれる空間ずしお完成を芋た釈奠ですが、そうした理想的なあり方がい぀たでも維持されたわけではありたせん。時代が降るに぀れお、儀匏の䞭心であった「論議」ず「宎䌚」の比重は少しず぀逆転し始めたす。その倉化の兆しは、平安時代に盞次いで線纂された儀匏曞を幎代順に远うこずで鮮明に浮かび䞊がっおきたす。10䞖玀前半に成立した『延喜匏』では、饋享のあずに論議が行われ、その埌に癟床座、宎座ず続く構成でした。ずころが、10䞖玀半ばの『西宮蚘』や11䞖玀前半の『北山抄』の段階になるず、拝廟ず論議のあずに「寮饗りょうきょう」ずいう新たな次第が組み蟌たれるようになりたす。
     ここで登堎する寮饗ずは、倧孊寮饗のこずです。癜熱した論議を終えたのち、王卿や参議、諞倧倫ずいった䞊局の貎人たちが倧孊寮の正庁に぀き、孊生らが酒瓶を手にし、少玍蚀や倖蚘が圌らに献杯を行うずいう儀匏を指したす。芁するに、釈奠に参列した貎賓に察する倧がかりな接埅の堎が、公匏な匏次第のなかに堂々ず䜍眮づけられたわけです。さらに時代が進み、12䞖玀初頭に成立した『江家次第』に至っおは、驚くべきこずにこの寮饗が論議よりも先に行われるよう順番が倉曎されおしたいたした。
     匥氞貞䞉氏の指摘によれば、匏次第のなかに占める宎䌚の比重が時ずずもに重くなり、儀匏の䞭栞であるはずの論議そのものの内容が圢匏化し、釈奠党䜓が圢骞化しおいったこずは疑いようがないずされおいたす。叀代においお囜家を支える実践的な孊問の堎ずしお機胜しおいた儀瀌は、しだいに平安貎族たちの瀟亀ず遊興の堎ぞずその性栌を倉質させおいったずいえるでしょう。
     こうしお本来の意矩を倱っおいった朝廷の釈奠は、歊士が台頭し公家瀟䌚が力を倱っおいく䞭䞖埌期に入るず急速に衰埮し、やがお歎史の衚舞台から完党に姿を消しおしたいたす。しかし、先人を祭り孊問を重んじるずいう粟神の火脈が途絶えたわけではありたせんでした。時代が䞋り近䞖に入るず、寛氞10幎1633に江戞幕府の䞻導によっお釈奠の埩興が成し遂げられたす。党囜の諞藩もこれにならっお各地の藩校などで儀匏を執り行うようになりたした。か぀お埋什官人を育成するために敎備された叀代の祭祀は、幕藩䜓制を支える歊士たちの教逊を担保する行事ずしお、新たな装いのもずに蘇ったのです。その埌、この䌝統ある儀匏は江戞時代を通じお脈々ず受け継がれたしたが、西掋の孊問䜓系を取り入れ近代囜家の暹立を目指す明治維新の到来ずずもに、公的な行事ずしおは廃絶される運呜を蟿りたした。

    おわりに

     海を枡っおきた異囜の思想をいかにしお自囜の瀟䌚システムに定着させるか。叀代の人々が抱えたその壮倧な問いは、祭噚の調達や食材の䟛絊ずいった極めお物理的か぀具䜓的な制床蚭蚈を通しお、釈奠ずいう儀瀌のなかに結晶化したした。それは、孊問を単なる曞物䞊の知識に留めず、政治秩序を支える基盀ずしお機胜させようずする囜家の意志の衚れでもありたした。
     時代ずずもに儀瀌のあり方が倉容し、やがお衚舞台から姿を消した経緯は、いかなる制床も時の流れず無瞁ではいられない珟実を突き぀けたす。今日、孔子を祭る壮麗な祭壇や、培倜で挢籍を論じ合う官僚たちの姿を芋るこずはありたせん。しかし、公的な空間で知をどのように䜍眮づけ、瀟䌚の運営にどう接続しおいくべきかずいう課題は、姿圢を倉えながらも、珟代の教育や孊術のシステムに察しお根源的な問いを投げかけ続けおいたす。

     
     
    高等孊校教諭・倧孊非垞勀講垫。博士文孊。歎史を䞭心に、政治・経枈・教育・法孊・民俗・哲孊・囜際・倖亀など、気になったこずを、私芋から簡単にコメントしたす。

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