
夕方の台所は、少しだけ冬のにおいがする
洗濯物を取り込もうとベランダの窓を開けて、思わず手が止まりました。
空が、もう薄紫色をしています。
ついこのあいだまで、夕方の五時といえばまだ明るくて、「もうひと仕事できるかな」なんて思っていたはずなのに。
いつの間にか、日は私の都合を聞かずに、さっさと帰るようになりました。
取り込んだタオルには、昼間の陽ざしがほんの少し残っています。抱えているそばから、その温かさも逃げていきます。
洗濯物を片づけて台所に立つと、足元からすうっと冷たい空気が上がってきました。靴下ごしでも、床の冷たさがじわじわ伝わってきます。
夏のあいだ、夕方の台所は「いかに火を使わずに済ませるか」の勝負でした。
冷奴、そうめん、トマトを切っただけのお皿。コンロの前には、できれば立ちたくない季節でした。
それなのに今日は、冷蔵庫を開けて、真っ先に思いました。
「あったかいものが、食べたい」
体は正直です。季節の変わり目は、カレンダーより先に、台所で知らされます。
鍋に水を入れて、火にかけます。
野菜室にいたのは、大根の端っこ、にんじん、少ししんなりしたねぎ、半分残ったキャベツ。
特別な買い物はしていません。あるものを、とんとんとんと切って、鍋に入れていくだけです。
切り方は、ちょっと大きめ。
大きめに切ると、煮えたときに「ちゃんと作った感」が出ます。
しばらくすると、鍋の底から小さな泡が上がってきて、湯気が立ちのぼりはじめました。
ふわふわと天井のほうへ伸びて、換気扇に吸い込まれていきます。
ことこと、という音。ほんのり甘い野菜のにおい。
さっきまで冷たかった台所の空気が、鍋のまわりから少しずつほどけていきました。
だしの素を入れて、小皿にひとすくい。
味見です。
「うん、もう少しだけ塩かな」
ひとつまみ足して、またひとすくい。
「……うん。あ、でも、もうちょっと」
もうひとつまみ。もうひとすくい。
味見は一回のつもりだったのに、気づけば小皿を片手に、ずっと鍋の前に立っています。
小皿の回数を数えたら、カップ一杯ぶんくらいは飲んでいる気がします。
これはもう、味見という名の夕ごはんです。
火を止めて、鍋のふたを少しずらし、湯気を逃がしました。
ふわっと上がる湯気を、ぼんやり眺めます。
今日は、特別なことがあった日ではありません。
やろうと思っていた玄関の掃除は、結局手つかずのままです。「あれ、やっておけばよかった」と思うことも、ほかにいくつかあります。
それでも、野菜を切って、鍋に入れて、湯気の立つ汁物がひとつ、できました。
窓の外はすっかり暗くて、台所の灯りだけが、湯気をやわらかく照らしています。
温かいものを用意して、温かいうちに食べる。
それだけで、一日は案外ちゃんと終われるようです。
汁物は、少し多めに作っておくと、翌朝の自分が助かります。
具をたっぷり入れておけば、温め直すだけで朝ごはんになります。寒い朝にいちばんありがたいのは、前の晩の私が残してくれた、湯気の立つ置き土産です。
さて、食卓へ運ぼうと鍋のふたを閉めかけて、ふと、手が止まりました。
……もう一回だけ、味見をしておこう。
小皿に、ひとすくい。
ふうふうして、ひと口。
うん、ちょうどいい。
いえ、たぶん最初から、ちょうどよかったのです。
今度の味見は、味を確かめるというより、ただ食べたいだけでした。
夕方の台所には、少しだけ冬のにおいがします。
寒さの気配と、だしの香りと、一日の終わりのほっとした気持ち。それが全部混ざったような、においです。
さあ、夕ごはんにしましょう。
……その前に、あとひと口だけ。
味見は、まだ終わりません。
🌙 今日も、あなたの心に小さな灯りがともりますように。🌿