
別に、何もなかった
「文藝大賞2026」エッセイ部門応募作品です。
―――ここからエッセイ―――
「今日、どうだった?」
「別に。何もなかった」
前は、その返事が少しつまらなかった。面白いことがあった、うれしいことがあった、ちょっと困ったことがあった。そういう報告があるほうが、一日が形になった気がしていた。「別に」で終わると、その日がどこにも残らないようで、少し損をした気分になった。
朝、それぞれが出ていく。出る順番はだいたい決まっていて、「行ってきます」が一回ずつ聞こえる。最後の一人が出たあと、玄関の床が見える。昼になっても、特別な連絡は来ない。
夕方になると、その床が少しずつ埋まっていく。ひとつ、ふたつ。帰ってくる時間はその日によって違う。ドアが開いて、「ただいま」が聞こえる。
晩ごはんのあいだに聞く。
「今日、どうだった?」
「別に。何もなかった」
誰かと話しただろうし、笑ったかもしれないし、少し嫌な思いもしたかもしれない。ただ、帰ってきてまで話すほどのことではなかった。その程度で一日が終わった。聞いておいて、こちらもそれほど詳しく聞きたいわけではない。
毎日聞く。癖みたいなものだと思う。
朝は眠い。急いでいる日もある。くだらないことでイライラもする。
「今日どうだった?」
「別に」
「そっか」
「そっか」以外に言うことも、特に思いつかない。それだけで終わる夜もある。そういう夜のほうが、ずっと多い。
寝る前に、玄関を見る。朝にはなかった靴が、そこにある。向きはばらばらだ。数えるわけではないけれど、たぶん、朝に出ていった数と同じだと思う。
別に、誰かに頼まれているわけではない。昔から、並んでいないと並べてしまう。一足ずつ向きを揃えて、玄関の電気を消す。
「今日、どうだった?」
「別に。何もなかった」
―――ここまでエッセイ―――
日常の中で、ふと立ち止まったところから書いたエッセイをまとめています。
「立ち止まったところから。」