
今、「教育」のことを考える
教室の中で場を読まずに発言をする子に対して、先生よりもまず他の子どもたちが厳しい目線を送ります。「この子の声は聞くに値しない」っていう視線を向けているわけです。僕は、クラスの中で「この子の声は聞いたら駄目だ」って選別された子がいたら、むしろその子の話を聞いてめちゃくちゃ盛り上がって面白がったりします。そればっかりじゃ困るんですけど、「めっちゃ面白いよ」って全体にわかるように示すんです。そしたら、その子はまたしゃべりまくるので(笑)、そろそろやめてと思ったら「ちょっと疲れてきたな」とか言って制止する。一回すべて肯定した後に止めるっていうのをやっています。そういう環境調整がすごく重要です。どの場所でもそうですよね。 つぶされそうな声にちゃんと応答する人がいて、場をちゃんとつないでいくっていうのは、すごい大事だと思うんですよ。
学校の規範がすべて額面どおりに実行されたら、学校生活はかえって身動きの取れないものになる。掃除係が例外を許さず、時間割が身体の都合を待たず、食べ残しを少しも認めないなら、その秩序はどこかで必ず破綻する。子どもたちが手を抜き、冗談でやり過ごし、見て見ぬふりをし、ときにはその場から逃げることで、規範は現実に耐えられる程度まで薄められる。学校の秩序は、規範が守られることだけでなく、こうした小さな逸脱によっても保たれているのである。
身も蓋もないことを言えば、アクティブラーニングは、教室内の学生たちに一定水準以上の基礎学力と参加能力があり、なおかつ、場を読むコミュニケーション力と教務的力量を兼ね備えた、きわめて熟練した教師がいて、ようやく成立する類いのもの。場の力というものがあるので、例外はあるとしても、基本的にはそう。こうした条件を曖昧にしたまま、形式だけを導入してお茶を濁す現場が多いことが、さまざまな悲劇を生んでいる。結局のところ、学力差を解消するどころか、社交性や場の支配力を、学生本人の「主体性」や「能力」の差として引き受けさせる装置になりかねないし、実際そうなってる。
2026年9月1日
小学校の「哲学対話」授業のサポートで痛感したのは、小学生たちに下手に議論をさせても、手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競うものにしかならないということ。その行き着く先は、いかにも社会適応的で常識的な議論でした。 『「学び」がわからなくなったときに読む本』
大人になって自分の足で立って学べるという経験は他に代えがたいものだけど、子供の「何も考えずに」学べるという特権もかけがえのないもの。自律した学びも大切だが、子供の「学んでしまう」受動性こそ宝。
2026年3月13日
子どもが何かを始めるとき、最初は怖がるのが当たり前。それなのに「子どもの意思を尊重して」と自発性が芽生えるのを待ち続ける親の構えによって、子どもが新しい出会いの機会を逃してしまうことは少なくない。いつの間にか、すっと巻き込んでしまう技術がほしい。
2026年7月22日
学校の規範についていけなくなったからうちに来たのに、親や先生が従来の規範どおりにかかわってしまうんです。私は学校に適応しないことを選んだ時点で可能性だと思っています。それは自分の輪郭がある証拠だから。「見込みがある」と、子どもたちには心から伝えています。子どもが学校に行かないことが問題なのではなくて、そこでフォローできる余裕と実力のある大人が不足していることこそが問題です。
そもそも、私は「内発的」という言葉をあまり信用していないんです。教育や学びの文脈でよく美徳として語られますが、「そんなものが本当に存在するのか」とさえ思っています。人は関係性や環境の中で外部からの刺激を受け、それが自身の欲望と結びつくことで、はじめて何かが立ち上がります。自分という内部だけで完結する学びや欲求など、基本的にはあり得ない。それは「贈与」も同じだと思うんです。内発的に贈与する人など存在せず、すべては環境との呼応の中で自然とそうなってしまうものではないでしょうか。
僕は「森のようちえん」のようなやり方(園舎を持たず、自然の中で保育を行う)は好きですけど、オルタナティブな教育を浴びている子たちは、親の影響で自分たちの学びを原理化するところもあって。なので、子どもたちがどちらかの価値観しか知らないことは、不幸だと思っています。うちの塾では、東大や九大、修猷館高校といった誰もが知っているような難関校をめざす子たちを全力で学習支援する一方で、教室の1階によくわからない本を置いてみたりとか、「変な人がきて、歌って帰る」催しをやってみたりとか、そういう「ノイズ」を発生させるようにしています。進学校を目指す学習塾と、単位制高校、フリースクール、書店を同じビルで運営することで、同じ場所にどっちのレールもあって、どっちもアリ、そんな空間が子どもたちに間接的にプラスの影響を与えるように感じています。どちらの子どもも自分のレールを原理化せずに済みますから。たとえ受験勉強が詰め込み型教育だと批判されても、受験に向かって魂を削りながら努力をしている子たちの姿って、すごい青春だと思ってるんですよ。それは100%肯定したい。だからといって、誰もが同じレールで同じ努力をするなんてオカシイ。そんな思いでこの場所をつくっています。
褒めるという行為には、どうしてもコントロールや期待が入りやすい。「褒めることで、次もこうしてほしい」という期待が、無意識に混じってしまうんですよね。驚くのは、本当にただ驚くだけ。すると相手には「自分の変化に気づいてもらえた」という感触が残ります。その手応えがあって初めて、「次は何をしようかな」と、次の気持ちが芽生える。その連鎖が続いていくことが、育つということなのだと思います。