
【旅ログ】阿野全成ゆかりの大泉寺【源氏シリーズ】
2026年8月8日静岡県沼津市へ帰省しました。
沼津へ向かう車窓から眺める海が昔から好きです。今回はせっかくの帰省ということもあり、実家の近くにある
阿野全成ゆかりの寺院「大泉寺」を訪ねることにしました。




駅トイレのステンドグラス
沼津・大泉寺を訪ねて
愛鷹山麓に沿って沼津から富士へ抜ける根方街道沿い東井出に大泉寺 があります。
士詠山 大泉寺(静岡県沼津市東井出744)
宗派 曹洞宗永平寺派
本尊 聖観音
開基 阿野全成
札所所 駿豆両国横道 第16番観音霊場
文化財 阿野全成、阿野時元の墓(市指定史跡)

源氏一門・阿野全成ゆかりの寺院
成り立ち
大泉寺の開基は、阿野全成(あのぜんじょう)とされています。
全成は、源頼朝とは異母兄弟、源義経とは同母兄弟にあたる人物です。父・源義朝が平治の乱(1159年)で敗死した後、少年だった今若(後の阿野全成)は醍醐寺に預けられ、出家しました。
その後、1180年に源頼朝が挙兵すると、そのもとに加わり功績をあげます。
やがて頼朝から与えられたのが、この地域に広がる阿野荘でした。全成はこの地に館を構え、源氏一門の霊を弔うために真言宗の寺院を建立します。
これが大泉寺の始まりと伝えられています。





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『公暁供養塔』
公暁(くぎょう、またはこうぎょう一二〇〇~一二ー九)は、鎌合様府二代将軍・源頼家の子として生まれました。
元久元年(一二〇四)に頼家が失脚、修道に閉されたのち暗殺され、公暁は心ならずも仏門に入ります。
後に鶴岡八幡宮の別当となるも、建保七年(一二一九)、叔父に当たる三代将軍・源実朝を右大臣拝賀の儀式を終えて社殿を出たところで暗殺、自身も直後に討たれました。
将軍家の血統でありながら、政治闘争に翻弄された青年の最期は、鎌倉時代の権力構造の陰影を今に伝えています。
大泉寺には公暁の位牌が伝わっており、代々供養されてきました。公暁には鎌倉を含め全国に墓所が伝わっていません。今和七年(二〇二五)、歴史に埋もれた一命を悼む声があがり、クラウドファンディングなどを通じて、大泉寺に供養塔の対立が実現しました。建立に際し、鎌倉市の鶴岡八幡宮から境内の土をご提供いただき、塔内に埋納しております。
本塔が、理不尽な運命に苦しんだ青年の霊を静かに慰める場となることを願います。



『伝 阿野全成・時元墓』
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡流源義朝の七男です。鎌倉幕府を聞いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
平治の乱で義朝は敗死し、常盤御前は今若、乙若、牛若の三児を連れて逃れ、後に助命されました。今若は山城国の醍醐寺に預けられ出家して全成と改名しましたが、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれました。
治永四年(一一八〇)、頼朝が挙兵するや、全成はひそかに寺を抜け出し、修行をよそおいながら頼朝のもとに参じました。
頼朝は、その志に涙して感動したといわれます。後に駿河国阿野庄(現在の沼津市東原・今沢から植田・富士市境付近まで)を与えられて井出に居館を構えたとされ、大泉寺がその館跡であるといわれています。
頼朝の死後、建仁三年(一二〇三)五月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕えられ常陸国へ配流となり、同年六月二十三日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
その後、全成の遺児時元も承久元年(一二一九)二月十一日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵をさしむけ、交戦十日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。
蒸は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
阿野全成の最期と大泉寺に残る伝説
1199年源頼朝が亡くなると、長男の頼家が跡を継ぎました。
阿野全成の妻は、北条政子の妹にあたる阿波局です。
阿波局は頼朝の次男・源実朝の乳母を務めた女性でもあります。
全成は、頼家と対立し実朝を支持する立場にあったとされています。
そして1203年、全成は頼家によって謀反人として捕らえられ、下野国(現在の栃木県)で誅殺されました。
このとき、全成の首が一夜にして大泉寺の松の枝にかかったという伝説が残されています。





今回の訪問ではガイドの方に詳しくお話を伺うことができ歴史への理解も深まりました。
地元にいながら知らなかった歴史に触れとても充実した時間となりました!