メインコンテンツへスキップ
見出し画像

ひでつぐ


    豊臣秀次①はじまり


     愛知県に大高という村がある。「あねこ」と呼ばれる古事記から伝承されている人物を崇拝する信仰がある。この「あねこ」なる人物はミヤズヒメという名前で当時の大高村の村長の姉であるそうだ。そして日本武尊という大和の建国に携わった人物がこの大高村に訪れた時にそのミヤズヒメが一晩だけの関係を持ったという事で古事記にのり、令和の現在まで「あねこ」という名前で伝承されている。仏教徒の言うところの縁にまつわる話だろうか。その伝承が伝わる村で「あねこ」という縁にまつわる大きな歴史のうねりが生まれようとしていたのだ。


     戦国の世に入らんばかりの大高村に弥助という農民の男がいた。男やもめの一人暮らしで嫁を世話してくれる人がおり、木下弥右衛門とおなかの娘、おともというブスを紹介された。おともには弟が一人いた。そのおともの弟は幼名を猿…と呼ばれていた男だ。その弟は行方知らずとなっていた。なぜなら木下弥右衛門はすでにこの世になく、母のおなかは竹阿弥という男と再婚していた。この竹阿弥という男は癇癪もちで家庭内暴力は当たり前の男であり、それに嫌気がさして、猿は出て行ったと思われる。山賊になったとか、賭場の元締めになったとか、噂は様々飛び交った。やがて、織田家の家臣として大高村に帰ってきた時からこの弥助とおともの人生が変わりだすのだ。弥助はのちに三好吉房と名乗り、おともは端竜院と名乗って歴史に名を刻んだ。


     猿は見る間に出世していき、墨俣城の主になった時、親族を迎え入れた。やがて、猿は秀吉と名乗るようになり、親族にも威光が必要と考えるようになったようだ。弥助にも土地を与えて大名になるよう願った。弥助はさすがに大名をやる自信はなく、住まいと金だけちょうだいと願い、そうなった。
     秀吉はかつて信長を苦しめた三好家の姓を簡単にもらった。三好家は生き残りが少なく、豊臣家に酒の席の盛り上げ隊のような役割で元三好家の大名、今でいう三好と言う会社の社長みたいなもんだろうか。笑厳翁に「三好の名前ちょうだい」と言って、笑厳は「いいよ」と簡単に譲ったそうだ。それ以来、弥助は三好信房と名乗るようになる。信房とおともの間に子供がおり、その子も三好孫七郎と名付けられた。弥助とおともは弟の出世により、簡単に地位を手にしてしまった。息子もそれに乗るような形ではあるが息子の孫七郎は少し、いやかなり努力はしたと思われる。バカだけど。


     秀吉は一番近い血族ってことで、孫七郎を跡継ぎにしようと考えていたようだ。秀吉と奥さんの寧々の間に子供はおらず。姉に子供が生まれたから甥っ子を跡継ぎにしようと考えたのだろう。長男は孫七郎。次男は病気もちで知能に難があり。三男は秀吉の弟の秀長の養子になった。

     孫七郎も三好を名乗り、秀吉のと信長から一文字ずつもらい受け、三好信吉を名乗った。
     秀次と名乗るのはだいぶ後だけど、以降、秀次で統一する。

     秀次は結構頑張って、十三~十五歳くらいの時に戦に出ていた。出ていたけども、秀吉は秀次の身を案じて、強めの侍を家来につけていた。なものだから、周りからはちょっと馬鹿にされていたらしい。福島正則などは「あの手は農作業しかできないバカ」などと陰口を叩いていた。福島正則は寧々の親族で、小さいころから秀吉になついていた嫉妬もあったらしいけど。

     秀次も陰口を直接耳にすることはなかったけれど、なんとなくバカにされている空気を感じ取っていて、逆に偉そうな雰囲気を出していた。

    ―――――いろんな戦に出て、そこそこがんばった。

     信長が本能寺で亡くなり、柴田勝家も死に、いよいよ秀吉の天下になりそうな時、立ちはだかったのは徳川家康。小牧・長久手の戦い。

     家康軍と秀吉軍は五分五分の戦いで、戦は長引いていた。そこに池田勝入と恒興親子が「ばれないように家康の本陣に回り込んでくっからよ、行かせてくれよ」とアドバイスを秀吉にした。進言した。

    秀吉は「でもなぁ。家康にばれちゃいそうな気がするな。バレたらおたくら即死よ」と言うも池田親子は「大丈夫だって。バレないようにやるから」と鼻息をあらくしていた。秀吉も「そこまで言うなら、やっちゃおうか」的なノリで、一応二人の将軍を池田親子につけてあげた。信長時代から、鬼と呼ばれる森蘭丸の兄の森長可と秀吉の甥っ子の秀次。

     三人の武将と兵隊は1日目はバレずに何事もなく家康の本陣に近づいた。「いけるっしょ」と盛り上がる池田親子。二番隊は森長可。最後尾のしんがりで秀次。しんがりは敵が後ろから来たら、一番攻撃されちゃう結構危険な役目。代わりにしんがり(殿)をうまくやれば、名声があがるのよ。と秀次に花を持たせてやりたっかのだろう秀吉。

     二日目に、忍者を使っていた家康のもとに「池田親子と鬼の森長可と最後の奴はわかりませんけど、なんか金ピカのバカみたいに目立つ格好をした大将がおりやした。たぶん、柴田勝家が着ていた鎧ぽいすね」と情報が入ってきた。
    家康は「最後の奴はなんかバカっぽくない? そこから攻めたら楽かもね」と三日目に大軍を秀次が起きた朝にけしかけた。
     秀次の軍には見張りもおらず、徳川方の侍は、「うそだろ」という思いで攻撃を開始した。ほとんど、虐殺に近かったようだ。家康は「やっぱりバカだったじゃん」と大将を捕まえろ。と指示を出した。


     秀次は大慌てで、金ぴかの兜だけつけて、逃げた。秀次の次に実質軍の一番の実力者の田中さんに「あの、ヘルプに来てほしいんすけど、って森さんとこの堀さんに伝えて来てくれませんかぁ」と秀次は田中さんにお願いした。田中さんは田中さんで「え? いや、だってこっちの指揮はどうすんすか? 誰がこの後の指揮を?」と秀次に言うと「いや、今は指揮よりヘルプがいるって。指揮はどうでもいいから、とにかくヘルプ頼みに行って。ちょ、早くいけって、マジマジマジ」と田中さんはしぶしぶ、堀さんとこに行くと堀さんは堀さんで「え? なんで田中さんがこっち来てるの? 指揮しなくていいの? 手の空いてるバイトに頼めばいいじゃない?なんで?」と言った。
     田中さんは、「ああ、あいつやっぱダメだわ。もういいわ。帰ろ」とバックレて、しばらくは浪人になったそうな。関ヶ原のあとに徳川家康に仕えた。


     秀次は金ぴかの頭で走りまわり、歴戦の勇猛な武将可児才蔵さんが馬に乗って獅子奮迅の活躍をしているなか、秀次は一応すごすごと「あの、可児さん。すみません、その馬ください。逃げたいのです」と秀次は尋ねると可児才蔵さんは「傘なしで雨の中は歩けまい」と答えた。馬がなければ逃げられないと言う事らしい。秀次は意味がよくわからず可児才蔵さんの馬に乗ろうとして、どつかれて転んだ。転んだ視線の先に、馬に乗っている知り合いがいた。昔から一緒に戦場に来てくれて、守ってくれてた侍だ。秀次がすごくお世話になっている木下さんが馬に乗って敵を蹴散らしていた。


     秀次は、一目散に「きのした~」とかけて行って「馬、うま~」と木下さんが不思議な顔をしながら、(殿が言うなら仕方あるまい)と馬から降りると、秀次は馬にまたがり、どこかへ逃げた。殿をお守りせねばと、待ち構える木下さんの背中から切りかかる敵の一人。それをかばって、こちらも何度も秀次と一緒に戦に出ていた木下さんの弟が兄をかばい背中を斜めにズバと斬られ、絶命した。木下さんは「え?」と思う間もなく、四方八方から槍でつかれて、こちらも絶命した。木下さんが最後に見ていた景色は馬にまたがる金ぴかの兜の輝きだったそうな。


     戦が終わり、秀吉のもとに「森長可、池田親子、討ち死ににござる」という報せが届いた。続いて、秀次がよこした使者が「木下兄弟、戦死」の報を伝えた。秀吉は秀次と手紙のやり取りを続けた。

     秀次に「森長可と池田親子戦死だってよ。どう思う? 木下兄弟も死んだって聞いたけど」と秀吉が尋ねると「そうっすね。木下兄弟も死んだんすよね。あ、そうだ! 代わりに池田監物さんくださいよ。あの人結構強いと思うんすよね」と返した。秀吉は秀次の手紙を持ってきた使者を切り殺した。


     秀吉は「ああ、馬鹿だ。馬鹿だ」と激怒した。その場で怒りは収めたものの、あとで秀次に激怒メール。手紙を蜂須賀小六から届けさせた。手紙には「お前は馬鹿だからしょうがないけど、家来が死んだ事は悲しいとか思わないの? その気持ちが出てこないようじゃ、お前も殺すしかないんだけど」というような手紙を送った。秀次は「えええ? なんで怒ってるの? 命からがら逃げてきたのに、ぼくが臆病者だって言いたいの? ねぇ、これどういう事? 小六」と蜂須賀小六に尋ねた。蜂須賀小六も(あれ? 意味が伝わってないのかしら)と思いつつ「臆病者とかの話は、してないんすよぉ。悲しい気持ちはないのか? 家来が死んで? て秀吉さんが言ってんすけどね。わかんないすか?」と言うと、秀次は「臆病者? って舐めすぎだよ。秀吉おじさんよぉ。ぼく、結構敵殺しましたよって言っといて」と秀次は言った。ああ、こりゃダメだ。と蜂須賀小六は帰ったという。

     秀吉もなんとか怒りは収まったものの、なかば呆れてしまい、家臣に温厚なバランス感覚に優れた四人をつけた。「あの四人は頭もいいから、代わりに政治の方もやってくれるだろう」という秀吉の考えだ。











    豊臣秀次②関白とか


     中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末という四人が秀次の家臣として、またはお目付け役として、秀吉から寄こされた。
     秀吉の起こした戦で指揮を執った秀次。紀州攻めや九州攻めは優秀な部下たちのおかげとはいえ、結構頑張ったらしい。また家臣たちが、「こうしたらいいんじゃないですか?」と言って、都合よく意見が通るから、秀吉に「あの、秀次さん結構アイデア持ってて、こういうのやってるらしいすよ」と秀次がやった事にして、四人は立場を守りたい思惑があったらしい。

     だけれども、秀吉は秀吉で「あれ? 秀次バカだと思ってたけど、結構やれんのかな。人が変わったのかしらん。そういえば昔は暴れててど不良のかぶき者だった前田利家のバカも、確かに最近、人が変わったように大人になったものね。人は変わるのよ。秀次、ようやったあるね。よかった、よかった」と安堵するようになり、官位というか役職を戦のたびにガンガンにあげてやった。部長から室長、近衛中なんとか言うやつ、から取締役に審議役、中納言という会社で言えば専務くらいの役職を付けてやった。

     ある時、父の弥助こと三好吉房が来て息子である秀次と話をした。「偉くなったからって、あんまり調子に乗ると、性格が追い付かなくなって、役職に気持ちが追い付かなくなって、死んじゃった昔の人とかいるからね。気を付けんさいよ」と息子に説いた。
     秀次の方は賢くなったのか、周りにまだ威張りたい気持ちでいるのに萎えるようなこと言うわって(うっざいわぁ。父が無能のくせになんか言うとるわぁ。うっざいわぁ)という考えしか浮かばず、冷たいかな、と思いつつも「帰ってくれ」と言った。

     また別の日に前田玄以という、今でいえば有識者的な、コメンテーター的な僧侶がやってきて、「いや、秀次はん。偉ぅなりまして。もうなんですの? 中納言言うんですか? すっごいですやんかぁ。もう、あれちゃいます。もうすぐに中やのうて大のほうの大納言にでもなりはるんちゃいますの?」と秀次は秀吉の跡取り候補の1番手というのもあり、おべっか半分、情勢的にそうなりそう半分で、大納言になるんちゃいますの、と言った。

     秀次の方はあまり意味が分かっておらず、それにここまでなんだかわからぬ内に中納言にまでなったものだから、ダイナゴン? とかいう奴にもすぐなっちゃうんだろうな。って思って、あんまり深く考えずに「あ、まあ、ダイナゴン? なりますね」と特に何の感情もなく答えた。

     前田玄以は(あれ?大納言を知らんのかいな。このあほうは)と「大納言でっせ。藤原とか姉小路とか名家でもかなり高齢にならな、なられへんのでっせ。せやなぁ、お相撲で言うたら、横綱でっせ」

     と聞いて、秀次は「横綱! 強いじゃん。ダイナゴやりますわ」と変な関西弁がうつるほどには興奮した。


     しかし、その後、秀次にとっては都合の悪いことが起こる。秀吉に子供が生まれたのだ。実子だ。種がないと思っていた秀吉の待望の実の息子を淀殿が産んだのだ。

     けれども、秀次は「なかなか大納言ならへんねん」と前田玄以にこぼすばかりで、自分の立場が危ういという事までは頭が回らなかったようだ。秀吉は秀吉で、甥っ子の秀次はそれなりの人物になったみたいだし、いまは我が息子、鶴松! という思いが強く、秀次については興味を失っていた。


     ただ、天下はまだ小田原から上の方については統一されておらず、目下の目標として小田原の北条を討たねばならぬ、と小田原攻めを敢行した。


     秀吉は徳川家康(大納言)を総大将。副将軍を秀次にしてやった。秀次は大納言の副将軍ってことは、次期大納言ってことじゃないのぉ。と喜んだ。家康について回ったため、一日2回糞をすれば、副将軍としての仕事は滞りなく進められた。歴史上、最も楽な遠征将軍だった。
     しかし、戦場でなんとなく、「跡継ぎは秀吉さんのお子になるんじゃないか?」という噂を耳にして、少し落ち込んだ秀次であった。


     北条を討ち、小田原攻めから帰ってきて、秀吉に挨拶に行くと、秀吉の声がか細く「あ、ごくろうさん」とあのいつもの陽気な叔父ではなくなっていた。どうしたことだろう、と秀次が思っていると、家康に耳打ちされた「お子さんが亡くなったんだって」


     鶴松は産まれて半年もしないうちに病気で死んでしまったのだ。秀吉もひどく落ち込み、「結局、あのバカに期待するしかないか」と秀次の人の変わりように期待した。


     この後すぐに秀吉は秀次待望の大納言にしてやった。そして、秀吉はなかば引退気味になり、秀次に後を継がせようと今まで秀吉が背負っていた関白を秀次に譲った。秀吉は太閤となり、大阪に住んだ。政治の権限はいまだに秀吉が握っているが、名目上は秀次が天下のトップになったのである。

     社長が秀次で会長が秀吉のようなものだろうか。


     秀次は関白になったころから、人が変わった。四人の家老はお役御免と別の部署へ移っていき、新しく石田三成の派閥の人間を付けた。木村常陸介と言う男である。秀吉はある程度、秀次の心変わりを認めていたのだろう。独り立ちさせて、石田三成のような若者たちが次の豊臣家を作っていく理想があったのだ。そして、石田三成の昔からの仲間の一人、木村常陸介が秀次の筆頭家老となった。


     関白秀次は住まいも京にうつり、秀吉が作り上げた聚楽第という大きなお城の様な宮のようなところに住んだ。家来たちが100軒くらいの屋敷をかまえ、東京ドーム四個分の広さを誇る大邸宅だ。秀次もさすがに大納言や関白という役職の名前をもらった時とは比べ物にならない程「わああああ!おれ、すげ~」と邸宅を得た喜びで、ようやく自分が偉くなったという事に実感を持った。

     けれども、代わりに秀吉から「絶対に守るべき5か条」という約束事を課された。聚楽第のスタッフルームの高いとこの壁に飾ってあり、朝の朝礼の時は必ず、秀次と木村が暗礁しなさい。とばかりに絶対的なルールだ。と秀吉はきつく秀次に言った。
     秀次は秀次で約束は守ります。という覚悟を示す「お天道様に誓って5か条を守ります。守らなかったら血を吐いて死にます」と秀吉に誓文を書き送った。

    5か条と言うのは、

    1,武をおろそかにしない
    2,賞与は公平に
    3,朝廷を敬え
    4,茶の湯は時々やりなさい
    5,秀吉のまねすんな。秀吉なみのスケベは慎め!妾は4.5人な。あと、お前ごときが鷹狩とか能や狂言にのめり込むのはお門違いだかんな。そればかりになるなよ。



     「8か条あるじゃん」とか思いつつも秀次は受け入れた。しかし秀次はそれまで、秀吉の操り人形だったのが、自分の人格を持つようになり、社長然とするようになった。


     秀次は木村常陸介を呼び出した。

     「あのさ。わたし新しく関白になったじゃない。だからさ、新しい関白像っつうの? そういのうが欲しいわけよ。で、で、今までの関白ってさ、固いイメージがあるわけよ。まだ天下統一前だったから? かもしんないけど。だからさ、もうちょい新しい角度でなんかほしい訳よ。木村はなんかビジョン持ってる?」
    と木村常陸介に尋ねた。木村は木村で秀吉の世継ぎ人はこの秀次さん、いや秀次様になるものだから、野心もあり、アイデアをひねり出さないと、と必死だった。
     木村は少し考えた。なんかあるだろうと、その間も秀次は「ほら、アイデア。なんかあるっしょ。あ、鷹を頭に乗せたりとか、かっこよくない?」と訳のわからないことを言っている。
     「おそれながら・・・」と言おうとして、木村は喉がからまり、ひとつ咳をしてから言った「おそれながら申し上げます。あの~こんな言い方はあれですけど、秀吉さまは農家の出じゃないすかぁ。だから、公家とか貴族の話にはちょっと疎いんじゃないかな、って。あ? え~と何が言いたいかっつぅうとですね。学問のイメージないじゃないすか。多分、秀吉さまも学問とか通ってないと思うんすよ。そこで、新しい関白は学問に詳しいんだ。あれ? 賢い関白なんじゃない? ってイメージが付くと思うんすよね。だから、学問やりましょうよ」
     と木村は提案した。けれども秀次は「いっやぁ。学問? 俺も通ってないよ。今さら勉強しろったって。いやだよ。それに学問って何やるのよ?」

     木村は胸をそらせて、ここで決めてやろうとばかりに言葉を続けた「あ、あのですね。別に秀次様に勉強してもらわなくてもいいんですよ。図書館にいっぱい蔵書を集めるとか、あと、ほら人気の小説を復刻するとか『源氏物語』を復刻させたりなんかしたら庶民にも貴族にも人気あるから、イメージよくなると思うんすよね」
    「あ、じゃあ、俺は命令するだけでいいってこと?」
    「命令どころか、名前を貸すだけで大丈夫ですよ」

     と木村常陸介は親指をたてて、「あとは私の方でうまくやりますんで。まあ任せてください」と話をまとめた。

     秀次は、ことあるごとに「木村~」と呼びつけ「あのさ、ちょっと勉強したのよ。鬱って字どっかに使えない?」とか「きむら~、ほら、この貴族っぽい手に持ってるやつに難しいこと書いとけば賢くみえんじゃね」など、どうでもいいアイデアを木村を呼びつけては話した。バカなりにも秀次は勉強はしたようだ。

     木村のイメージ戦略はうまくハマり、庶民や貴族からは「学問もたしなむお人だったなんて、今までにないお偉いさんじゃ。『源氏物語』も読めるようになったしね」と概ね、評判がよかった。

     しかし、そうなると歯止めが利かないのは性欲のほうで、秀吉に4~5人にしておけと言われた妾は1か月も立たずに30人に膨れ上がっていた。妾の部屋が足りず、増築をするほどだったそうだ。しかも、性の関心も尋常でなく、貴族の娘でバツイチ子持ちの側室を迎え入れた際に娘とも一緒に3Pをしたそうだ。それから、「ばばあも抱いてみたい」と60代の老夫婦の奥さんを抱いたそうだ。秀次の性欲はとどまることを知らないようだった。貴族の娘の父親は「母娘は気持ち悪いって」とかなり引いた。


















    豊臣秀次⓷せっしょう関白


     性欲だけで済めばよかったのに。

     秀次は学問を木村常陸介の言う通りに政策として進めていて、公卿や僧の集まりにも顔を出した。僧の西堂という男の学問の家庭教師も付けてもらった。

     公卿連中のなかには、「どうもあの人が学問に向いてる気配がない。むしろ学問が汚れる」とまで思っていた人もいたようだ。藤原せいかさんという公卿は秀次の様子を見ていて、嫌いになりすぎて悪口がすぎたのか予測なのか今となってはわからないが、「あの人、そろそろ死ぬんじゃないかな」と友人などに漏らしていたそうだ。まだ秀次は20代前半くらいの頃だろうに。

     秀次は直接的に悪口を聴くことはないが、公卿からなんとなく馬鹿にされているような雰囲気を感じ取っていた。秀次にしてみれば、いくつもの戦を経験してきた自負があり、そこだけは公卿に劣らない部分であり、むしろ「喧嘩したら一番強いのは俺だ」と思っている節があった。そこで、秀次は学問を進めたい木村常陸介の反対を押し切って、独断で真剣の武道大会を開催するに至った。最初は、木刀の試合だったが、秀次が「血を見ないと、つまんないな」など言いだして、真剣の殺し合いになった。

     そうなると、自分も強いという事を周りに示したくなってきて、家臣の一人の熊谷という男と「ちょっと修行に出たいんだけど」とおつきのものを何人か引き連れて夜な夜な、市中に真剣を持って、試し切りに出かけたそうだ。それが毎晩しばらく続いたらしい。修行だからと、熊谷以下のおつきのものが、刀を握った事のない、商人を連れて来ては「殿のおなーりー。殿と真剣勝負できるなんて光栄でしかない。さあさあ皆様奮ってご参加を」と言い訳として叫んだあと、適当な町人を連れて来ては、秀次が斬り殺した。やがて、噂は広まり、摂政関白と殺生をかけて「殺生関白」と呼ばれ、恐れられるようになった。


     ある日、今日も秀次が修行に出かけると、人通りがあまりなかった。噂が流れて夜に外出する人も減ったのだろう。秀次一行の前に、杖をついた男が通り過ぎようとすると、秀次はゲームでもするかのように、その男の腕を切り落とした。杖をついた男は盲人であり、目が見えず、激痛を感じたものの「なんだぁ~」と言うばかりで、何が起こったのかわからなかった。秀次一行の一人熊谷が盲人に教えた「腕が落ちたのよ。それもわからずにプッ…」と吹き出した。突っ伏している盲人に何も言わず、斬りかかる秀次。刀身が一度斬った時の油のせいで切れ味が悪くなっていたようで、斬ることに苦労した。盲人は「かんにんしてください。なんでこんな」と言うと、熊谷が「こちらは偉いお人なのだ。安心して死にさらせ」と言った。盲人は最後の絶命をあげる「殺生関白が出たぞ~」と町中にに響き渡った。秀次は構わず、なぶり切りを続けた。肉の塊となった盲人を見て、はあはあと一仕事を終え、座頭市のようなとんでもない猛者に勝った雰囲気で秀次は刀を納めて、地面に大の字に寝転がり「勝ったぞ~」と雄たけびを上げた。

     拍手する熊谷一行。「おめでと~」「やりましたな、殿~」「見事な太刀筋にござった」など、言葉が飛び交い、秀次はおおいに満足した。その晩、妾たちを集めて武勇伝を語った。「血がとびちってな~、そんでな~」などと秀次が言うと、女たちは「きゃ~」と怯えた。それを肴に酒を飲む秀次は、「やはり、公卿たちは生ぬるいのぅ。そんな血ぐらいで怯えてからに。わたしが一番強いのは、これゆるぎないんじゃない?」と熊谷に言った。熊谷は熊谷で「もはや、剣豪おぶ剣豪。こんなに強い関白、歴史上おひとり。よっ殺生関白!」とほめそやした。殺生関白の意味はよく分からず、なんか褒められていい気分だ。と思う秀次であった。




     この頃に秀吉にもう一度、実子が生まれた。のちの豊臣秀頼となる赤子で、実子となれば秀次はもう用済み。むしろ、秀吉からすると邪魔でしかない存在になっていた。変に権力は持っているし。


     この時代、古来、会長に実子が生まれると、跡継ぎは跡継ぎではなくなり、慌てるものだという常識があり、命を狙われかねないため、関白などは辞退する事が通例であった。が、秀次は「おじさん子供生まれて、よかったね」くらいの感覚だったそうな。

     秀吉に実子が生まれたことで、慌てたのは秀次…ではなく、筆頭家老の木村常陸介だった。秀次は特に何も考えてなかったようだ。























    豊臣秀次④最終回


     筆頭家老木村常陸介は慌てていた。「このまま、関白続けましょ。秀次様。だって、関白ですよ。秀吉様に子供が生まれたからって、今まで、関白やってたのはだれですか? 秀次様でしょう。そうでしょう。子供は子供なんだから、大きくなるまで何十年かかるか、だから関白をやめる事なんかないですよ。それに秀吉様が5か条に入れてたじゃないですか。朝廷をうやまえって。関白ってほら、朝廷から指名されるじゃないですか。それを自分で辞めるって言うのは、どうですか? よくないでしょう?」

     と、木村はまくし立てたが秀次は半分くらい聞いて「え? わたし、一言も辞めるって言ってないよ。辞めないよ。なにをキムもそんな慌てて。安心せい」と言った。木村は恐怖した。あっれぇ。危機感ないのかな。あんなに人殺してるし、親子を犯したとか言うし、これ、もう無理じゃないかな。この人が、いよいよ怖いかもしれない。  

     と、木村常陸介は恐怖した。けれども、木村も筆頭家老。このまま秀頼が成人する前に秀吉がなくなれば、まだ秀次の天下になる可能性も捨てきれない。というところで希望を持っていたが、かっこいいと秀次が思って放った「安心せい」が頭に響き、木村の不安を煽った。「このまま辞めなかったら、どうなるんだろう。意外と大丈夫だったりするかな。どうかな。秀次様がもっと馬鹿になれば、あるいは」と熊谷に話している途中で、やっぱり無理だ。と木村は途方に暮れた。

     熊谷は言葉を受けて「あれ? 木村さん秀吉さんをとうとう殺る気かな。これは秀次様にも言っておこうかな。むしろ、俺はやっちゃえでいいと思うんだけどな~」と秀次に「秀次様、強いっすよね?」と言いに行った。秀次は「まあ熊谷が言うなら、そうだけど」と満更でもない秀次であった。

     秀吉からすれば甥っ子を養子にして関白にしてやり、いまや天下の社長と言っても過言ではない秀次。しかし、秀吉は秀頼がかわいい。秀頼をどうにかしてやりたいが、自分の老い先を考えると、成人する頃には自分はもうこの世にいないだろう。どうにかしようと、気持ちが急いていた。そこで、まだ赤子の秀頼の娘か息子を秀次の子供のどれかに嫁がせようと考えた。そうすれば、秀次も秀頼に変な手出しは出来ないだろうと、焦る気持ちを落ち着かせる為の妙案であった。秀次も噂じゃ学問を学び、そこそこ頭もよくなっているし、自分の天下を揺るがす存在は。と考えたところで秀吉は「下剋上…」「謀反…」という文字が浮かんだ。ああ、やばいやばい。そうだ、一回、「秀頼の娘を秀次の息子に嫁がせてやる」という約束を取り付けよう。手紙をいったん出して、様子を見よう。という考えに秀吉はなったのだろう。手紙を出した。

     手紙を届けに、使いが来たものの秀次は温泉に行っていた。使者は聚楽第の者に行き先を聞くと、秀吉が「急ぎで頼む」と言っていた手前、温泉街へ急いだ。秀次は温泉につかり、部屋に戻ると、使者が「秀吉様より、急ぎの手紙です」と言って、秀次は手紙を受け取った。中身を読むと「秀頼の娘を秀次の子供の嫁に頼む」と書いてあり、秀次は「秀吉おじさんも気が早いなぁ。秀頼まだ赤子だよ。まあ、いいよ、約束するよ」と「いいよ」と書いた手紙を使者に持たせた。


     秀吉のもとに「いいよ」とだけ書かれた手紙が届いた。「いいよ。って。え~と、これはどういう事だ。軽くない? 重みなくない? 普通、自分から関白降りて、『安心して秀頼にまかせますゆえ、秀吉様も心を穏やかに』とか、そんな感じの相手をいたわる気持ちがあったりしないのか。ないのか。『いいよ』って何? 戦略? もしかして戦略? なんか俺の気持ちを掻き立てて、怒らせて、俺が攻めていったとこを討ち取るとか考えてる? のか。木村常陸介にそんな胆力はない。てっことは、秀次、秀次め」と秀吉が住んでいる大阪伏見城に秀次を呼びつけた。対面で一回話してみようという秀吉の思惑だろう。


     面会は、手紙と同じ文言「秀頼の娘を秀次の息子の嫁に頼む」と改めて秀吉が秀次に言うと「いいよ」と秀次は軽く答えた。秀次は「面会ってこれだけですか? おじさん。そんなの手紙で一回言ったから、わざわざ面会しなくてもいいのに。忙しいんですよ。ぼかぁ」と秀次は帰っていった。


     秀吉は(あいつ、誰のおかげで関白になったと思ってんだ。なんなん、いまの? 普通は手を取って、『秀吉おじさん、僕に秀頼は任せてください。天下は秀吉様のおかげでここまでになったのです。秀次に後はお任せください』とか涙ながらに言うと思うんだけど。『いいよ』とかタメ口だったしよ)と熱い抱擁を期待していたが、あまりにも肩透かしで、(やっぱりまだバカなのかもしれない)とげんなりした。


     そのしばらく後に、母娘で秀次に抱かれた母の親父が「あん人、うちの娘と孫いっしょに抱きよったんですよ。どうにか処罰してくんなはれ」と秀吉に訴えた。秀吉はそこから、秀次にまつわる悪い噂を始めて耳にした。殺生関白や部屋を増築するほどの妾の数。話は大きく伝わり「妾500人と町の人を殺しまくっている」というとこまで大きくなっていた。秀吉は昔は怯えるように話す甥っ子がそんな事をするとは俄かには信じられなかった。だが、最近あった時、なんか堂々としてはいたな。人を殺しまくって、変に自信がついたのかもしれぬ。ああ、ばかだ。ばかだ。噂が本当なら、俺はなんてやつを関白にしてしまったのだろう。と石田三成に調査を頼んだ。




     石田三成が秀次について調べたところ、妾の数は確かに多い。が、妾のほうは存外楽しそうだ。熊谷や木村の方が、偉そうにしていて嫌われている。秀次と言えば、碁を打ってばかりだ。聞くところによると、最近は天覧試合もしていない。殺生関白と言われ始めた町に行くと、秀次はすこぶる評判がいい。秀次のおかげでうるおっているという人さえいる。三成は「はて? 評判と違うようだ」と思いつつ、町の真ん中で盲人が琵琶を鳴らして歌っているのを聞いた「せっしょうかんぱく~。腕がないぞ~と目なしに言って、おどろかせ、きったのはおれだ~おれだ~」と気持ちの悪い歌を歌っていた。三成は、秀吉様の言う事と違いすぎたため、その盲人の歌をまるまる秀吉に伝えた。辻切りをしていたとも書き添えた。三成にとっては秀頼が世を継いだ方が都合がいいのだ。

     秀吉は、「あ、だめだ」と秀次をあきらめた。


     聚楽第に噂は瞬く間に広がり、「秀吉が大軍でせめてくるかもしれない」と大騒ぎになっていた。熊谷は「やってやりましょうや」と息巻いた。木村は「石田三成の罠ですって、誤解を解きましょうよ」と秀次に言った。秀次は、「でも、おじさんがやるって言うなら、やるしかないっしょ。今の私なら勝てそうな気がすんのよう」と朝廷に「秀吉と戦うことになった場合にもし勝ったら、私が政治を治めます」という許可をもらった。秀次は「もしか、勝っちゃったら、わたししかもう世を治められんものな。キム? な?」と木村常陸介に言った。「御意」と木村常陸介はロウソクの火をぼんやり見ていた。木村はもう死を覚悟していた。


     秀吉は、朝廷に許可を取ったと聞いた時に「完全にヤル気だな、あの野郎。戦争なんかせんでもええやろ」と秀次の元4家老の山内と中村を使いに出した。秀吉は秀次を呼び出して殺す気だった。

     秀次は、中村と山内の様子を見て、殺気を感じ取り、どうも様子がおかしい。と察した。それなりに、人を殺してきた勘だろうか。

     中村と山内はおとなしく帰っていった。

     次の日、北政所と呼ばれる秀吉の妻寧々のとこで、昔よく遊んでくれたおばさんが聚楽第へ遊びに来た。孝蔵主おばさん。孝蔵主おばさんが言うには「秀吉さん、もうすっかりご機嫌よくなって。もう水に流すって、言ってたわよ。一回秀次に会いたいな。って明日くらいにふらっと言ってみたら、どうかしら?親孝行だと思って」と気さくに言われて、秀次も「よかった。おばさんが言うならホントっぽいね。どうもお侍は嘘つきばかりだもの」と翌日に秀吉の家へ向かった。


     道中、お供数人で茶屋へ寄ると、秀吉の使者が来て「いったん高野山に行ってくれ」と秀次は言われ向かった。よくわからないまま、秀次は高野山で家庭教師の僧西堂と碁を打っていた。福島正則がやってきた。秀次の嫌いな奴だ。福島が「腹を切れってよ。秀吉様が。断るようなら、わしに斬れって」

     秀次はここでやっと観念した。けれども意識は碁の方にあり、「初めて、西堂に勝ったよ! この碁盤保存しておいてくれよ」と家来に頼んだ。


     西堂も孝蔵主おばさんの甥っ子であり、自分もおばの嘘が許せず、「私も腹を切ります」と帯同した。

     切腹の作法として首を西へ向けなければいけないところ「死に方くらいは自由にさせてよ~」と秀次は東をむいた。西堂はそれを見て「ああ、この人らしい。向く方角がいつも間違って」と言い、西向きに西堂は首を切り落とされた。


     聚楽第に秀次の首はさらされ、秀吉の配下のものたちが、聚楽第に住む家来、妾、女子供をすべて切り殺した、阿鼻叫喚だった。母親の目の前で娘を殺し、母も殺した。木村常陸介も熊谷も死んだ。皆、土の中に埋められた。


     どちらが残酷なのかは、測りきれぬ。

     司馬遼太郎の小説『豊臣家の人々』をベースに私なりに描いたフィクションです。


    おしまい

    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ