
返歌 ――八秒の渋谷へ
お湯が沸くのを待ちながら、茶葉を量っていました。
渋谷、と口のなかで言ってみます。し、ぶ、や。三つの音を並べると、なぜか遠い星の名前のように聞こえます。金星か、木星か。最後にあの街を歩いたのは、もう三十年以上も前のことです。
LaLaLaさんから、ハロウィンの渋谷へのお誘いが届いたのでした。思えば、あの日の不思議は、このお誘いから始まっていたのかもしれません。
はじめは気楽に考えていました。顔写真をAIに渡して、少しキャラクターふうに描いてもらえば、それで支度は済むはずでした。けれど何度頼んでも、出てくるのは私の知らない誰かです。
渋谷へ行くのなら、大正ロマンの姿でなければ、自分が納得できない。夕飯の支度を終えると、箪笥の引き出しを開けました。
畳紙のなかにあったのは、着付けの先生から譲っていただいた一枚です。先生のお母さまから伝わった、大正の頃の着物。百年を越えて、なかなか出番の来ないまま眠っていました。ハロウィンのお誘いがなければ、あの引き出しは、まだ閉じたままだったでしょう。
袖を通し、帯を締めるまで、手は迷いませんでした。
ところが、写真を撮ってくれる人がいません。夫はまだ牛舎です。百年前の布に包まれたまま、戸が開くのを待ちました。
帰ってきた夫は、目を丸くしました。おめかしして、どこへ行くのかと。渋谷、と答えたのは本当のことです。
一緒に行かないかと、誘ってもみました。けれど夫は、人混みに出たら必ず頭が痛くなるから、どうしても行きたくないと言います。あれほどの大都会へ一人で出かけるのは、さすがに心細い。それで、人形たちを連れて行くことにしました。
夫にカメラを渡して、何枚も撮ってもらいました。立ち位置を変え、袖の向きを変え、一枚ずつ。撮った写真を家族三人で見比べて、一番納得のいった一枚を選びました。それを水彩画のように少しだけ色を和らげて、LaLaLaさんにお送りしました。

その一枚が、こんな物語になって帰ってきました。
物語のなかの夫が、渋谷へは絶対に行かないと言い張るところは、そのまま本当の夫です。
三十年ぶりの渋谷を、百年前の着物で、八秒で往復する。指を折って数えてみると、不思議な一日でした。
AIが描けなかった姿を、箪笥の奥の一枚が描いてくれたこと。牛舎から戻った夫が、着物の私を見て目を丸くしたこと。家族三人で、一枚の写真をのぞきこんだこと。どれも、ふだんの牧場の夕方には起こらないことばかりです。
LaLaLaさんのお誘いは、ハロウィンの魔法の杖のようでした。一振りで、眠っていた着物が目を覚まし、人形たちが旅支度をととのえ、遠い星の名前だった三つの音が、手の届く街の名前に戻ってきました。
そして最後に、その一日がまるごと物語になって届きました。魔法のかかった一日に、もう一つ添えられた贈りものです。
山の奥の小さな牧場の、たった一晩の着付けを、こんなに楽しい旅にしてくださって、ありがとうございました。
百年の着物と人形たちは、八秒の旅から帰ってきました。次は、どの街へ出かけるのでしょう。
