
時間をかける少女
17歳の蒼井明日香は、宇宙船の操縦席から青い地球を眺めていた。
これから向かうのは、ブラックホールの近傍。
今回の任務は、強大な重力によって時間の進み方が変化する現象、いわゆる「ウラシマ効果」を観測することだった。
ブラックホールに近づくほど、ほんの数時間の航行が、地球では何日、何年にもなる可能性がある。
「行ってきます」
明日香は通信モニターに映る管制室へ手を振った。
***
ブラックホールが近づいてきた。
星の光が歪み、宇宙そのものが引き伸ばされていく。
突然、警告音が鳴り響き、宇宙船が激しく揺れる。
明日香は操縦桿を握りしめた。
計器の数字が次々と異常を示していく。
視界が歪み、身体が重く感じる。
やがて意識までもが、時間をかけて吸い取られてしまう。
***
目を覚ますと、宇宙船は静かだった。
計器は正常。
機体の損傷もない。
窓の外には、青い地球。
「帰ってきた……」
明日香は胸をなで下ろした。
しかし、地上に近づくにつれ、ある異変に気付いた。
空を巨大な宇宙船が横切り、海の上には、見たこともない都市が浮かんでいた。
街を走る乗り物も、人々の服も、異様だった。
呆然と立ちすくむ明日香のもとへ、一人の女性が歩み寄ってきた。
「おかえりなさい、蒼井明日香さん」
「あなたは?…どうして私のことを知っているのですか?」
「私の名前は乙姫。あなたはここではとても有名よ」
「私が有名?」
女性は微笑んだ。
「ええ、あなたは千年以上前に宇宙へ旅立ち消息を断った、若き宇宙飛行士としてずっと語り継がれているのですから」
「千年?」
明日香は絶句した。
自分にとっては、ほんのわずかな時間だっのに、ここでは、千年以上の時が過ぎているの?
ウラシマ効果を立証したことになるのでは?
明日香の胸が高鳴った。
***
乙姫は明日香を、海上に浮かぶ巨大な施設へ案内した。
そこは「竜宮城」と呼ばれていた。
海の中を泳ぐ魚は虹色の光を放ち、その中を大きな海亀がゆっくりと泳いでいる。
どこか懐かしい音楽。
見たこともない料理。
まるで、遠い昔に聞いた昔話の世界そのものだった。
「乙姫さんは、ここで何をしているの?」
「あなたを待っていました」
「私を?」
乙姫は微笑んだ。
「千年以上前から」
明日香は言葉を失った。
「あなたがいつか戻ってくることは、未来に残された記録から分かっていたのです」
「じゃあ、私がここへ来ることも?」
「はい」
乙姫は海の向こうを見つめた。
***
その夜。
乙姫は明日香を、誰もいない静かな部屋へ案内した。
そこには二つの箱が置かれていた。
ひとつは、月の光を閉じ込めたような金の箱。
もうひとつは、無数の星を散りばめたような銀の箱。
「月の玉手箱と星の玉手箱です」
「何が入っているの?」
「月の玉手箱には、あなたが失った過去」
乙姫は金の箱に手を添えた。
「そして星の玉手箱には、あなたがまだ知らない未来が入っています」
明日香は二つの箱を見つめた。
過去。
そこには家族や友達がいる。
自分が知っている地球がある。
未来。
そこには、見知らぬ人々がいる。
自分の知らない、驚くべき世界がある。
明日香はしばらく考えた。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「どちらもいらない」
乙姫が目を細める。
「どうして?」
「過去は、もう私の中にあるから」
明日香は胸に手を当てた。
「未来は……自分で見に行きたい」
乙姫は静かに微笑んだ。
「あなたなら、きっとそう言うと思っていました」
***
翌朝。
乙姫は明日香を格納庫へ案内した。
そこには、一隻の宇宙船があった。
明日香は息を呑んだ。
自分が乗ってきた宇宙船とは、まるで違う。
流線型の機体と透明な操縦席。
船体の周囲には、淡い光の膜が覆われいた。
「この船は……?」
「千年後の技術で造られています」
乙姫が答えた。
「ブラックホールの強大な重力にも耐えられます」
「これなら、帰れるの?」
「可能性はあります」
乙姫は宇宙船の奥を指差した。
「この船には、ブラックホール周辺の時空の歪みを読み取る装置があります」
「時空の歪み……」
「あなたが未来へ来たときに通った道を、探すことができます」
明日香は宇宙船を見つめた。
「私に操縦出来るかしら?」
乙姫は笑った。
「最新鋭はほとんどが自動操縦です。」
そして真面目な顔で続けた。
「時間を戻すことはできません」
「けれど、あなたが未来へ来たときに通った“時間の道”を、もう一度たどることはできるかもしれません」
明日香は操縦席に座った。
「やってみます」
***
「帰れる保証はありません」
乙姫が言った。
「わかってます」
「あなたの知っている地球が、もう存在しない可能性もあります」
「それでも帰りたい」
宇宙船が浮上する。
未来の海上都市が、少しずつ小さくなっていく。
やがて明日香は、ブラックホールへ向けて宇宙船を加速させた。
来た道を逆にたどる。
星々が流れていく。
光が歪む。
時計の針がゆっくりになる。
そして、止まった。
目の前に、かすかな光の道が現れた。
明日香が未来へ飛ばされたときに通った、時空の歪み。
「これだ……」
明日香は操縦桿を握りしめた。
宇宙船が光の道へ入り、視界が白く染まった。
***
宇宙船は地球へ帰還し、ハッチが開く。
懐かしい空気が流れ込んでくる。
明日香は地面に足を下ろした。
見慣れた空に見慣れた街。
懐かしい人々の姿……。
「帰ってきたのだ」
***
管制室で、明日香は任務報告を求められた。
「ブラックホール近傍で予想外の重力変動が発生しました」
明日香は淡々と答えた。
「それにより観測データは全て失われました」
「では、任務は?」
少しだけ間を置いて、
「失敗です」
そう報告した。
明日香は誰にも未来のことを話すつもりはなかった。
千年以上先の地球の様子、
竜宮城に乙姫、二つの玉手箱、
そして、未来の宇宙船。
すべて、秘密にするつもりだ。
***
その夜。
自室に戻った明日香は、ポケットの中に手を入れた。
指先に、硬いものが触れた。
取り出したのは、小さな星形のペンダントだった。
未来へ行ったとき、明日香が竜宮城に仕掛けた小型ライブカメラの受信機だった。
「映るかな……」
明日香はペンダントを机の上に置き、パソコンに接続した。
何も起こらない。
やはり無理だったのか。
そう思った、そのとき。
小さな緑色のランプが点滅した。
モニターに映像が現れる。
青い海。
未来の空。
海上に浮かぶ巨大な都市。
そして、映像の向こうから一人の女性が歩いてくる。
乙姫だった。
乙姫はカメラの前に立つと、まるで明日香が見ていることを知っているかのように微笑んだ。
「明日香さん」
明日香は驚きのあまり、目を見開いた。
乙姫の手には、あの二つの玉手箱が見える。
「あなたが、どちらも選ばなかったことを、私は嬉しく思います」
「過去に縛られず、未来に預けることもなく、自分の時間を生きる姿に勇気をもらいました。また、お会いしましょう」
その直後、画面が乱れ、
映像が消える。
ホワイトノイズだけが残った。
明日香は星形のペンダントを首に下げ、ソファーに腰を下ろし、天窓から見える宇宙を見つめた。
夜空には、金の月と銀の星が煌めいていた。
時間を駆け抜けた少女はそっと目を閉じた。
胸元の受信機が静かに光りだす。
未来への扉はまだ
開いたままだ。
甘野充さんの企画に参加させていただきました。⏬