
自由には「離脱」と「異議」が要る
最近、「テクノリバタリアン」という言葉を耳にする機会が増えました。個人の自由や小さな政府を重視するリバタリアニズムに、インターネット、暗号技術、AI、プラットフォームといった技術への強い信頼が組み合わさった考え方です。
国家による過剰な監視、検閲、規制を警戒すること自体は、きわめて重要です。権力は放置すれば拡大しやすく、非常時、安全保障、効率化、利便性といったもっともらしい理由によって、個人の権利を後退させることがあるからです。
しかし、ここで一つ考えておきたいことがあります。
国家の力を小さくすれば、それだけで人は自由になるのでしょうか。
国家による統制が弱まったとき、必ずしも市民一人ひとりの自由が広がるとは限りません。そこに生じた空白を埋めるのが、巨大企業、投資資本、プラットフォーム、あるいはデータと技術を独占する集団である可能性もあります。
つまり権力は消えるのではなく、移るだけ、という見方も可能です。
現代では、検索、SNS、通信、クラウド、OS、決済、地図、広告、本人確認、AIといった仕組みが、生活や仕事の基盤になっています。
こうした基盤を少数の企業が握れば、企業は単に商品やサービスを売る存在ではなくなります。
何が見えるのか。
何が推薦されるのか。
誰が参加できるのか。
誰の発言が届くのか。
そうしたことを、事実上左右できる存在になります。
アカウントが停止されれば仕事が止まる。
決済が使えなければ取引ができない。
クラウドから排除されれば、事業そのものを維持できない。
AIによる判定で不利益を受けても、その根拠が分からず、訂正を求める窓口も機能しない。
こうした状況は、国家が直接命令する形ではありません。しかし、生活の選択肢を狭めるという意味では、十分に強い権力です。
権力の問題を「国家か企業か」という二者択一で考えるのは危険でしょう。
国家は法と強制力を持ち、企業は資本、技術、データ、社会インフラを持ちます。さらに両者が接続すれば、国家は民間のデータや技術を利用し、企業は国家の制度、調達、法的後ろ盾を利用できます。
最も警戒すべきなのは、権力が国家に属するか企業に属するかではありません。両者が接続し、監視、分類、判断、制裁、救済までが、一つの系統に集中することです。
ここで思い出すべき事例として、大英帝国の歴史を挙げたいと思います。
史上最大規模の植民地帝国を築いたのは、独裁国家ではなく、議会政治や法の支配、自由主義的な価値を掲げていたイギリスでした。この歴史的事実は、しっかり認識しておくべきことだと思います。
もちろん、自由主義がそのまま帝国主義になる、と言いたいわけではありません。時代背景も制度も異なりますし、自由主義の内部には帝国主義を批判してきた系譜もあります。
ただし、イギリス国内では自由、代表制、私有財産、自由貿易が称揚される一方で、帝国の周縁では支配、収奪、不平等な交易、政治的従属が生まれました。
ある社会の内側における自由と、その外側に対する支配が、歴史的には両立してしまった事実があるのです。
「自由な契約」
「自由な市場」
「選べるサービス」
こうした発想だけでは、当事者間の力の差を見落としてしまいます。
イギリスは、軍事力、資本力、制度上の優位を背景にインドへの支配を拡大し、植民地統治のもとで収奪と不平等を伴う経済秩序を築きました。
そこでは、対等な取引というより、圧倒的な力の非対称性を前提とした支配関係が形成されていました。
繰り返しになりますが、ここで言いたいのは、自由主義が必ず侵略や帝国支配へ向かう、ということではありません。
ただ、自由主義的な制度や言葉を掲げていることだけで、対外的な支配や不平等な力関係から自動的に免責されるわけではない、ということです。
むしろ自由を守るために、その言葉が現実の力関係を覆い隠していないかを問い続ける必要があります。
自由が誰に保障され
その利益とコストが誰に配分され
誰がルールを決めているのか
を問い続けなければ、「自由」は強者の行動を正当化する便利な言葉にもなり得ます。
また、一見すると、双方の合意のもとで「正当な」契約が結ばれていても、その内実が支配・被支配の関係に陥る場合はあり得ます。
資本、情報、交渉力、技術、代替手段の有無が大きく異なる者どうしの契約は、形式上は自由でも、実質的に対等とは言えないでしょう。
利用規約に同意欄があり、複数のサービス名が並んでいるだけでは、人が本当に自由であるとは限りません。
だから私は、自由が成立する前提には「離脱」と「異議」が要るのだと思います。
「離脱」とは、不当な制度、望まない監視、劣悪な職場、支配的なサービスから、生活を破綻させずに離れられることです。「嫌なら使わなければよい」という言葉が成立するのは、実際に使わないで済む場合だけです。代替手段がなく、移行費用が高く、仕事や人間関係、決済まで失うなら、それは「選択」というより「依存」に近いでしょう。
「異議」とは、「離脱」できない場合にも、理由の説明、判断の見直し、訂正、補償、制度改善を求められることです。
企業が規約を作り、AIや担当部門がそれを執行し、異議申立ても企業内部だけで処理するなら、ルールを作る者、執行する者、裁く者が、すべて同じになります。そこには権力集中の危うさがあります。
誤解のないように付け加えれば、技術そのものが悪いのではありません。AI、データ分析、クラウド、デジタル本人確認は、事故防止、災害対応、詐欺対策、交通運行の改善など、多くの便益をもたらします。
しかし、安全に非常停止ボタンが必要なように、自由にも「離脱の経路」と「異議の回路」が必要ではないでしょうか。
技術の導入目的が正しくても、誤判定、目的外利用、漏えい、濫用、隠蔽の可能性まで消えるわけではないからです。
国家にも企業にも、そして両者の結び付きにも、過度の期待は禁物です。
自由を守るとは、誰かの善意に賭けることではありません。
誰もが一方的に支配されず、必要なら「離脱」でき、離れられないときには「異議」を言える。そうした仕組みを、あらかじめ社会に埋め込んでおくことが、権力濫用への備えとして必要なのだと思います。
自由とは、ただ「選べる」ことではありません。
「離脱できる」こと。
そして、
「異議を申し立てられる」こと。
テック企業の寡占化、国家権力との癒着、技術の濫用といったリスクを考えるとき、この二つの「安全機能」を、いかに社会に組み込み、確保していけるかが、これまで以上に重要になってくると考えています。