
思想四八(16)|言葉――伝えたはずなのに、なぜ届いていないのか
「いいです」のあとに残るもの
頼みごとへの返事が「いいです」だった。引き受けてもらえたと思って待っていたら、相手は断ったつもりでいた。あるいは、疲れていそうな人に声をかけて「大丈夫」と返され、そのままにしたら、あとで「あのとき、気づいてほしかった」と言われる。言葉は交わした。それなのに、二人の間で起きていたことは同じではなかった。
こうした行き違いのあと、人は自分の発言を思い出す。「ちゃんと言った」「そういう意味ではなかった」。送信履歴を見れば、確かにその言葉は残っている。けれど、記録が証明するのは何を送ったかであって、相手が何を引き受けたと感じたかまでは分からない。
「いいです」が承諾にも断りにもなることについて、国立国語研究所は、省かれた言葉や会話の状況、うなずきなどが意味を判断する手掛かりになると説明している。普段はそれらに助けられて通じている。だからこそ、共有しているつもりの文脈がずれると、見慣れた言葉でも取り違える。
これは、曖昧な日本語をすべて厳密に直せば済む話なのだろうか。予定の日時は明確な方がよい。しかし、悲しみを打ち明ける相手に、言葉の定義ばかり尋ねたら、正確になる前に話す気持ちが失われることもある。逆に、優しい言い方を選ぶほど、断ったことが伝わらない場合もある。
ここには、少なくとも三つのずれがある。
自分が表したかった意図と、実際に使った言葉のずれ
言葉の内容と、その場で相手に求めた行動のずれ
話した側の納得と、受け取った側に残った経験のずれ
伝えるとは、自分の中身を相手の中へそのまま移すことではない。そう分かっても、話す責任が消えるわけではないし、受け手に無限の察しを求めてよいわけでもない。では、その間を誰が、どこまで引き受けるのか。言葉を丁寧に選ぶだけでは届かない場所から、考える必要がある。