メインコンテンツへスキップ
見出し画像

「どうする家康」第46回「大坂の陣」 老境の家康の覚悟と若き秀頼の諦めが平和への人柱か

    はじめに

     いよいよ、家康の人生で最後の戦い、大阪の陣が始まりました。思えば、小牧長久手の戦いこそは、家康自ら望んだ戦ですが、以降の戦は小田原征伐、唐入り(直接戦場には出ませんでしたが)、関ヶ原の戦いと全て望まない戦へと追い込まれ、結局、自ら決断するという重苦しさを孕んでいました。

     今回も例外ではありませんが、苦渋の決断ではあるものの、どこかで状況の推移を受け入れていく諦観と静かな覚悟が窺えます。

     それは老境の円熟が成せる業といったものではありません。前回、家康はいつまで経っても「戦無き世」を実現できない人生の空しさ、そして「戦無き世」を阻む自身の怯えに絶望しました。人生の終わりが見えたからこそ、その戦ばかりで夢を叶えられないことに耐えられなかったのです。

     しかし、「戦無き世」を作る志を、次代の秀忠に託すことでその絶望から救われました。「戦無き世」は一代で成すことではなく、次代に、そして次々代へと引き継がれてこそ、成せる可能性があります。そもそも、一人で実現しようというのが思い上がりなのでしょうね。

     こうして秀忠に志を託すことで自分のやるべきことを見定めたのが、今回の家康に見える諦観と覚悟なのです。家康は、乱世を勝ち残った戦国最強の怪物となって、次代に対して何を見せてやれるのか、次代のために何を引き受けて人生を終えていくのか、大阪の陣という戦を通して、家康自身の人生の闘いの最後も描かれることになります。

     そこで今回は、豊臣勢が見ようとする戦への願望と家康だからこそ見えている戦の真実の対比から、家康の覚悟について考えてみましょう。

     
     

    青江

     
     
    非常勤講師で糊口をしのいでいる泡沫研究者。専門は現代文学で小説の映画化について。趣味は実益も兼ねて映画鑑賞。A~Z級、ジャンル、国籍問わず色々観てます。 執筆、講演などお仕事依頼は以下のアドレスへ。 t-turuta@auecc.aichi-edu.ac.jp

    あなたへのおすすめ