
中国への逆浸透工作を構想した吉田茂の戦略構想の成果と限界
1950年に北朝鮮による韓国侵攻によって始まった朝鮮戦争は、米国が韓国に来援し、また中国が北朝鮮に来援したことで、大規模な地域戦争に発展しました。日本は当時まだ米軍の占領下に置かれていましたが、韓国軍と米軍の作戦を支援するために必要な軍需品の供給国となり、また警察予備隊を発足させて防衛力の整備を開始するなど、情勢の変化に機敏に適応しています。
吉田茂首相は、中国の脅威に対応する戦略について早くから検討しており、情報活動(インテリジェンス)のアプローチを軸にした対中国戦略を実行できないか考えるようになりました。つまり、日本から中国へ工作員を送り込んで中国共産党の体制を動揺させるという逆浸透を構想したのです。
1951年1月、吉田茂は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の情報部で日本人工作員の獲得と運用に従事していたジャック・キャノン(Jack Y Canon)と延禎(Yon Yan)を自宅に招待し、日本が独自の情報機関を持てるように助言を提供することを依頼しています(井上「吉田茂の中国「逆浸透」構想」41頁)。
この情報機関を統括する役割を果たす人物として期待されていたのが緒方竹虎であり、1944年から1945年まで内閣直属の情報局で総裁を務め、戦後にGHQによって公職から追放されていました。しかし、吉田は緒方を高く評価しており、1951年に公職追放が解除されてからは、彼を中心にして日本の情報機関を発展させることを推進し、その顧問としては情報勤務の経験が豊富な元陸軍軍人の辰巳栄一を充てるなど、人事にも注意を払っています(同上、44頁)。
吉田は日米の連携に基づいて情報能力を高めることを目指していました。1951年12月には米国務省顧問ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)に宛てた書簡の中で、中国内部に工作員を送り込み、中国各地で反共運動を支援させる逆浸透工作というアプローチを提案するなど、日本の取り組みへの理解と協力を求めています(同上、36頁)。
1952年4月9日に内閣総理大臣官房調査室(以下内調)が設置され、総理秘書官であった村井順が初代室長に就任したことで、情報活動を展開するための組織構造が立ち上がりました(同上、41頁)。5月22日に駐日大使のロバート・マーフィー(Robert D. Murphy)との会談で吉田は改めて「日本人は中国における第五列として有用である」、「中国本土に価値ある伝手を持っているかなり多数の日本人は、多くの地域での活動に利用することができよう」と主張し、自らの戦略構想に自信があることを米国に伝えています(同上、38頁)。