
「どうする家康」第26回「ぶらり富士遊覧」 家康の絶望からの野心が、秀吉の天下人への道を拓く皮肉
はじめに
第26回は、哀しい結末を迎えた第二章を引き受け、遂に家康が覚醒するかもしれないという第三章の開始という重要回です。
その重要回の中心として選ばれたのは、高天神城の戦いでもなく、武田家滅亡でもなく、その後、家康が甲州から安土まで帰る信長に心づくしの歓待をするという富士遊覧でした。前回の哀しい結末から一転した呑気な内容に予告編から呆気に取られた方もいらっしゃるかもしれません。
富士遊覧は、「信長公記」巻十五に「信長公甲州より御帰陣の事」と詳しく記されるほどの大規模の凱旋旅行ですが、たかだか10日間程度の出来事だからか歴史ドラマでの扱いは小さいのが常です。山岡荘八「徳川家康」でもそれほど比重の高いものではありませんし、その映像化であった大河ドラマ「徳川家康」(1983)に至っては、信長の「安土までの道中、並々ならぬ接待を受けた」というような台詞のみの扱いです。しかし「どうする家康」では、これを重要な歴史的な転換点と捉え、作劇されました。
敢えて、富士遊覧を中心に据えた回を作った、その意図を理解するには、甲州征伐からの凱旋という富士遊覧の立ち位置を考える必要があります。
武田家を滅亡させた甲州征伐、信康がいつ終わるのかと精神を病んだ織田・徳川連合軍と武田家との決着は、彼の死後から更に数年かかりました。瀬名の企てた「途方もない謀」に心を救われることなく、信康が戦場に立ち続けていたら、その精神はボロボロになっていたでしょうね。それほどに過酷な長い戦いを家康たちは、瀬名と信康を失ってなお、信長の命に従いながら続けたのです。
こうした経緯もあり、その論功行賞では、最前線で働き続けた労いとして家康には駿河一国が与えられました。家康は、ようやく今川の旧領の全てを自分の手に収めたと言え、戦国大名として海道一の弓取りとなる足固めができたのです。
富士遊覧は、この信長からの褒賞に報いるものとして、企画されました。家康は、そのために甲斐から駿河に至る街道を整備し、要所、要所で手厚く歓待しました。特に富士の巻狩り(「鎌倉殿の13人」での大規模ロケが記憶に新しいですね)の旧跡を訪ねた後に泊まった大宮の御座所は、わざわざこのために新築され、金銀が散りばめられていたと言われます。家康の力の入り様が、伝わりますね。
また街道の整備では、邪魔な石を除去し、木々を切り倒し、川には橋も架けます。特に大井川では多くの舟を使い、同河川で初めての舟橋を架けたとか。つまり、多額の資金を投入して、公共事業を兼ねた地域振興と領国支配のスタイルを見せるという徳川家の一大イベントだったと言えるでしょう。
信長の目指す天下布武を体現したような盤石さ、それに支えられた歓待にいたく感激した信長は馬と秘蔵の太刀を贈っています。つまり、富士遊覧は、信長と家康の絆を深めたものとして後世に伝わります。
ただ、信長と家康の絆が深まるのは結構ですが、築山・信康事変で泣く泣く妻子を斬る苦渋の選択をした家康の次の話としては、なんだか納得がいかない気がしてしまうのも事実。例えば、度々、あげる山岡荘八「徳川家康」では、事変以降、信長の暴君ぶりと猜疑心をかわすために知恵を絞って、自身の立場を確保する家康の様子が描かれています。
つまり、家康と信長の緊張関係が描かれる中で、信長の横暴さが際立ち、光秀の謀反が起きるという展開になっています。こうした展開を考えると、信長と家康が仲良しこよしに見える富士遊覧は邪魔です。歴史ドラマで重視されてこなかったのも、分かる気がしなくはありません。
しかし先に述べた通り、富士遊覧は、徳川家の一大イベントです。特に、これまで家康にとっての東国支配の重要性について、力を入れて描いてきた「どうする家康」ならば外すことはできません。また、富士遊覧は意図せず、歴史的重大事件の発端になっています。
というのも、この富士遊覧の返礼が、信長による家康の安土城招待だからです。そして、この接待で起こった信長の光秀への叱責が、本能寺の変へつながったとする説の根強さは、ご存知の方も多いでしょう。つまり、富士遊覧こそが、築山・信康事変の後に起こる一大事件、本能寺の変編の幕開けに相応しいことが見えてきますね。
そこで、今回は、一見、信長への行き届いた歓待の裏にある家康と家臣団の心情の揺れ、そして、それを飲み込もうとする信長や秀吉の存在から、今後の「どうする家康」の展開について考えてみましょう。