
【非公開記録947】Make Unko Great Again 第2話
午前5時。まだ夜の残穢が残る港町は、青黒い薄明のなかに沈んでいた。
冷えた潮風が肌を刺す港の片隅で、仁藤は黙々と漁の準備を進めていた。縄をたぐり寄せ、網の結び目を確認する手つきは慣れたものだったが、その表情にはどこか陰影が差している。
腹の奥が、重い。というより、正体不明の違和感が渦巻いている。
そこへ、作業着の襟を立てた男が通りかかった。
近所の住人か、別の船の乗組員か。顔も名前も知らない男だ。仁藤はふと手を止め、ごくごく自然なトーンで問いかけた。
「昨日からビリビリのうんこしかでないな。どうしてですか?」
知らない人は足を止めもせず、前を向いたまま吐き捨てるように言った。
「知らないよ」
仁藤は網を抱えたまま、その背中にさらに問いを重ねる。
「どうして知らないんですか?」
男はそこで初めて足を止め、ゆっくりと振り向いた。街灯の光が男の頑なな横顔を薄く照らし出す。男は短く息を吐き、静かに言った。
「すべてはわからないからだ」
その言葉は、港の静けさに深く染み込んでいった。
世界の構造、人体、生命の神秘
人間が知ることのできる領域など、広大な海の一滴に過ぎない。
「そうか」
仁藤は深く頷いた。納得がいったわけではない。ただ、その不可解さこそが世界の真理なのだと受容したのだった。
仁藤は愛用の原付バイクに跨がると、乾いたエンジン音を港に響かせ、岸壁に横付けされた大型漁船へと向かった。
波に揺れる甲板に足を踏み入れると、巨漢の漁師が仁藤を迎えた。男の名はオーチニプリヤートナ。
ロシア風の彫りの深い顔立ちに濃い髭を蓄えた、海の猛者である。
オーチニプリヤートナは仁藤の顔を覗き込み深刻な面持ちで口を開いた。
「仁藤、お前最近うんこでないらしいな」
港の噂は早い。あるいは、仁藤の佇まいそのものが便秘の暗雲を漂わせていたのかもしれなかった。
「はい。ここ3年でうんこは4回しかしてませんよ」
仁藤の口から明かされた衝撃の数値。3年間でわずか4回。年に1回と少し。
それはもはや生物学的な常識を遥かに逸脱した排泄頻度であった。
オーチニプリヤートナは太い腕を組み、重々しく目を閉じた。
水平線から昇り始めた朝日が、彼の厳格な顔を照らす。沈黙ののち、彼は静かに、しかしいある種の諦念を込めて言った。
「一生分のうんこをもう出し尽くしてしまったのではないか」
人間の体に割り当てられた生涯排泄量。仁藤はその限界値を、すでに過去のどこかで使い切ってしまったのではないかという仮説。
仁藤はその過酷な運命を受け入れるかのように、深く首を縦に振った。
「ダー。そうかもしれません」
二人の間に、静謐な納得が訪れた。
出ないものは出ない。それは抗いようのない天命なのだ。
正午。厳しい午前の漁を終え、船上には活気ある昼食の時間が訪れていた。
グラグラと煮立つ大鍋で作られたのは、採れたての海老やムール貝、イカが贅沢に投入されたサフラン色のパエリアだった。潮風の香りと、ニンニクや香辛料の香ばしい匂いが甲板いっぱいに広がる。
「よし、食うぞ!」
漁師仲間たちが豪快に皿へ盛り付けていく。仁藤もまた、熱々のパエリアを木スプーンで掬い上げ、口へと運んだ。
海の旨味が凝縮された米粒が、舌の上で弾ける。消化器系の不調など一瞬で吹き飛ぶほどの、圧倒的な生命の味覚。
仁藤は空を見上げ、噛みしめるように呟いた。
「ハラショー」
腹の奥の沈黙は続いている。
しかし、この瞬間の美味と海の恵みだけは、紛れもない現実であった。
つづく