
第932回「鬼滅の刃」は、正義の危うさも、描いて見せている作品だった
「鬼滅の刃は、正義の危うさを描いた作品である」
こんな事を書こうものなら、世界中の鬼滅の刃ファンからお叱りのリンチを食らってしまうのではないかと思うのですが、自分はこれは、とても大事な事だと思っているので、今回勇気を出して書こうと思いました。
まず前提として、鬼殺隊が悪の組織だと言いたい訳では決してありません。
人を食い殺す鬼達から、人知れず人間の事を守ろうとしてしている、鬼殺隊の行為は、紛れもなく正しい行い、正義の行為だという事が出来ます。
ただそれ程までに正しい組織であっても、正義の名の元に行っている行いの全てが正しい事だとは言い切れない事を、自分達観客は知らないといけないのだと、自分は考えているのです。
ケースその1、鱗滝左近次
例えば、竈門 炭治郎の師匠である、鱗滝左近次は、鬼滅の刃の作品中でも、群を抜いての善人であり、まず欠点らしい欠点の見当たらない良識者です。
ですがその鱗滝さんが、代々弟子の安全を祈って作り、渡して来たお面が、鱗滝に恨みを抱く鬼にとっての目印となり、結果的に弟子達が殺されて行くきっかけとなってしまいました。
これは決して、鱗滝さんの行為に、落ち度があった訳ではありません。
ただ良かれと思ってした事でも、結果的にそれとは反対の、望まない結果を招いていしまう事がある事を描いているのだと、自分は思っているのです。
ケースその2、鬼殺隊への最終選別
それは鬼殺隊への入隊の為の最終選別にも、同じ事が言えています。
鬼のいる特殊なエリアで、七日間生き延びる事、この課題自体は、本来最も安全で、難易度も比較的低い、かなり優しい試験であるはずなのです。
何故なら、この試験には、鬼を倒すという条件もなければ、途中でこっそり離脱をする事も出来るからです。
そこで出会う鬼は、鬼殺隊を目指す者達ならば、殺せなくても殺される事はまずない様な、最弱クラスの鬼なだけのはずでした。
しかしそこに鱗滝さんを目の敵にしている鬼が、混ざっていた事で、安全なはずの最終選別は、最も危険な死の選別の場となってしまったのです。
よく言われがちなのですが、鬼殺隊は厳しい戒律のある組織ではある物の、決してその為には手段を択ばない、殺人集団という訳はありません。
ケースその3、柱達の性格
とはいえでは鬼殺隊は、全員良識者の集まりの集団なのかというと、それも少し違っていて、彼らは鬼を殲滅させる事を第一に考えており、その為には判断を誤る事もある事を、きちんと作品の中で描かれています。
まず柱集合会議の時に、柱達の殆どは、鬼の竈門禰󠄀豆子と、それをかばっていた竈門 炭治郎の二人を、極刑にするべきだと考えていました。
これはお館様の提案によって、すぐに訂正をされる事になるのですが、この描写からして、鬼殺隊のトップの人間達は、かなりの人格者であるにも関わらず、必ずしも正しい判断を常に出来る訳ではない事が、描かれています。
ケースその4、お館様の並々ならない決意と覚悟
では鬼殺隊達にとって最高の人格者で、神にも等しい存在である、お館様の産屋敷耀哉(うぶやしき かがや)は、全く間違いを犯さない、完ぺきな人間なのかというと、やはりそれも違うのです。
お館様は、人間にとって最大の敵である、鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)を倒す為に、自分の妻と娘を巻き添えにした、自爆をしています。
もちろんその行為に対して、そこだけを切り取って、善悪の是非を問う事は出来ません。お館様にとって、鬼舞辻無惨を倒すという事は、それ程までに覚悟を必要とする相手なのだと言えるのかも知れません。
でもだからと言って、自分達視聴者は、崇高な目的の為には手段を択ばなくてもいいのだと、簡単に受け止めてはならないのだと思っているのです。
自分にとって、正しい事や正義の為に行われる行為にも、意図せずあるいは意図的に間違えた事をしてしまう事はある。
自分の好きな者が、必ずしも全て正しい事をしているとは限らないのです。
自分の好きな者が、絶対に正しいのだという事もないのです。
それは裏を返せば、人としてあるいは社会的に正しくない事でも、必ずしも絶対に嫌いでいなければならない訳ではない事も、意味をしています。
何が正しくて何が間違えているのかを論じる事はもちろん大事な事ですが、
それを踏まえた上で、それでも自分は何が好きで、何を信じるのかの決意をする事の大切さも、この作品では描かれていたのではないでしょうか?
世の中で一番危険なのは、自分の好きな事は絶対に正しくて間違えはないのだという、妄信にも似た、思考の停止をしてしまう事なのかも知れません。