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飲むな、読め。ー牛乳は牧場の自伝である―【連載第十一回 ユンボを持ってくる人たち】

    夏の昼でした。日陰のない道を、四人のおじいさんが先に歩いていきます。長く酪農をやってきた人たちです。膝が悪い、腰も壊れている。そう聞いていなくても、歩き方を見ればわかります。片方の足を置くたびに、上体が少し傾く。それでも止まらずに、次の角を曲がっていきます。

    その日、5、6軒を回りました。空き家を探していました。

    3軒目だったか、4軒目だったか、門のところで足が止まりました。屋根が半分落ちています。落ちたところから、名前の分からない背の高い木が突き抜けて立っていました。庭には、人の背より高く物が積まれています。農機具だったものか、家財だったものか、雪に潰れて形をなくしたものが重なって、もう何だったのか読み取れません。

    夫と二人で、しばらく黙って見ていました。

    そのとき、後ろから声がしました。

    「何、こんなもの、何もないべ。うちのユンボ持ってきたら、すぐ掘り出せる。そのぐらいのことだ」

    私は笑ってしまいました。えー、本当ですか、こんなこと、申し訳ない。でも本当にありがたいです。心強いです。そう言いました。言いながら、胸の中では別のことが動いていました。

    同じ門の前に立って、同じ屋根を見ていたはずです。私たちが見ていたのは、片付けられない量でした。あの人が見ていたのは、半日の仕事でした。

    5、6軒と回って、誰ひとり「無理だ」と言いませんでした。「これは駄目だな」も出ませんでした。ただ黙って、私たちのあとについて立っている。決めるのは私たちだ、という立ち方でした。そして、もし私たちが「ここでいい」と言えば、その瞬間に「よし、じゃあみんなでやるよ」に変わります。

    判断しない人が、引き受ける。この順番が、私にはうまく飲み込めませんでした。私の世代なら、まず無理かどうかを計算します。計算してから、引き受けるかどうかを決めます。あの人たちは、計算の手前で待っていて、こちらが決めた後に引き受けます。

    どうして同じ人間が、こんなに違う読み方をするのだろう。

    年齢のせいだと言ってしまえば、話は終わります。けれど、終わったあとに何も残りません。


    陸別の開拓から3代目、4代目。あの人たちの祖父や曾祖父が、この土地に入りました。75を超えた人たちが子どもだった頃、まだ家は自分で建てるものでした。壊れれば直すものでした。誰かの手が要る時は、集まるものでした。倒れた木も、潰れた小屋も、片付けられないものではなく、片付けるまでに何日かかるかという問題でした。

    歩きながら、スケートリンクの話を聞きました。

    陸別に冬のリンクができたのは、この人たちが子どもだった頃だそうです。日本で最初のものだった、と教わりました。作り方を聞いて、足が止まりました。

    重機で均したのではありません。川まで行って、バケツに水を汲んで、運んで、まく。凍る。またまく。それを一晩中、大人たちが繰り返したのだそうです。夜中に、氷点下の川べりで、何十人かがバケツを提げて往復している。子どもたちは家で寝ていました。朝、起きたら、氷ができていた。

    その朝を迎えた子どもの一人が、いま私の前を、痛む膝で歩いています。

    寒さを怖がらないわけです。あの人たちにとって、寒さは耐えるものではなく、使うものでした。水は、置いておけば氷になる。氷になれば、その上を滑れる。要るのは、一晩中バケツを提げて歩く人数だけです。

    教わったのではなく、染みたのだと思います。染みたものは、言葉になりません。だから、あの人たちは説明をしません。ただ、ユンボを持ってくる、と言います。

    台湾の、私の祖母の世代が、よく似ていました。言葉も土地も違うのに、同じ強さを持っていました。あちらも、生きることをひとつずつ自分の手でしていた時代の人たちです。だから、これは日本の昔の人の話ではないのだと思います。何を生きたか、という話なのだと思います。

    そう考えると、私の世代が薄いのではありません。私たちは、そういうふうに生きなくてよい時代に置かれました。置かれただけです。けれど、置かれただけの人間が、置かれたまま老いていくと、何が残るのでしょうか。


    このごろ、それが怖くなりました。

    あの四人が、いつかいなくなります。膝の悪い歩き方で先を行く人たちが、いなくなります。そのあとの陸別を、私と同じ世代の者だけで歩いていくことになります。ユンボを持ってくると言える人が、一人もいない町を、どうやって次へ渡すのでしょうか。

    答えは出ていません。

    ただ、できることが一つだけありました。あの人たちが生きているうちに、話を聞ける場所をつくることです。空き家を探して歩いていたのは、そのためでした。喫茶にして、お年寄りが座って、子どもが出入りする。教えてもらうのではありません。染みるものは教えられないからです。同じ部屋にいる時間を、ただ長くとる。それだけです。

    寺子屋喫茶fe、と呼んでいます。

    あの日、半分落ちた屋根の下で言われた一言を、まだ考えています。あれは親切ではなかったのだと思います。あの人にとって、あれは当たり前の見積りでした。当たり前が、こちらには届かない場所から来る。届かないものを受け取るには、受け取りたいと思っている時間が要ります。

    問いは、まだ解けていません。解けないまま、次の空き家を見に行く日が来ます。

    (次回へ続く)


    この日、牛舎の床を掃いていたのは、北海道・陸別町の小さな放牧牧場です。六畳の乳処理室を自分たちの手で作り、保健所の許可を取るまでを、連載に書いています。その六畳から生まれる牛乳の名は「考える牛乳」。集乳車には乗せられなかった物語を、瓶に詰めて、ひとつずつ届けています。

    #牛乳は牧場の自伝である

    #疑問が学びに変わるとき


     
     
    二十七歳まで台湾で育ち、日本に根を下ろして二十四年。北の牧場で牛と暮らして、十年目。夫と二人、日本一小さい(たぶん)乳処理室づくりに挑むことになりました。五十一歳からの記録は、忘れずにいるためのもの。日々の綴り、インスタグラムへどうぞ、毎週更新。

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