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『校閲後の世界』 第一章 出会った日

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門



    本文は、夫が遺したものだ。

    校閲したのは、私だ。

    一人は、死んでいる。

    〔初校/沢渡。原文ノママ掲載スル。校閲ハ本文中ニ朱記。〕

     

    一九八九年の三月十二日、日曜日の午後だった。

    私が美緒に初めて会ったのは、神保町の古書店の、二階の階段の踊り場でだった。

    彼女は文庫本を一冊、立ったまま読んでいた。背表紙は私のところからは見えなかった。髪が長くて、肩の下まであった。

    〔ママ/一九八九年三月十二日ハ月曜日。日曜ハ十一日マタハ十八日。著者ニ確認〕

     

    私が階段を上がる音に、彼女は顔を上げた。

    それから、また本に視線を戻した。

    本を読んでいる人の、邪魔をされたときの顔だった。

    〔ママ〕

     

    私は彼女の三段下に立って、彼女が読み終わるのを待った。

    待つ、という判断を自分でしたわけではなかった。足が止まっていた。

    「すみません」

    と、彼女のほうが先に言った。

    「通りますか」

    〔この場面、著者ノ単独経験ト思ワレル。同行者ノ記述ナシ。要確認〕

     

    「いえ」

    と私は言った。

    「いえ、待ちます」

    彼女は少しだけ笑った。それから、文庫本を閉じて、私の脇を抜けて、階段を降りていった。

    紅茶のにおいがした、と私はそのとき思った。古書店の二階で、紅茶のにおいがするはずはなかった。

     

    彼女の左手首には、ほくろが三つ、並んでいた。

    階段を降りていく後ろ姿の、袖口から、それが見えた。

    私は、その三つのほくろを、その日のうちにもう一度見たいと思った。

    〔四ツ。〕

     

    階段を降りきった彼女は、店主に何か声をかけて、文庫本を一冊、紙袋に入れてもらっていた。

    私は二階の本棚の前で、自分が何を探しに来たのかを、忘れていた。

    棚には、戦前の文学全集が並んでいた。背表紙の金箔が、何冊か剥がれていた。私は手を伸ばしかけて、止めた。

    〔著者ハ此ノ日、谷崎全集第七巻ヲ購入シテイル。レシート、書斎ノ机ノ抽斗。〕

     

    下に降りると、彼女はもういなかった。

    ガラス戸の向こうに、三月の薄い日が差していた。私は店主に礼を言って、文庫本を一冊、買った。何を買ったか、もう覚えていない。

    店を出て、靖国通りを歩いた。

    風が冷たかった。三月のはじめの、まだ冬の残っている風だった。

    〔三月十二日ノ東京ノ気温、平均十一・二度。最低五・八度。風速三・四米。気象庁データニヨル。〕

     

    私は、彼女が降りていった階段の音を、まだ耳の奥で聞いていた。

    革靴ではなかった。底の柔らかい靴だった。

    そういうことを覚えているのに、彼女の顔は、もうあいまいになっていた。

    〔ママ〕

     

    それから二週間後、私は同じ古書店の二階で、もう一度彼女に会った。

    彼女のほうも、私を覚えていた。

    「この前の」

    と彼女は言った。

    「待ってくださった方ですね」

    私は何か答えようとして、答えられなかった。

    彼女は袋の中から、別の文庫本を出して見せた。

    「これ、買いに来たんです。あの日、迷って、買わなかったから」

    〔此ノ二週間後ノ再会、著者ノ日記ニ記載ナシ。脚色ノ可能性アリ。〕

     

    そのとき、彼女が自分の名前を言った。

    私はその名前を、心の中でもう一度繰り返した。

     

    美緒、と私はその名を呼ぶことにした。

     
     
    朱鷺田凛(ときた・りん) 書けないことを、書けないと書く。 震えるか、息を止めるか、たぶん両方おきます。

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