
【短編小説】猫の水
待つ時間はほとんどなかった。
約束の時間に老夫婦の家を訪ねると、玄関はすぐに開き、促されるままリビングの椅子に座った藍子の前で、奥さんはもうノートを開いていた。
「名前はクロ。十歳の雄でワクチンは済んでます。餌は一日四回の自動給餌なので、余っていたら捨てて頂戴。水換えとトイレの確認、それからおもちゃで遊んであげて。行動範囲は一階だけで、二階は行かないようにしているわ」
奥さんの手元のノートはびっしりと文字で埋まっていて、一緒に出てきたご主人は、あまり喋らず隣に座っていた。
「クロを紹介したいけど、隠れちゃったわ。警戒心が強いの」
「よくいるのは、布団の中だね。あと、寝室の押し入れとか」
ご主人が言った。そのあとは、物の置き場を案内する奥さんについていきながらメモをする。
ペットシッター仲間から、日程の都合がつかないというので、紹介された家だった。独立してまだ日の浅い藍子は、聞いておきたいことをいくつも用意していたが、奥さんは質問をする前に次々と話した。
「器はこのスポンジで洗って、キッチンペーパで拭いて頂戴。ごみはこちらへ。おもちゃやブラシはこの引き出しにまとめているわ。水は冷蔵庫に」
「あの、ペットシッターのご利用は初めてだと伺っていたんですが…」
「そうよ。初めてなので、色々調べて用意したのよ」
奥さんが口に手を当てて、はにかむように笑った。綺麗に化粧をした目元に皺が寄る。かすかに隈があるのが見えた。
「トイレはここなのでご自由に」
扉の外側に、小さな掛け金がひとつ付いていた。おや、と思って見ていると、奥さんが笑った。
「おかしいでしょう。そこらじゅうに鍵がかかっているのよ、クロが開けてしまうので」
言われてみれば、家の中のあらゆる収納に同様の掛け金がついている。
「器用な子なんですね」
「どこにでも潜り込みたがって困るわ」
「扉が開くとすぐにねえ」
夫婦が顔を見合わせて笑う。リビングに戻り、打ち合わせの続きをしたが、尋ねることはほとんど残っていなかった。
「ええと…、何かあったときは、こちらの判断でかかりつけ医に診てもらうこともあります。診察券とキャリーケースはありますか」
「ああ、こちらに」
奥さんがリビングの高い位置にある収納を開けると、ビニール袋が一枚ひらりとふってきた。
「ごちゃごちゃで恥ずかしいのだけれど。あとで出しておくわね」
そう言って収納を閉める。
クロの姿を確認するため、探してもらうと寝室の押入れにいた。押入れの扉は外され、夫婦の服が数枚だけかけられている。服をよけて一緒に覗き込むと、黒い猫が藍子の顔を見て、シャー、と歯を見せた。猫が行ける範囲に家具や物は少なく、探すのは難しくなさそうだ。
一週間分の料金と合鍵を受け取って家を出る。小さな庭の雑草が伸びていて、裏には大きな紫陽花が咲いていた。
初日は十六時に家についた。
軽自動車を庭にとめている間に、若い夫婦がちょうど歩いてきてちらりと藍子を見た。藍子が会釈をすると笑顔になって、隣の家に入っていく。ペットシッターが来ることは伝えてあるのだろうか。
合鍵で家に入るとしんとしていて、なんの気配もしなかった。リビングにキャリーケースが置いてある。打ち合わせの後で送られてきた写真と同じ位置だ。テーブルの上には、他の物の置き場についても細かくまとめられたメモがあった。
早速クロを探す。リビングのキャットタワーやソファの下を見る。大きな本棚があるが、本は数冊しかない。寝室に行き、布団の膨らみを確認し、ベッドの下を覗き込んだ。見えるところは綺麗にされていたが、ところどころ埃が目立った。
最後に押入れを見ると、その奥に黒い猫がいて、また小さくシャーと言った。
「大丈夫だよ」
報告のための動画を撮りながら、少し手を近づける。猫は戸惑ったように藍子を見て、掠れた声でにゃあと鳴いた。
クロとあいさつをすませ、必要なお世話をする。トイレにはまだ何もなかった。ごはんはそれなりに減っていて、写真を撮ったあと、残っているぶんを言われた通りに処分する。
水を換えるために冷蔵庫を開けると、中身は本当に水だけだった。同じ水だけが、何十本と並んでいて異様だ。少し長い旅行へ行くので処分したのだろうか。それにしては、何もなさすぎる。気になって冷凍庫も開けてみたくなったが、業務に関係ないので我慢した。
その日、奥さんへ報告のLINEを送っても、既読にならなかった。
次の日は雨だった。二軒ほど回ってから、最後にクロの家に行く。何事もなく仕事を終え、トイレには排泄物も確認できたので、写真を撮って報告LINEを送った。
そのまま何日か通う。クロは相変わらず隠れてしまい、距離はあるが、自分から可愛くにゃあと鳴くようになり、撫でさせてもくれた。おもちゃでもよく遊ぶ。充分に遊んだあとで、クロの余ったごはんを捨て、器を流しで洗った。食器棚には、予備を含めて三組ずつ、数種類の食器しかなかった。追加の水を冷蔵庫から取る。なんだか減りが早いような気がしたが、気のせいだろうと思い直した。
ソファに軽く腰掛けて、写真や動画をまとめ報告のLINEを準備していると、いつの間にかそばにきていたクロが藍子の膝に前足を乗せた。爪は短く切られているようだ。黒い額にそっと手を伸ばすと、クロが一度擦り寄った。
この日もやはり既読にはならなかった。遡って初日のものも確認してみるが、やはり未読のままだった。
最終日は十七時に家に着いた。クロがなかなか見当たらない。布団の中にも、押し入れにもいない。一階中を探したが見つけられず、掛け金が外れた様子もない。階段を確認してみる。一番上まで見えないので、上がった先で眠っているかもしれない。名前を呼びながら、そっと階段を上がった。
一番上に、クロがいた。藍子を見てにゃあと鳴く。
「ここにいたの」
ごろりと腹を見せたので、写真を一枚撮ってから、階段に腰掛けてそっと撫でた。クロがぴくりと身を起こす。
「お腹はいやだった?ごめんね」
藍子が手を離した瞬間、クロは二階の引き戸の隙間から、するりと中へ潜り込んだ。
「待って!」
いつの間に開いていたのだろう。部屋の掛け金は掛かっていなかった。思わず手を伸ばすと、薄暗い部屋の中から、誰かがしゃがんだまま藍子を見ていることに気づいた。驚きすぎて声が出ない。
「…誰」
絞り出すように言ったが答えはなかった。かわりに扉の隙間が少し広がり、藍子は短い悲鳴を上げた。部屋の扉が閉まり、何の音もしなくなる。つんと刺すような臭いのあとで、むっとしてすえた空気が鼻の奥に残って、藍子は咳き込んだ。
玄関の開く音がして飛び上がる。階下から、夫婦の話し声が聞こえてきた。
「ほら開いてる、やっぱりシッターさんの車よ」
「ちょうど来ているのか」
藍子は震える足で階段をおりた。夫婦はそれぞれ大きな荷物を背負って、片手にお土産の大きな紙袋を抱えていた。
「あの、二階に誰かいます。クロちゃんが二階の廊下にいて、それで、そしたら、扉が開いて、中に入っていっちゃったんです」
「ああ、息子よ。外には出てこなかった?」
「えっ?」
藍子はふと、自分が毎日替えていた猫の水を、男が飲む姿を想像し、ゾッとした。
「見てません!」
「そう。やっぱり一週間程度じゃダメね」
奥さんが振り向くと、ご主人は肩をすくめた。
「まあ、水は置いていったし。クロはあとで出しておくから、気にしないでください」
「嫌だわ。またお風呂に入れなきゃいけないわ。いつも私がやるのよ」
奥さんがため息をつく。
「ああ、メッセージ、なかなか確認できなくてごめんなさいね。電波の届かないところにいたもので。帰りの電車でまとめて確認したの。それからこれ、よかったら」
紙袋の中から、小さなお土産をひとつ渡された。藍子は受け取り、放心している。
「鍵、返していただけます?」
奥さんが手を出す。藍子はリビングに置いていた荷物をまとめ、玄関に戻り、鍵を渡した。指先が触れた瞬間に思わず手を引き、鍵がチャリンと土間に落ちた。
「すみません」
拾おうと身を屈めたが、どこに落ちたかわからない。夫婦の履いていた靴に、乾いた泥がついていた。
「いいの、あとで拾っておくわ。またお願いしたいときは、LINEでいいのかしら」
「…はい」
「そう。じゃ、ご苦労さまでした。気をつけて帰って頂戴ね」
玄関の扉が閉まっても、藍子はしばらく動けずにいた。お土産は、富士山の形をした可愛らしいクッキーだった。もう一度インターホンを押しかけてやめる。仕事は終わった。家の中から、夫婦の談笑する声が聞こえた。
2026.9.18
「待つ時間」から始まる