
私がADHD+ASDと診断されるまでの経緯・幼少期編【体験談】
こんにちは。
夢破れて子供部屋おばさんとニートをやっている紬と申します。
私は28歳のときにADHD+ASDと正式に診断されました。
5歳くらいの頃から自分は周りとは違う、何がかがおかしいと違和感を覚えていました。
その違和感が言語化され、人間としてのスタートラインに立つまでの経緯を綴りたいと思います。
自分は、あるいは身近な人が発達障害なんじゃないか?と疑っている皆様、ご参考ください。
長文になりますが、どうかお付き合いお願いします。
幼少期・母の証言
母は私のことを可愛がってくれましたが、育てていく中で違和感を覚えていたとのことでした。
逆さバイバイ(手の甲を相手に向けてバイバイする)、常に跳んだり回ったり、迷子の常習犯で、見つけてもケロッとしていたこと、癇癪が酷かったこと。
一方で、3歳くらいで漢字が読めたりマイナーな国の国旗を覚えたり、妙な強みもあったとのことです。
確かに興味を持ったものは難しい本などを読んで頭に叩き込んで、その道のプロ並みの知識を身につけたり、高校1年生の頃ノー勉で漢検3級に合格したりと、言語系はそこそこ強いと自負しています。今は国旗はそんなに覚えていないけどな!
5歳児・はじめての違和感
私が初めて周囲との違和感を覚えたのは5歳の頃でした。
年中までは幼稚園の庭を走り回っているだけでも問題なかったのですが、引越しとともに転園すると、他の子たちは妙に大人びていて、みんなでごっこ遊びをしたりと社会性のある遊びが主流でした。
私は社会性のある遊びについていけず、仲間に入るのに時間がかかりました。
早生まれで体が小さかったこともあり、悪口も言われました。
しかし、幼稚園のボス格の子に認められたということや、個性を認める風潮の幼稚園だったこともあり、楽しいこともまあまああった印象です。
ところが、幼稚園の他の子の九割ほどと学区が違ったため、せっかく築いた人間関係はリセットされてしまうことになりました。
これが、地獄の始まりでした。
6歳・地獄の12年のはじまり
小学校に入学しましたが、何ともいえない違和感はますます増えました。
まず、授業でつまずきました。
じっと座って授業を聞くことができませんでした。
ずっとソワソワしていて、落ち着いていられませんでした。
内容でもつまずきました。
算数では、数字を分けると別の数字になるということが理解できませんでした。
例えば、5という数字は2と3が合わさってできているという概念を理解できず、混乱しました。
私の中では5は5でしかなかったのです。
教師が何を言っているのかわからないから、他の子の答えを堂々とカンニングしていました。
当然、周囲から嫌われました。
何より、担任も同級生も頭がおかしい人でした。
担任は私に向かって「お前は嫌われ者だ!」と怒鳴ったり、後ろから掴みかかってきたり、私含め気に入らない児童に暴力を振るったり。
酷い時は、学活の時間に「気に入らない児童をみんなで倒そう!(要約)」と話し合ったり。
また、私の学校の同級生は東北のド田舎で人間関係がディープだったことや、別の幼稚園でもコミュニティができていたため、排他的かつ同調圧力の強さがありました。
同級生の男子は私にしつこく暴言を吐いたり、女子は無視したり仲間はずれにしたり。
今だったら教育委員会出動+マスコミ沙汰+ネット炎上レベルだったと思います。
だから地元嫌いなんだよ。
他にも理由はあるけどここでは割愛。
7歳・通級指導と神経発達外来
私は読むことは問題がなかったのですが、話したり書くことは苦手だったので、通級指導に通うことになりました。
そこで母は、通級の先生や小2の頃の担任から神経発達外来に行くように促されました。
ちょうどこの時代は発達障害という概念がようやく提唱され始めた頃でした。
通級指導学級でかの有名な知能検査WISCをやったところ、知識は豊富にも関わらず、ワーキングメモリーは低く出ました。
さらに、知識はあっても言葉が出るのに時間がかかるとのことで、会話にストレスを感じる可能性が高いと指摘されました。
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ところが、ADHDとASD(当時はアスペルガー症候群)どちらなのか判別が難しいとのことなので、発達障害グレーゾーンと言われました。
障害者手帳も取れませんでした。
また、当時私の通っていた小学校の特別支援学級には情緒級がなかったため、無理やり普通級で授業を受ける羽目になりました。
当然、私はいっぱいいっぱいでした。
両親の教育方針
しかし母は特にショックは受けず、私を育てている上での違和感の理由がわかって安心したとのことでした。
むしろ、長所と短所がわかるのならば対策を立てればいいという冷静な考えの持ち主でした。
とはいえ、発達障害という概念が提唱され始めた頃の話なので、何もかも手探りでした。
それでも私は母の影響を受けて、自分の取り扱い説明書を考えるのがそこそこ得意になりました。
母は私の強みも受け入れてくれました。
私は宇宙や星座、犬の種類や生態には詳しかったので、延々とそれらの話をしていました。
母曰く「大学教授みたいな子だ」と評して苦笑いしていましたが、なんだかんだで話は聞いてくれました。
普通なら気が狂うほど同じ話ばかりするのに、耳を傾けてくれたのでありがたい限りです。
一方、父が教員ということもあり、どんなに酷い環境でも学校には行かされました。
私は無理やり学校に行ったから心身ともに壊れたものの、両親のことは恨んではいません。
教員という職業は大嫌いだけど、それとこれとは話は別です。
むしろ教員が嫌いなタイプの子供、つまり枠におさまらないモンスターを見捨てていてもおかしくはないはずなのに、ちゃんと面倒を見ていてくれたため、父親には感謝しています。
タラレバみたいな感情はあるものの、両親には扱いにくい私を試行錯誤しながらも育ててくれて感謝しています。
↓思春期編へ続く↓