
夫は、パクチーが好きだった/♯拝啓文芸部
好きな人の好物は、覚えておきたい。結婚十年目の食卓で、覚え直すことになった夫婦のショートショートです。
結婚十周年の店を決めるとき、夫が言った。
「今年は、違うところにしてみる?」
私は洗い物の手を止めた。
「あのお店、飽きた?」
「いや。そういうわけじゃないけど」
「十周年だし、最初のお店がいいかなと思って」
夫は布巾をきれいに四つ折りにした。
「そうだね。十周年だもんな」
それで決まった。
駅の裏にある、小さなタイ料理店。初めて二人で食事をした店で、結婚してからも、記念日には欠かさず通っている。
夫はパクチーが好きだった。
初めての食事で「パクチー、大丈夫?」と聞かれ、私は「うん、好き」と答えた。すると夫も「俺も」と笑った。
本当は、苦手だった。
でも、向かいの席に座る人とは、もう一度会いたかった。好きなものが一つくらい同じなら、次の約束がしやすい気がした。
付き合い始めてから訂正しようとは思った。思ったまま結婚し、夫は毎年、あの店を予約してくれた。
家では使わない。近所のスーパーでは少し高いし、わざわざ買わなくても、あの人には年に一度のお楽しみがある。
今年の予約は、私が引き受けた。
いつもは単品で頼むところを、十周年だからとコースにした。予約画面の下には「パクチー好きのお二人へ」と書いてあった。
一人だけなんですけどね、と思いながら、人数を二名にした。
当日、夫は店の前のメニューを、いつになく丁寧に読んでいた。
「コースにしたんだ」
「うん。たまにはと思って」
「へえ」
値段を見たのかと思った。
「十周年だから」
「うん。十周年だもんな」
家でも聞いた返事だった。
最初に来たのは、パクチーのサラダだった。飾りに散らしてある量ではない。こんもりと盛られた葉の間に、エビが二尾、埋まっていた。
「香り、すごいね」
私が言うと、夫は水を飲んだ。
「本格的だね」
夫は取り分け用のスプーンを手に取り、私の皿へ多めによそった。
「今日は、いっぱい食べなよ」
「あなたこそ。好きでしょ」
「いや、せっかくだし」
「私も、せっかくだから予約したんだよ」
スプーンが大皿の上で止まった。

しばらくして、夫は量をきっちり半分に分けた。エビも一尾ずつ。仕事でも、あんなに慎重な顔はしないと思う。
私はエビを先に食べた。夫もエビを先に食べた。
「おいしいね、エビ」
「うん。エビ、おいしい」
二人とも、皿の真ん中に穴があいた。
私は葉を少しずつ口へ運んだ。水を飲み、店内の写真を眺め、また少し食べた。向かいでは夫が、一本の茎をフォークで皿の端へ寄せていた。
「それ、食べないの?」
夫の手が止まった。
「茎だから」
「茎は苦手なんだ」
「まあ、どっちかというと」
知らなかった。十年も一緒にいるのに。
それなら葉のほうを、と思って自分の皿から移そうとすると、夫が少し大きな声を出した。
「大丈夫」
隣の席の人がこちらを見た。
夫は声を落とした。
「自分の分、食べなよ」
次の料理が来た。生春巻きの切り口から、また緑色の葉がのぞいている。
夫はそれを見て、それから私を見た。
「これ、最後まで、こういう感じ?」
「パクチー好きの二人に、ってコースだから」
夫は口を開けて、閉じた。
私は生春巻きを一本取り、皿に置いた。夫は取らなかった。
「もしかして、そんなに好きじゃない?」
夫が、おしぼりで指を一本ずつ拭いた。
「……そんなに、というか」
私はフォークを置いた。
「苦手なの?」
「ごめん」
厨房で何かを炒める音がした。
「いつから?」
「最初から」
初めてこの店へ来た日を思い出した。窓側の席。飲み物の氷。私が好きと言ったあとに、夫が笑ったこと。
「だって、『俺も』って言ったじゃない」
「あのときは、話、合わせたくて」
夫は少し身を乗り出した。
「でも、好きなんだろ? だから一年に一回くらいはさ」
今度は私がおしぼりを触った。
「私も、話を合わせた」
夫は動かなかった。
「誰に?」
「あなたに」
テーブルの真ん中に、まだサラダが残っていた。
「じゃあ、この十年」
「うん」
「二人とも?」
「うん」
夫が椅子の背にもたれた。私は笑いそうになって、でも予約したのは自分なので、いったん下を向いた。
「今年、違う店にしようって言ったよね」
「言った」
「もっと言ってよ」
「十周年だし、って言うから」
顔を上げると、夫も笑っていた。
店員さんに事情を話すのは、二人でやった。途中から夫が笑って説明できなくなり、代わった私も、十年のところで駄目になった。
まだ仕上げていない料理は、パクチーをのせずに出してもらえることになった。
店員さんが厨房へ戻ったあと、私は生春巻きを見た。
「これ、中の葉っぱ、取れるかな」
「食べるよ。そっちのも」
夫はいつもの調子で手を伸ばした。
「もう、いいって」
その手が止まり、ゆっくり引っ込んだ。
二人で生春巻きを開いた。皮が皿にくっついて、思ったより難しい。夫は老眼鏡を取り出した。
「十年前なら、もっと早くできたな」
私は笑って、破れた皮からエビを拾った。
夫の皿の端にも、私の皿の端にも、小さな緑の山ができた。

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「拝啓文芸部」のお題「信じていた嘘」に参加した創作です。