
追悼 村上龍さんを偲んで
村上龍さんが亡くなられた。村上さんは2000年代、ひきこもりをテーマとした小説『共生虫』や『最後の家族』、不登校生徒の反乱をテーマとした『希望の国のエクソダス』、ニートの増加を意識しつつの『13歳のハローワーク』といった作品群を次々の世に問うていた。
私は最初の小説『共生虫』を読み、ひきこもり青年が犯罪を犯すという当時流布していた紋切り型の引きこもりイメージを強化しかねない内容を批判した。それが①の文章である。
その批判を知ってか知らずか、村上さんは私にひきこもりについての取材を申し込み、私の意見も取り入れた上で『最後の家族』を発表した(同時期にテレビ朝日のドラマにもなった)。文庫化に際しては私が解説を依頼されたので、一連の経緯を含めて詳しく記した。それが②の文章である。村上さんについてはさまざまな評価がありうるとは思うが、少なくともその誠実な一面については疑う余地がないと私は感じた。よってここに二つの文章を公開する。
①『ひきこもり』について述べておきたいこと
村上龍の最新刊「共生虫」を読んだ。これは、きわめて恐ろしい作品である。何が恐ろしいと言って、「続発している少年犯罪の深層を予言」とか評価されそうな点が恐ろしい。時代の先端をフォローし続ける作家の感性、みたいな記事がすでに朝日新聞に載っていたりすることも恐ろしい。しかし最大の恐怖は、ひょっとしたらこの作品が、村上自身の手によって映画化されてしまうのではないか、ということだ。そうこうする間にも、佐賀では17歳のバスジャック事件が起こってしまった。ひきこもり・インターネット・殺人があつらえたように揃っている。村上龍、ちょっと時代を予言しすぎではないか。
その後いくつかの作家インタビューや対談が出て、それらを読む限りでは、村上はこの作品が「ひきこもり」をモチーフとしていることを認めている。ただ不思議なのは、あの勉強家で知られる作家が一切の資料を参照せず、想像力だけでこれを書いたという点だ。この作品はインターネット上で試験的に販売され、また作品専用のホームページには作家インタビューのほか、主人公ウエハラへの心理学者からの手紙、毒ガス専門家との対談、寄生虫学の専門家による「共生虫実在の可能性」なる文章まで掲載されている。最後の文章ではきわめて誠実に共生虫のような生物の存在可能性が否定されている。これは作家の側のユーモアもしくは配慮なのかも知れないが、それなら「ひきこもり」と犯罪の関連性についての専門家による検証も必要ではなかろうか。
ところで私の精神科医としての専門が「ひきこもり」である。一連の事件で、ひきこもるわが子を抱えた家族や本人の中には、偏見への恐怖からパニックに陥っている事例もある。私は一貫してひきこもりと犯罪の関連性を否定すべく、各種メディアに露出してきたが、いささか徒労を感じないでもない。たとえばひきこもり青年はインターネットにはまりやすい、といった明かな誤解を、専門家ですら口にするのだ。彼らのほとんどがインターネットに無関心であるか、反発を感じている事実にもかかわらず。何故かおわかりだろうか。彼らは「インターネットにはまるひきこもり青年」という凡庸なイメージにまず反発する。ある事例は、ネット活動の楽しさを勧める私に、いみじくもこう言い放った。「だって先生、それは本物のコミュニケーションじゃないでしょう」。そう、ひきこもりについて世間がどんなイメージを持っているか、彼らはきわめて冷静に理解している。
犯罪との関連性については、私がこれまで治療的に関わり得た事例300例あまり、初診のみのケースを含めて1000例あまりの事例のうち、深刻な犯罪に至った事例が一例もないという事実をまず記しておこう。もちろん家庭内暴力をはじめとして、彼らが暴力とはまったく無縁であるというつもりはない。しかし彼らの暴力は、村上氏の描写のように文学的なものではない。ひきこもることへの葛藤、暴力を振るってしまった後の自責などは、かなりの人が共感できる類のものだ。あるいは長期間ひきこもっていた人間が外出するとき、彼らはほとんど必ず、近所の住民やすれ違う人たちの視線を恐怖するだろう。彼らの攻撃性が自分自身、あるいは家族に向けられることは少なくないが、その攻撃性は外の世界への過剰なまでの臆病さと表裏のものなのだ。このように彼らの内面には一種のわかりやすさが一貫してあるのだが、村上氏の描写はむしろ、こうした「わかりやすさ」「凡庸さ」を極力排除することで成り立っている。そこではむしろ「ひきこもり」の異物性が過度に強調されてしまう。
ある批評家は村上龍の小説には肯定しかない、と指摘した。つまりこの作家は、良かれ悪しかれその過剰なイメージの力を武器にするのだ。イメージに否定がないとはヴィトゲンシュタインの有名な指摘である。彼の小説があれほど素晴らしかったこと、そしてそのエッセイや対談、さらにはかの映画製作については誰もが口をつぐむか、つぐんだ口の端から失笑をもらすかするという、そのギャップとは何か。つまり、村上氏の表現が、否定の契機を必要とする表現においては無効化してしまうということではないか。否定の契機とはすなわち、精神分析的態度のことである。別に分析家でなくとも、すぐれた批評家はある種の分析家以上に、この能力を必然的に負わされているものだ。しかるに村上氏には、この分析のドライブが決定的に欠けている。
村上氏が得意とするのは、人間を動物化することだ。その限りにおいて、彼は人間主義ではないし、その過激さがドゥルーズの「動物になること」に似て見えたとしても不思議ではない。例えば「コインロッカー・ベイビーズ」の冒頭部分。これから子供を捨てにゆく女性の一連の所作、あの素晴らしく緊張感をはらんだ描写はまごうことなき小説の快楽だった。彼の筆致は生態学者のそれのように、淡々と観察し淡々と記述する。その記述が私小説的な共感を欠いた「人間の雌」の存在感を立ち上げる。分析の視点が存在しないことが、この時点では武器になり得たのである。
なぜ「ひきこもり」が起こるのか、もちろん私なりの見解はあるにせよ、本当のところは誰にも分からない。ただ、村上氏自身もインタビューで指摘するように、ひきこもりに社会の変化が反映されていること、これはほぼ間違いない。そして社会性、時代性がもっとも如実に反映される病理が「ヒステリー」なのである。私はひきこもり問題にも、こうしたヒステリー性が関与することをほぼ確信している。そうだとすれば、ここには「分析」の視点は不可欠なものになる。予言者としての村上氏の資質は、分析と批評の能力を犠牲にすることで成り立っている可能性を、私はあらためて指摘しておきたい。それゆえ小説「共生虫」は、むしろ分析の対象という価値において評価されるべき作品なのだ。
② 村上龍「最後の家族」文庫解説
リアルで厳密で、すこし寂しい希望を
私の知る限り、村上龍はこれまでに2度、小説のテーマに「ひきこもり」を取り上げている。1度目は『共生虫』、2度目がこの『最後の家族』だ。
なぜ村上さんは、同じテーマを2度取り上げなければならなかったのか。私の知る限り、その理由は村上さんの誠実さ以外の何ものでもないように思われる。どういうことだろうか。私の個人的体験から語りうる範囲で、その経緯についてあれこれと推測してみよう。
私はいちおう、「ひきこもり」治療を専門とする精神科医ということになっている。そうした立場から、メディア上でも「ひきこもり」について啓蒙的発言をする機会が多い。『共生虫』が出版された際にも、それが「ひきこもり」を扱っているからという理由だけで、私のところにもいくつか書評依頼が来た。そして私は、みずからの役割に忠実に、つまり政治的・啓蒙的意図から『共生虫』批判を繰り返したのだった。
なぜ批判しなければならなかったのか。この物語の粗筋はご存じのとおり、ひきこもり青年「ウエハラ」が、かつて目撃した「共生虫」の記憶を、インターネット上のやりとりから特権的な体験であると吹き込まれ、ついには自分の家族やネット上で彼を挑発した相手を殺害するに至るというものだ。この小説の連載は、いわゆる「ひきこもり」がメディア上で話題になりはじめた2000年以前、正確には1998年から「群像」誌上で開始されていたため、またしても村上龍が時代を先取りしたと話題になったものだ。
私はしかし、そこに反映された「時代」なるものが、あくまでも「マスメディアに反映された時代」でしかないという印象を持った。「ひきこもり」のリアルな現実が反映されていないのは仕方ないにしても、それがあらぬ誤解を助長する可能性をおそれたのだ。さきの粗筋を読んだ方にはすぐおわかりのとおり、これは「ひきこもり」「インターネット」「犯罪」の三題噺として読むこともできる。こうした組み合わせは、「ひきこもり」が問題視され始めた最初期の段階で、マスコミ上に流布した典型的誤解のパターンだった。
ひきこもり治療の現場にいるものの眼には、そのような現実が映ってはいない−−ただし私は必ずしも「現場が常に正しい」と言いたいわけではない−−にもかかわらず、これが一般的な「ひきこもり」イメージとして流布してしまうことは、啓蒙活動を展開する上で非常に困る。もっとも村上さんは、共生虫を書くに際して、いっさい取材もせず、資料も参照しなかったらしい。しかしそれは、不正確であることの言い訳である以上に、逆説的な意味で小説の予言的価値を高めてしまうのではないか。言うまでもなく予言とは、無根拠で少し不正確であるくらいのほうが信じ込まれやすいのだから。
ともあれ、そのようなわけで、私は心ならずも『共生虫』の批判者として振る舞わざるを得なかった。きわめて物語になりにくい「ひきこもり」という素材から、かくも特異な物語世界を構築してしまう作家の豪腕に内心舌を巻きつつも、あえてひきこもりスポークスマンとして振る舞ったのだ。おそらく村上さんは、そうした私の批判についてもご存じだったにちがいない。
まだ誰にも話したことはないのだが、驚いたことに、実は私は村上ファンだった。デビュー作『限りなく透明に近いブルー』の斬新さに驚嘆し、続く『コインロッカー・ベイビーズ』と『テニスボーイの憂欝』で、すでに村上ファンとしての私の立場は揺るぎないものになっていた。にもかかわらず、私がはじめて村上龍について書いた文章が結果的に批判となってしまったことで、私はいささか憂鬱だった。しかし、なにが幸運になるかわからない。結果的に、私は(おそらく)批判したがゆえに村上さんと面識を得るという幸運に恵まれたのだから。
2001年某日、村上さんの担当編集者である石原さんからメールが届いた。村上さんが新作を執筆するに際して「ひきこもり」についての取材に応じてほしいという内容だった。むろん私に異存があろうはずはない。ただし、私は少しいたずらっ気を起こした。取材場所を新宿の「ロフトプラスワン」に指定したのだ。そう、当日はちょうど私のトークライブの日でもあり、あわよくばスペシャルゲストとして参加していただこうという肚づもりだったのである。もちろんそんなことは先刻承知で、村上さんは会場に現れた。一通り取材を終えてからイベントは開幕し、一呼吸おいて「では本日のゲストを紹介します。村上龍さんです」とアナウンスしたときに上がった歓声とどよめきは、お前らは本当に俺の話を聞きに来たのかと問いつめたいほどの…。いやまあ、そんなことはどうでもよろしい。村上さんは超多忙な中、そんなマイナーなイベントのために1時間近くも熱心に喋ってくれた。おそらく私が主催したイベント中、もっともメジャーなゲストを偶然目撃した(村上さんの登場は事前に告知されていなかった)観客の多くは、さぞかし幸運を噛みしめたにちがいない。本書『最後の家族』にまつわる、ささやかなエピソードである。
『最後の家族』執筆に際しては、巻末を参照すればわかるとおり、村上さんは徹底して綿密な取材を行った。本作は、これも周知のとおり、村上龍がはじめて同名のテレビドラマの脚本を手がけたということでも知られている。私はテレビ朝日のHP上でドラマの内容に連動したエッセイを担当した関係上、めっきり見なくなっていたテレビドラマも久々に見ることになった。テレビ映えする派手さに欠けるぶん、娯楽としてどうかという批判もありうるだろうけれど、私は臨床家としてこのドラマを高く評価した。家庭内暴力をふるわれそうになった樋口可南子が、息子に毅然として対峙するシーンなど、多くの家族にもぜひ見せたいものだと感じ入るほどの演技だった。
おそらく村上さんは、本書も、本書とテレビドラマの連動企画も、かなり啓蒙的な意図を持ってかかわったのではないか。そして、その意図には、われわれ臨床家サイドへの誠実な応答という意味合いも込められていたのではなかっただろうか。もしそうだったとすれば、村上さんはメディア人としての責任を完璧に果たしたのだ。みずからが蒔いたかもしれない誤解の種をきっちり刈り取った上に、新たな問題提起までしていったのだから。
私はこの小説を、まずゲラで読み、ドラマ放映と平行して読み、今回の解説を書くに際して読んだ。都合3回読んだことになるが、読めば読むほどその構成の巧みさ、周到さに感じ入る。いわば村上龍の職人的手腕が光る作品なのだ。私は本書で、村上龍の小説家としての「技術」をたっぷりと堪能した。
おそらく多くの村上ファンは、氏の小説を、その破天荒なテーマとそれをリアルに描ききる濃密な文章を期待しつつ読んでいるのではないだろうか。実は私もそうだった。そのような期待を優先する読者にとって、本書は良くまとまってはいるものの、いささか物足りない作品のように感じられるかもしれない。村上印とも言うべきセックス&バイオレンスはぐっと控えめになり、実直な登場人物のつつましい暮らしぶりが、抑制された筆致で淡々と描写される。しかし私には、このような作品においてこそ、村上龍の小説作法を味わう楽しみが際だってくるように思われる。
本書で、いちばん魅力的でキャラが立っていると感じられるのは、延江という大工の青年だ。この青年の存在が、小説世界の倫理的なバランスの一方を担っているおかげで、世界観の風通しが良くなっているように感ずる。やはりこういう、ちょっと動物的な要素を持つ人間を描かせると、村上龍は圧倒的に上手い。粘着的な「意識の流れ」と決別し、じかに世界を感じ、また感じたままに世界に対して働きかける動物のような人間を描くことにかけては、もっとも卓越した小説家のひとりと言ってよいだろう。あの素晴らしい『テニスボーイの憂欝』がそうだったように。
そんな村上龍が、自意識過剰の典型のような「ひきこもり」を描く。それも私のような、いっぱしの批評家きどりの小うるさい精神科医にまで取材して、とことん正確さに配慮したものを書こうとする。私の『共生虫』批判にこたえて、と憶測するのはさすがにうぬぼれが過ぎようが、私はとりあえず、そのように本作を受けとめた。『希望の国のエクソダス』では不登校をテーマにした村上氏のことだから、不登校のOBたる「ひきこもり」についても、しっかり落とし前をつけようとしたにちがいない。とはいえ、すでに扱ったテーマでもうひとつ作品を書くのは、小説家にとってはけっこう気が重い作業なのではないか。加えて臨床家からの助言は、村上さんの奔放な想像力にとっては足枷でもあったことだろう。それゆえこの小説は、村上さんにとって純粋な創作の衝動というよりは、むしろ社会的な義務感に基づいて書かれたものだったように思われる。だとすれば村上さんは、この小説をみずからの作家としての技術だけで書き上げなければならなかったはずだ。
「村上龍」が才能豊かな作家であることは誰でも知っている。しかし、これほど技巧的な作家であることは、案外知られていなかったのではないか。私の無遠慮な憶測が正しいとすれば、技術だけで書かれた本作は村上龍の小説作法を楽しむ上では、むしろ格好の作品たり得ているように思われる。以下、私に判る範囲で、そのテクニシャンぶりを具体的に見てゆこう。
そもそも「ひきこもり」は小説の題材にはなりにくい。他者との出会いが起こらない彼らの世界は、あらゆる物語から徹底して見放されている。誤解なきよう注釈しておくが、そこには「自分自身という他者との出会い」すらも欠けていることが多いのだ。それゆえ言ってみれば、悲劇ですらあり得ないのが彼らの悲劇にほかならない。そんな彼らを、なんとか物語のほうへと拉致するにはどうすればよいか。パターンはおのずと限られてくる。ひきこもった挙げ句に妄想をふくらませ、犯罪に至るという破壊のコースか、外部から何者かによって救済がもたらされるという癒しのコースか、いずれかしかない。少なくとも私の知る限り、これまでに発表された「ひきこもり」を主題とする小説や映画は、このいずれかだ。強いてこれに付け加えるなら、あとはひきこもり経験者が自らの生育歴を語るという、ごく控えめな「物語」くらいか。なかには玉井雪雄の漫画『オメガトライブ』のように、ひきこもり青年が人類進化の鍵を握っていたというとんでもないものもあるが、この作品は結果的に、「ひきこもり」を置き去りにして暴走を始めてしまった。
村上さんの凄いところは、ひきこもっている本人が妄想を抱き、その妄想を通じて救済の契機をつかむという、みごとにアクロバティックな展開を発案したことだ。この卓抜なアイディアを核として、その周囲に登場人物たちが、つまり「家族」が周到に配置される。リストラにおびえつつも必死で家族を守ろうとする実直な父親・秀吉。家族を大切にしながらも若いボーイフレンドとの逢瀬を楽しむ母親・昭子。「ギャル」的な部分を持ちながらも、将来については案外しっかりした考えを持つ妹・知美。むろん彼らは少しずつ理想化されてはいるが、現実離れした存在というほどではない。
ひきこもっている当事者が事件に巻き込まれる。まずここまでが一苦労なのだ。この点についてはさしもの村上さんも、青年がカメラを趣味としており、望遠レンズで隣家を覗いているという設定にせざるを得なかった。私がこの物語に精神科医として唯一違和感を感ずるとすれば、この部分である。一般にひきこもりの青年たちは、このような形で外界を覗くことを好まない。レンズ越しであれ外を眺めることは、どうしても外から覗かれてしまう、世間に自分のことが知られてしまうという恐怖を呼びさます。このため彼らは外を「覗く」ことすらしようとしないことが多いのだ。もっとも、あの傑作ドラマ『池袋ウェストゲートパーク』ですらも、ひきこもりを扱った回では、青年が窓から望遠鏡で外を覗いていて、やはり犯罪を目撃してしまうという発端を捏造せざるを得なかった。物語を駆動する最小限の嘘として、これは十分に許容範囲と言えるだろう。
しかし、ここから先の展開は、まさに職人芸としか言いようがないほど緻密に構築されている。とりわけ秀樹が目撃するのが犯罪ではなく、隣家のDVであるとした点は、決定的なまでに重要だ。何度考えても、このアイディアの巧妙さには舌を巻かずにはいられない。もしひきこもり青年が自発的に行動を起こし得るとすれば、主に2種類の動機が考えられる。ひとつは「社会正義」であり、もうひとつは「性」だ。DVの現場を目撃し、その被害者の裸を思い浮かべながらも、彼女を救いたいと強く願うこと。その願いは妄想と紙一重ながらも、かろうじて社会正義の大義名分に一致する。それゆえ秀樹が唐突なまでに異様な行動力を発揮することも、ごく自然ななりゆきにみえるのだ。
ひきこもり小説で一番難しいのは、おそらく「主人公をいかにして動機付けるか」という点だろう。この点に失敗すると、小説全体のリアリティが決定的に損なわれてしまう。実際、秀樹に行動させる動機付けとして、私もあれこれ考えてはみたのだが、荒唐無稽にならない範囲で、どうしても本書以上のきっかけを思いつくことができなかった。作家の想像力にかなわないのは当然としても、作家的想像力とはただ奔放であるのみならず、強靱な常識に裏打ちされている必要があると、つくづく思い知らされることになった。『共生虫』では、あれほど縦横に発揮された想像力が、本作ではとことん抑制され、にもかかわらずリアルな物語(エンターテインメント)になり得ている。この振幅こそが、作家・村上龍の膂力なのだ。
解説でこれ以上書きすぎるのはネタバレになってしまいかねないから、ほどほどにしておくが、「DVの被害者を救いたい」という秀樹の願いと行動が、最終的に厳しい自己洞察に至るまでの流れは、彼が「現実」を受け入れる契機として際だったリアリティがある。のみならず秀樹の洞察は、「救う、救われるという関係を疑う」あるいは「親しい人の自立は近くにいる人を救う」というテーマと共振しつつ、彼の家族それぞれに対しても救済と解放を同時にもたらす。家族が終わることによって、存続していくという結末は、一抹の寂しさをともなった希望となるだろう。おそらく内山家のような選択を、現実に多くの家族が選ぶとは考えにくい。しかし形骸化した「家族」が問題の温床となっているのなら、いちどそれを解体し、もたれ合わない家族という形を想像してみることは、多くの当事者にとってもリアルな希望を与えてくれるのではないだろうか。
それにしても今回ばかりは、「村上龍ファンとしての私」と「臨床家としての私」の間にみじんも葛藤はない。喜ばしさのあまり、つい語りすぎてしまった。さあ、もう野暮な臨床家は退場するとしよう。この文庫化を機会に、ひきこもり当事者を苦しめる「世間」や「正論」を少しずつ変質させていくきっかけとして、本書が再び広く読まれることを期待します。