
エスコンフィールドに夜のカーテンが引かれるとき
北海道の広く青い空の下、エスコンフィールドの巨大な屋根がゆっくりと閉まっていく数十分の間、私は不思議な感覚に包まれていました。
巨大な鉄の天井が静かにせり出し、夕暮れ時の空が少しずつ隠れていく。そのゆっくりとした景色の変化を見つめているうち、私の脳裏にふと、小学生の頃に開いた美術の教科書の記憶が蘇ってきました。
それは、有元利夫さんの描いた『夜のカーテン』という絵画です。フレスコ画のような独特の質感のなかに、中世風の衣服をまとった人物がふわりと宙に浮かび、星の散る夜の幕を両手で静かに引き下ろしている光景です。そこに描かれた人物は無表情で、ただ淡々と、世界の理のために毎日同じ仕事を繰り返しているようでした。
幼い頃の私にとって、その顔と張り詰めた静けさはどこか神秘的で、理由はよくわからないけれど強く心を奪われたのを覚えています。
目の前でスタジアムの空が覆われていく様子は、最新の技術で作られたものでありながら、あの絵画の中で描かれていた夜のカーテンがいま目の前で厳かに引かれているようで、とても懐かしい気持ちになりました。
巨大な屋根が完全にスタジアムを覆い、外の自然光が遮られたその瞬間、グラウンドの景色はそれまでとは全く違う表情を見せ始めました。
自然の光から人工の光へと主役が移り変わることで、天然芝の鮮やかな緑がいっそう引き立ち、空間全体がまるで華やかな舞台のように息づいたのです。そして何より、その光の中で、グラウンドの真ん中にあるマウンドの存在感がぐっと際立って見えました。わずかに盛り上がったあの小さな土の丘が、まるでスポットライトを浴びた舞台の中央のように、特別な輝きをもって静かに浮かび上がってきたのです。
そのマウンドを見つめているうちに、また別の記憶が思い起こされました。実家の居間で見ていた、ブラウン管テレビのナイター中継です。
夕食の匂いや、網戸越しに聞こえる虫の声。家族と一緒に過ごす明るい部屋で、私はよくプロ野球中継を父と見ていました。
そのとき不思議といつも私の目を惹きつけていたのは、画面いっぱいに映し出されるピッチャーの顔でした。キャッチャーの出すサインをじっと見つめ、小さく頷き、息を整える。ピッチャーが投げなければ野球の試合は動き出しません。すべてを託され、マウンドという孤立した場所で静かに決断を下し、強打者に立ち向かうその張り詰めた顔に釘付けになっていたのです。
そして当時ジャイアンツのファンであった私に父が買ってきてくれた『たかが江川されど江川』という本の表紙にあった、江川卓投手の写真が脳裏に浮かびました。背後に広がる夜の漆黒の中、頭上からの強いカクテル光線に照らされ、白いユニフォームを着てただ一人マウンドの上にいる江川投手。キャップの庇の下に深い陰影を落とし、歓声や野次といったすべての喧騒から切り離されたその姿は、あんなにも眩しい光の真ん中にいながらどこまでも静かで孤独でした。当時の私はその佇まいに、言葉にできない切なさと、ある種の崇高さを感じていたのだと思います。
最新鋭のスタジアムで屋根が閉じライトの光がマウンドをくっきりと照らし出したとき、幼い頃の二つの記憶——絵画の中の静謐な夜の訪れと、強烈な光の中に一人佇む投手の孤独——が、長い時間を経て、目の前の景色と静かに重なり合いました。
日常の空を遮り、ひとつの巨大な「夜」を人為的につくり出すことで、遠い記憶や人の心を揺さぶってしまう。ここには現実の時間をふっと忘れさせ、特別な劇空間へと私たちを連れ去る不思議な力が満ち満ちています。
これこそ野球場という場所だけが持つ魔法なのだと思います。白球の行方に一喜一憂する歓喜の舞台でありながら、時にひとつの絵画や一冊の本のように、見る者の記憶の奥底にある静けさや切なさを呼び覚ます場所。
試合のない無人のマウンドを眺めながら、その魔法の正体に触れた気がしました。夜のカーテンが引かれる瞬間とは、まるで無邪気なイノセンスが終わりを告げ、自分の足で立つべき現実の舞台へと光が灯る瞬間のようです。幼い頃の憧れや切ないノスタルジーを愛おしく思い返しながらも、今の私は大人としてそれなりの責任や重圧を引き受けながら生きる日々の中にいます。けれど、なんとかこれまで生活を続けてこられたのは、かつて胸に刻まれた光と影の記憶や、この場所が放つ特別な魔法が、日常を送る私の背中をそっと押し続けてくれたからなのかもしれません。
静かな客席の片隅でグラウンドを見つめながら、そんな深い感謝を覚えていました。
そう、今日は試合は行われないのです。
次に来るときは、熱気と歓声で満たされるナイターの日に訪れたいと思います。あの魔法が抜群の効果を発揮する空間に身を置き、大人になった自分自身と、かけがえのないこの劇場に向けて、よく冷えたビールを高く掲げて乾杯するために。