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絵金ずマサむ「板挟みの䞖界」を映像で぀なぐ

     展芧䌚《芋えん さかい目》Invisible Boundaryに出品した短線映像『バりンダリヌダブルバむンド』5分36秒、2025に぀いお、少し長くなりたすが、その制䜜背景をお話ししたいず思いたす。本䜜の根底にあるのは、異質な䞖界ず䞖界が亀差するずきに生じる「あいだ」の感芚を、映像ずいう圢匏を通しおいかに立ち䞊げるかずいう問いでした。その䞭心に䜍眮づけられるのが〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉ずいう抂念です。
     〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉ずは、異なる文化や専門領域、制床的背景をも぀耇数の䞖界の「あいだ」に䜍眮しながら、耇雑な関係性の䞭で支点レバレッゞ・ポむントずしお働き、䞖界ず䞖界を埀還させる媒介的な存圚です。それぞれが自らの目的や解釈に応じお䜿うこずができる柔軟さを備え぀぀、その䞀方で、最䜎限の共有可胜な枠組みを保持しおいたす。぀たり、〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉は、異質性を解消するのではなく、異質性を異質なたた共存させながら協働を成立させるための構造的な支点ずしお機胜したすStar & Griesemer, 1989。それは物かもしれないし、人かもしれないし、行為や抂念のような「かたちのないもの」かもしれたせん。今回の展芧䌚の英語タむトルが「Invisible Boundary」であるこずも、この〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉に由来しおいたす。僕の映像䜜品もたさに、その延長線䞊にありたす。

    絵金ずいう〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉

     今回の展芧䌚における、もっずも重芁な〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉は「絵金」です。絵金ずは、高知の狩野掟の流れを汲む絵垫・匘瀬金蔵ひろせ・きんぞうの通称です。絵金は、歌舞䌎や浄瑠璃の物語を題材にした芝居絵の屏颚を数倚く描き、䞀぀の物語の耇数の時間を䞀枚の画面に同時的に配眮する点に特城があり、ずりわけ物語のクラむマックスずなる凄惚な堎面がクロヌスアップされたす。
     初めお絵金の芝居絵を芋たずき、僕が匷く感じたのは「䞍条理」でした。どちらを遞んだずしおも悲劇が埅っおいる。にもかかわらず、登堎人物たちは䜕かを遞び取っおしたう。そしお凄惚な最期を迎える。その逃げ道のない板挟みダブルバむンドの構造が、絵の䞭でこれでもかずいうほど立ち䞊がっおいたす。
     高知の「絵金祭り」では、これらの芝居絵を家の軒先に屏颚ずしお立お、その前にろうそくを灯しお倜の街を圩りたす。揺れる炎に照らされお珟れる血の赀、歪んだ衚情、緊匵した身䜓。恐怖ず矎しさがないたぜになったあの光景は、単なる矎術鑑賞の枠を越えお、共同䜓の䞭に眮かれた「呪術的な像」ずしお機胜しおいるようにも思えたす。僕は、この展瀺圢態そのものが䞀皮の「魔陀け」ずしお働いおいるのではないかず考えおいたす。恐怖のむメヌゞそのものを共同䜓の空間に眮くこずで、䞍吉なものを遠ざける。恐怖を可芖化し、共同の堎にさらすこずで、䞖界をなんずか秩序づけようずしおいるかのようです。

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    絵金祭で展瀺された屏颚絵筆者撮圱

    マサむず地熱発電――「二぀の正矩」の板挟み

     僕が絵金のダブルバむンド構造ず匷く重ね合わせお思い出したのが、2016幎頃に地球研のフィヌルド研究者たちず蚪れたケニア・オルカリアの地熱発電所ずマサむの人々の暮らしでした。
     アフリカ倧陞の東偎には「倧地の裂け目」ず呌ばれるグレヌトリフトバレヌがありたす。ここは火山地垯で、地䞭のマグマの熱によっお蒞気が絶えず噎き䞊がる堎所です。オルカリアの地熱発電所は、この蒞気をタヌビンを回す゚ネルギヌずしお利甚しおいたす。
     しかし、同じ蒞気をマサむの人々は、生掻氎ずしお長幎利甚しおきたした。぀たり、地熱発電所の開発が進むほど、マサむは代々暮らしおきた土地から移動を䜙儀なくされる。か぀お生掻のリズムを支えおいた蒞気の噎出口が、発電のために封じられおしたうからです。
     では、地熱発電は「悪」なのだろうかそう単玔には蚀い切れたせん。
     マサむの人々の生掻文化を守るべきだずいう立堎はもちろん非垞に重芁です。しかし同時に、ケニア瀟䌚党䜓を芋るず、電力䞍足は深刻な問題であり、郜垂人口の増加や経枈発展ずずもに電力需芁は幎々高たっおいたす。
     さらに、近幎では生成AIをはじめずする電力集玄型の技術が急速に普及し、䞖界的にクリヌンで安定した゚ネルギヌ源の確保が急務ずなっおいたす。地熱発電はその有力な遞択肢の䞀぀であり、火力発電や原子力に比べお圧倒的にクリヌンです。
     こうした状況を螏たえるず、地熱発電を「マサむの文化を砎壊する悪」ず断眪するこずもできたせん。
     マサむの生掻文化の保党
     ケニア瀟䌚党䜓の安定ず発展
     ――どちらも無芖できない「切実な正矩」を抱えおいたす。
     そしお、この二぀の正矩が、互いに矛盟しながらも同時に成立しおしたう。その板挟みこそが、たさにダブルバむンドです。
     どちらか䞀方に「正しさ」を委ねおしたうこずができない。どちらを遞んでも、必ず誰かに痛みが残る。この「どちらを遞んでも䞍条理が残る構造」こそが、絵金の芝居絵に描かれるダブルバむンドず深く共鳎しおいるず感じたした。絵金が描く登堎人物は、いずれを遞んでも悲劇が埅っおいるこずを知りながら決断し、マサむの人々は、どちらの遞択をしおも共同䜓の未来が揺らぐ。この重局的な板挟みの感芚が、映像䜜品『バりンダリヌダブルバむンド』の出発点になりたした。

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    『バりンダリヌダブルバむンド』より

    「こちら」ず「あちら」を぀なぐ「ず」──ゎダヌルからの着想

     こうした経隓をもう䞀床蚀葉ず映像で組み立お盎すうえで、重芁な参照点ずなったのが、ゞャンリュック・ゎダヌル(1930-2022)の映画『Ici et Ailleurs(Here and Elsewhere)』1976、邊題『ヒア&れア ここずよそ』です。この䜜品は、もずもず1970幎にゎダヌルずゞャンピ゚ヌル・ゎランがゞガ・ノェルトフ集団ずしお制䜜しようずした、芪パレスチナ映画『勝利たでJusqu'à la victoire』 のフッテヌゞを玠材ずしお再構成された䜜品です。『勝利たで』は、パレスチナ解攟機構PLOの革呜運動を支揎するために撮圱されたものでしたが、映画は政治・歎史状況の倉化ペルダン内戊などによっお宙吊りになり、䜜品ずしお完成されるこずなく、玠材だけが残った。数幎埌、ゎダヌルずミ゚ノィルはこの未䜿甚玠材を、圓時のフランスの家庭でテレビを芋る人々のむメヌゞず䞊眮させるこずで、たったく別皮の映画『ヒア&れア ここずよそ』ずしお再線集したした。
     ここで重芁なのは、「こちら偎」ず「向こう偎」ずいう構造です。こちら偎平和な日垞を送りながらテレビを通しおパレスチナの映像を“眺めおいる”フランスの家庭、向こう偎戊闘の珟堎に身を眮く人々。ゎダヌルはこの二぀の映像ず声をずらしながら䞊眮するこずで、映像そのものが〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉境界を可芖化する装眮ずしお立ち䞊がるような構造を䜜り出しおいたす。
     僕の短線映像も、この映画から倧きな圱響を受けおいたす。『バりンダリヌダブルバむンド』は『ヒア&れア ここずよそ』の「本歌取り」ず蚀っおもよく、䜜品の構造、線集のリズム、語りの挿入方法など、思考の運動ずしおの映画のあり方を自分なりのやり方で匕き継ごうずしたものです。
     この䜜品における「こちらあちら」は、高知ずいうロヌカルな日垞空間こちら偎、アフリカずいう「ここではないどこか」あちら偎ずしお再構成されおいたす。そしお、その二぀を媒介する〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉ずしお、映像䜜家ずしおの「僕自身」が配眮されおいたす。
     䜜品の䞭でずきどき登堎する蚘号「AND」は、ゎダヌル䜜品に出おくる「et (and)」に由来するものです。これは、「䜕か」ず「䜕か」を結び぀ける「ず」ずしおの蚘号であり、日垞ず非日垞、ロヌカルずグロヌバル、絵金ずアフリカ、人間の想像力ずAI生成のむメヌゞ――そうした異なる局同士を぀なぐ接続点ずしお象城的に甚いおいたす。

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    『バりンダリヌダブルバむンド』より

    AIずずもに考える「誰が映像を䜜っおいるのか」ずいう問い

     『バりンダリヌダブルバむンド』では、AIによる生成映像やAI音声も積極的に䜿甚しおいたす。これは技術的な実隓であるず同時に、「誰が映像を䜜っおいるのか」ずいう問いを、珟代的なかたちで匕き盎す詊みでもありたす。
     ゎダヌルはか぀お、「映像に挔出されたものは芋えるが、挔出する者は芋えない」ず『ヒア&れア ここずよそ』の䞭で語りたした。しかし、今日のSNSや生成AIの環境では、そもそも「挔出する者」そのものが曖昧になり぀぀ありたす。誰でもない「誰か」が、誰かのデヌタをもずに映像を぀くり、消費されおいく。
     そうした状況で、私たちはなお「自分の意思で」映像を遞び取り、䜜り、鑑賞しおいるず蚀えるのか。あるいは、既に自分自身も、デヌタずしおどこかのアルゎリズムに組み蟌たれた「玠材」の䞀郚なのではないか。AIず協働しお映像を生成するこずは、そうした䞍気味さをあえお匕き受ける行為でもありたす。『バりンダリヌダブルバむンド』で詊みたのは、AIに䜜品を「任せる」こずではなく、AIずずもに境界そのものを揺らがせおみるこずでした。

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    『バりンダリヌダブルバむンド』より

    映像は「境界に立ち続ける」ための装眮になりうるか

     ここたで曞いおきたこずを、少し敎理しおみたす。
     ・絵金の芝居絵に描かれた、䞍条理で逃げ堎のないダブルバむンド
     ・ケニア・オルカリアの地熱発電ずマサむの人々が盎面する「二぀の正矩」の板挟み
     ・ゎダヌルが詊みた、「こちら」ず「あちら」の構造を映像で露出させる方法
     ・AIがもたらす「誰が぀くり誰が芋おいるのか」ずいう揺らぎ
     これらはどれも、ひず぀の正しさに回収できない耇雑さを抱えおいたす。その耇雑さを「分かりやすく敎理する」のではなく、耇雑なたた芋えるようにするこずこそが、〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉ずしおの映像の圹割だず思うのです。
     改めお振り返っおみるず、僕はずっず「異質なもの同士の“あいだ”をどう結び぀けるか」ずいう問題に惹かれおきたのだず思いたす。専門性が现分化され、互いがブラックボックス化しおいく時代に、映像や芞術は、単に䜕かを「分かりやすく䌝える」ための道具ではなく、䞖界ず䞖界のあいだに立ち続けるための装眮〈バりンダリヌ・オブゞェクト〉ずしお働きうるのではないか。
     『バりンダリヌダブルバむンド』は、䜕か䞀぀の答えを提瀺する䜜品ではありたせん。むしろ、鑑賞者各自に、「あなたはどこに立っおこの映像を芋おいるのか」、「どの境界で、どの板挟みを、自分のこずずしお感じるのか」を静かに問いかけるための䜜品です。その意味で、この映像は、完成されたメッセヌゞずいうよりも、「共に考えるための堎」ずしおの映画でありたいず思っおいたす。

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    『バりンダリヌダブルバむンド』より

    『バりンダリヌダブルバむンド』 5分41秒 2025幎
    監督・撮圱・録音・線集・プロデュヌス柀厎賢䞀
    本䜜は、展芧䌚《芋えん さかい目Invisible Boundary》HIMOTOKUSABI、高知、日本、2025にお発衚されたした。
    本映像には、AI生成映像OpenAI「Sora」およびAI生成音声Azure AI Speechが含たれおいたす。
    たた、「Young Muslim’s Eyes: Crosswork between Arts and Studies」Commons Filmの玠材の䞀郚を匕甚し、再利甚しおいたす。
    謝蟞地球研プロゞェクト「砂挠化をめぐる颚ず人ず土」20122016幎床および田䞭暹プロゞェクト・リヌダヌ圓時、珟 摂南倧孊 教授
    © 2025 Kenichi Sawazaki. All rights reserved.

     
     
    アヌティスト映像䜜家キュレヌタヌ、人文機構地球研 研究員。博士(矎術)。映像ず察話で「あいだ」に生たれるズレを芋぀める。庭、ダングムスリム、科孊×アヌト等の協働から、「問いを共に぀くる」実践や共創的な映像制䜜の詊みを考察。個人りェブhttps://texsite.net/

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