
雑草を抜くか、共に生きるか。畑で起きる毎日のドラマ
ども!京都・京丹波の農家、たけみファームのtakemiです。
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9月に入り、10月中旬に収穫を迎える「幻の黒枝豆」の畑は、いよいよ生命力が爆発しています。
そして、黒豆の成長と同時に、私を毎日限界まで泥まみれにさせるのが「雑草」との終わりのない戦いです。
今日は、
綺麗事だけでは済まされない畑の最前線で起きている、
「雑草」という存在への葛藤とアツいドラマについてお話しさせてください。
雑草は「絶対悪」なのか?
農業において、作物の養分や日光を奪ってしまう雑草は、
基本的に「悪」として扱われます。
現代のスマートな農業では、
除草剤を使ってピシッと雑草ゼロの綺麗な畑を作るのが一般的です。
私も以前正直にお話しした通り、
面積が広すぎて自分の手だけではどうしても手が回らず、一部の畑では薬の力に頼ってしまっている現実があります。
農家として、そこは嘘をつかずにお伝えしておきたい部分です。
ただ、
自らの手で限界まで泥だらけになって草をむしっていると、
ふと気づくことがあります。
それは、「雑草もまた、この生態系を構成する大切な命の一つである」というごまかしの効かない事実です。
排除するのではなく「余白」をつくる
雑草が根を張ることで、土壌が流されるのを防いだり、
多様な虫たちの居場所になったりして、
結果的に畑全体の自然のバランス(生態系)が保たれている側面も確実にあります。
だからこそ、
私が目指しているのは、
薬で強引にすべてを「排除・コントロール」することではありません。
黒豆が自力で力強く根を張り、
太陽の光を浴びて成長するための「最低限の余白」を、
人間の手と汗で泥臭く作ってあげること。
それが、私が限界まで草むしりをする理由です。
「ここまでは手作業で抜く」
「ここから先は自然のバランスに任せる」
という、ギリギリのラインでのせめぎ合い。
それは毎日が、命と命がぶつかり合うドラマの連続です。
理学療法士として見てきた「痛み」との付き合い方
この「雑草との向き合い方」は、私が理学療法士として人間の身体を診てきた時の感覚とすごく似ています。
患者さんの身体の「痛み」や「不調」を、
薬で完全にゼロ(無感覚)にコントロールしようとすると、
かえって他の部分に歪みが出たり、
本来の治癒力が落ちてしまうことがよくありました。
大切なのは、痛みを「絶対悪」として排除するのではなく、
なぜそこが痛むのかを受け入れ、
どこにGAPが生じているか、乖離があるかを見極めていく。
身体全体のバランス(生態系)を整えながら「共に生きていく」方法を探ることです。
畑の雑草も、人間の抱える痛みや弱さも、
強引に排除しようとするのではなく、
それとどうバランスを取りながら「生きた循環」を作っていくかが大切なんだと、泥だらけの長靴が教えてくれます。
社会で戦うあなたの「雑草」とは?
社会の中で一生懸命に生きていると
、自分の中の「弱さ」や、
人間関係での「ノイズ」など、
排除してしまいたい雑草のような存在に出会うことがあると思います。
でも、それをゼロにするために無理をして心を削るのではなく、
自分が力強く根を張るための「余白」さえ確保できれば、
案外それらと共に生きていくのも悪くないのかもしれません。
限界まで汗を流して草と取っ組み合った日の夜、
少し虫食いのある葉っぱを思い出しながら飲むビールの旨さは、
最高に「生きている実感」を与えてくれます。
あなたが今、どうしても排除したいと思っている「雑草」は、
見方を変えれば、
あなた自身の生態系を豊かにしてくれる一部になる可能性はありますか?