
月を見る #シロクマ文芸部
月を見ると、夜が隣の家へ進む。
そういう町だった。
月は、東の丘からのぼると、最初の家の屋根の上で止まる。
この町では、どの家にも屋根裏に小さな窓があった。
月を見るためだけの窓で、みんなは月窓と呼んでいた。
月が自分の家の屋根まで来たら、月窓を開け、そこから月を見る。
すると月は、すい、と隣の家の上へ移る。
道から見上げても、庭から眺めても動かない。
その晩、月が止まっている家の月窓から見たときだけ、次へ進む。
次の家で誰かが見る。
また隣へ移る。
そうやって町じゅうの屋根を順番に渡り、最後の家で見てもらうと、月は西の丘へ沈む。
それから朝になる。
だから、月を見るのを忘れる家があると困る。
時間は進むのに、夜だけが終わらないからだ。
留守にする家は、たいてい隣へ鍵を預けた。
忘れた家があると、近所の誰かが戸を叩きに行った。
以前、靴屋のおじいさんが月窓の前で寝てしまったことがあった。
朝にならないので、パン屋は朝のパンを店先に並べられず、学校へ行くはずの子どもたちは大喜びし、学校の先生だけが靴屋の戸を叩き続けた。
それ以来、みんな自分の順番を気にするようになった。
けれどリタは、思った。
見るだけなのに。
こんな楽な仕事はない。
最初に頼んできたのは、隣の家のおばさんだった。
「リタちゃん。今夜、うちの月、見てくれない?」
「いいけど」
「妹のところへ行くの。帰りが遅くなりそうで」
おばさんは焼き菓子を包んでくれた。
「これでお願い」
リタは焼き菓子を見た。
丸くて、表面に砂糖がついている。
「もうひとつなら」
「え?」
「もうひとつなら見る」
おばさんはリタを見た。
それから笑った。
「ちゃっかりしてるねえ」
焼き菓子が増えた。
その夜、月が隣の家へ来るころ、リタは預かった鍵で屋根裏へ上がった。
月窓を開ける。
大きな月が、屋根のすぐ上で待っていた。
「こんばんは」
リタが見ると、月は隣へ移った。
それだけだった。
本当に、それだけだった。
次の日、リタは学校で言った。
「月、代わりに見ます。お菓子からでもいいよ」
友達のトトが聞いた。
「何それ」
「月見代行」
「いつも隣が見るやつ?」
「そう。お金取るやつ」
「それだけ?」
「それだけだから安いよ」
安くはなかった。
お菓子でもいい。
きれいな木の実でもいい。
お金なら小さな銀貨。
犬がいる家は、少し高かった。
「なんで?」
とトトに聞かれて、
「吠えるから」
とリタは答えた。
頼む人は意外に多かった。
夜に出かけたい人。
早く寝たい人。
お酒を飲んでしまう人。
自分の順番を毎回忘れる人。
「見るだけなんだから、自分でやればいいのに」
リタはそう言いながら、代金を受け取った。
ある晩、父さんが言った。
「今夜、うちの順番だぞ」
「知ってる」
「じゃあ頼んだ」
「銀貨ね」
父さんが顔を上げた。
「家でも取るのか?」
「仕事だから」
「じゃあ父さんが見ようかな」
「どうぞ」
父さんは少し考えた。
その夜、酒場へ行く約束がある。
父さんは銀貨を出した。
「高いなあ」
「犬がいないから安くしてるよ」
父さんは何も言わなかった。
しばらくすると、町でリタを知らない人はいなくなった。
「月の子」
と呼ぶ人もいた。
リタはその呼び方が少し気に入っていた。
本当は月なんて、それほど好きではなかった。
毎晩見ていると、ただの丸いものだった。
見れば動く。
それだけだ。
ある日、町の広場で夜市が開かれることになった。
焼いた肉。
蜂蜜菓子。
笛。
お面。
色のついたガラス玉。
リタが欲しかったのは、青い革の靴だった。
広場の靴屋が夜市に合わせて店先へ出していた。
つま先が少し尖っていて、歩くたびに小さな金具が光る。
リタは値札を確かめ直した。
高かった。
その日の昼、酒場の主人がリタを呼び止めた。
「今夜さ」
「月?」
「話が早いな」
主人の家は、夜市の途中で順番が来る。
主人は声を小さくした。
「すぐ見なくてもいいからな」
リタは主人を見た。
「どういうこと?」
「月がうちで止まってる間は、夜が終わらないだろ」
「まあね」
「夜市も長くできる」
主人は銀貨を見せた。
いつもの代金より多かった。
「少しだけ待ってくれ」
リタは銀貨を受け取った。
「少しだけね」
そのあと魚屋に呼ばれた。
「今夜、酒場のところ、お前が見るんだって?」
「そうだけど」
「あそこ、すぐ送れよ」
「なんで?」
「夜が長引けば、そのぶん魚が傷む。朝市に出せなくなる」
魚屋は包みを渡した。
中には干した小魚が入っていた。
「頼むぞ」
リタは包みを受け取った。
広場へ戻る途中で、トトに会った。
「お前、両方からもらったの?」
「うん」
「どうするの」
「考える」
「どっちが高い?」
「まだ分かんない」
「じゃあ、もっと上がるかもな」
リタは小魚をつまんだ。
「いる?」
「いる」
2人で食べた。
夜になった。
広場に明かりが灯った。
月は屋根から屋根へ進んできた。
月が動くたび、
「あ、次だ」
と誰かが言った。
子どもたちは月より屋台を見ていた。
大人たちは酒を飲み、肉を食べ、笛を鳴らした。
リタは仕事だった。
鍵を預かった家へ入り、屋根裏へ駆け上がる。
月を見る。
次へ走る。
また見る。
月は広場へ近づいてきた。
そして、酒場の屋根の上で止まった。
主人がリタを裏口から入れた。
「頼んだぞ」
屋根裏には小さな椅子まで用意してあった。
月窓は閉まっている。
リタは椅子へ座った。
下から音楽が聞こえる。
笑い声。
皿のぶつかる音。
焼いた肉の匂い。
リタは窓を開けなかった。
しばらくすると、階段を誰かが上ってきた。
魚屋だった。
「まだか?」
「まだ」
「早く見ろよ」
「頼まれてるから」
「俺も頼んだだろ」
「うん」
「じゃあ見ろ」
下から酒場の主人の声がした。
「見るなよー!」
魚屋が床を踏んだ。
「お前は黙ってろ!」
リタは椅子に座ったまま2人を見た。
「追加で払う?」
魚屋が止まった。
「何?」
「急ぎなら高いよ」
「お前なあ」
下から声がした。
「こっちはもっと出すぞ!」
酒場の主人が銀貨を掲げていた。
魚屋が階段から顔を出した。
「じゃあ俺も銀貨を出す!」
リタは立ち上がった。
面白くなってきた。
下にはいつの間にか人が集まっていた。
夜市の肉屋が言った。
「待て待て。俺もまだ売りたい」
魚屋が怒鳴った。
「こっちは売り物が悪くなるんだぞ!」
みんなが勝手なことを言い始めた。
リタは月窓の前に立った。
月窓の向こうに、月がある。
開けて見れば、夜は進む。
見なければ、ここで止まる。
こんなに大勢の大人が、自分が月を見るかどうかを待っている。
リタは、かなり気分がよかった。
「じゃあ」
と言った。
みんなが黙った。
「いちばん高い人の言うこと聞く」
広場が騒がしくなった。
「おい!」
「いくらだ!」
「値段の話にするな!」
銀貨。
さらに銀貨。
焼き菓子。
干し肉。
「うちの店、しばらくただ!」
「いらない!」
「なんでだよ!」
トトまで下で笑っていた。
そのとき、広場の端から声がした。
「まだあ?」
リタの弟だった。
寝間着のまま立っている。
「何してるの」
「待ってる」
「何を?」
「うちの月」
リタの家は、酒場の少し先だった。
弟は今年から、自分でも月窓を開けられるようになった。
今夜は自分が見たい、と昼から言っていた。
リタは忘れていた。
弟が言った。
「全然来ないんだけど」
「今、仕事中」
「早くしてよ。僕、眠いんだから」
「みんなが決めてるから」
弟は広場を見た。
銀貨を握っている人。
干し肉を持っている人。
怒鳴っている人。
「変なの」
と言った。
リタは月窓へ手をかけた。
酒場の主人が言った。
「待て。もっと出す」
魚屋も言った。
「俺も」
リタは止まった。
青い靴が買える。
たぶん、もう買える。
それどころか、靴下も買える。
このまま待てば、もっと上がるかもしれない。
でも明日になれば、面倒なことにもなりそうだった。
リタは銀貨を見た。
十分だった。
留め金を外した。
月窓を開けた。
酒場の主人が、
「あっ」
と言った。
月が見えた。
白くて丸い。
いつもと同じだった。
リタが見る。
月は、すい、と動いた。
「あー!」
酒場の主人が叫んだ。
魚屋が笑った。
「よし!」
「何がよしだ!」
「次!」
リタは階段を駆け下りた。
弟がもう走り出している。
「待って!」
「やだ!」
「そこ私の仕事!」
「うちの月でしょ!」
2人で家へ走った。
その後ろをトトが追った。
魚屋も来た。
酒場の主人まで来た。
さらにその後ろを、夜市の客たちがぞろぞろついてきた。
弟が先に家へ飛び込んだ。
階段を駆け上がる。
リタも追う。
「私が見る!」
「僕が見るって言った!」
「仕事なの!」
「知らない!」
屋根裏へ着いた。
弟が月窓を開けた。
月がいた。
弟が見た。
月は次の家へ移った。
「見た!」
弟が笑った。
リタは腹が立った。
「私の代金!」
「僕、もらってないよ」
「そういう話じゃない!」
次の家から、
「来たぞ!」
と声が上がった。
窓が開く。
誰かが月を見る。
月が動く。
その次。
また次。
夜市からついてきた人たちが、月を追って走り始めた。
「次、薬屋!」
「起きてるか!」
「もう見た!」
「動いた!」
町じゅうが競走みたいになった。
老人も子どもも、寝間着の人も、まだ串に肉を刺したままの人もいた。
最後の家の窓が開いたとき、大勢が道に立っていた。
おばあさんが顔を出した。
「何だい、みんなして」
「早く見て!」
何人かが叫んだ。
「急かすんじゃないよ」
おばあさんは水をひと口飲んだ。
それから月窓へ顔を出した。
月を見た。
月は西の丘へ滑っていった。
空の端が明るくなった。
夜市は終わった。
魚屋は店へ走った。
酒場の主人だけが、空になった広場を見ていた。
リタは家へ戻った。
机の上に、今夜の代金を全部並べた。
銀貨。
焼き菓子。
干した小魚。
干し肉。
銀貨を数えた。
青い靴は買える。
リタは次の日、その靴を買った。
少しきつかった。
店の人は、
「もう少し大きいのもありますよ」
と言った。
けれど、そっちは金具の形が違った。
リタはきつい方を買った。
履いて帰った。
途中で足が痛くなった。
それでも脱がなかった。
広場を通ると、酒場の主人がいた。
リタの靴を見た。
「それ、昨日のか」
「うん」
「高そうだな」
「高かったよ」
「そうか」
主人はしばらく靴を見た。
それから言った。
「今度の夜市なんだけどさ」
リタは顔を上げた。
「何?」
主人は少し声を低くした。
「もうちょっと長くできないかな」
リタはつま先を靴の中で曲げた。
「先に値段決めよう」
※シロクマ文芸部「月を見る」参加作品です。
素敵なお題を、ありがとうございました。