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一本の線より、忘れられない一日

    最近、地図を眺めている時間が増えました。

    でも、本当に見ていたのは地図ではなかったのかもしれません。

    「あの尾根を歩けば、この山とつながる」「ここまで歩けば、一本の線になる」そんなことを考えている時間が好きです。歩いたことのない尾根をつないだり、過去に登った山と山を結んだり。軌跡が少しずつ広がっていく様子を眺めていると、次はどこへ行こうかと自然に想像が膨らみます。

    登山を始めた頃は、有名な山へ登っていました。でも、何度か同じような山を歩いた頃、ふと違和感を覚えました。

    「あれ。私は山が好きなのだろうか」

    同じルートを歩き、同じ景色を見て、同じ山頂写真を撮る。もちろん、それも楽しい。でも、それだけで終わってしまっていいのだろうか。そんなことを考えるようになりました。

    それから少しずつ、人があまり歩かない尾根を歩くようになりました。地図を眺める時間も増えました。すると、

    「あ、この尾根を歩けば、あの山とつながる」

    そんな発見が増えていったのです。一本つながる。また一本つながる。その一本一本が、自分だけの山歩きになっていきました。

    気がつけば、「いつか南アルプスから駿河湾まで、尾根を一本の線でつないでみたい」そんな夢まで持つようになっていました。山から帰るたびにGPSの軌跡を地図へ重ね、少しずつ伸びていく一本の線を眺めます。次はどこを歩こう。どの尾根をつなごう。そんな時間もまた、山歩きの楽しみの一つです。

    でも、ときどき我に返ることがあります。これは本当に、自分がやりたいことなのだろうか。それとも、ただ地図を埋めることが目的になっているだけなのだろうか。そんなことを考えるきっかけになった山行がありました。


    その日は、大井川鐵道の福用駅を出発し、八高山から粟ヶ岳まで、市境の尾根を歩いてつなぐ計画でした。八高山は人気の里山です。登山道もしっかり整備され、多くの登山者が歩いています。でも、私が歩きたかったのは、その先でした。

    八高山から一般登山道を外れ、人がほとんど歩かない尾根へ入ります。生活道の跡。鉄塔の巡視路。踏み跡も曖昧な杉林。眺望はありません。聞こえるのは風の音と、自分の足音だけです。誰とも会いません。ただ黙々と歩きます。

    そんな山歩きが、私は嫌いではありません。歩いているのは、人が選ばない尾根。でも地図の上では、確かに一本の線になっていきます。それだけで少し嬉しくなるのです。

    ところが、尾根の先には背丈ほどある笹藪が待っていました。

    立ち止まりました。

    ここを越えなければ先へは進めません。
    「今日はここまでで十分じゃないか」
    「回り道をすれば藪は避けられる」
    そんな考えが次々と浮かびます。

    普段の私は、嫌なことを避ける理由を探すのが得意です。

    今日くらい逃げてもいい。そう自分に言い聞かせようとしました。でも、せっかく自分で選んだ道です。ここで引き返したら、きっと後悔する。そう思い、意を決して藪へ入りました。

    笹をかき分け、容赦なく顔に張り付く蜘蛛の巣を払い、汗だくになりながら前へ進みます。ザックの肩紐が食い込みます。足は何度も止まりました。

    「こんなところ、本当に歩く人がいるのだろうか」

    いや。いる。今、自分が歩いている。そう思うと、なんだか可笑しさがこみ上げてきて、藪の中で少し笑ってしまいました。

    ようやく藪を抜けたときは、本当に嬉しかったです。

    逃げてばかりいた昔の自分を、一つだけ追い越せたような気がしました。

    これで楽になる。そう思って地図を開きました。

    まだ半分でした。

    思わず笑ってしまいました。

    「何をやっているんだろう」

    本気でそう思いました。


    その後も景色のない杉林を黙々と歩き続けます。疲れも溜まりました。

    「ここで下山して電車で帰ろうか」

    そんな考えが何度も頭をよぎります。でも、それでは線がつながりません。何より、あの藪をもう一度歩くのはごめんです。結局、自分を励ましながら歩き続けました。

    ようやく遠くに粟ヶ岳が見えたとき。普段なら親しみのある里山が、とても遠い山に見えました。最後は無言でした。すれ違う登山者の「こんにちは」に笑顔で返す余裕もありません。

    「お気をつけて」

    そう声をかけてもらったことだけは覚えています。

    そして、ようやく粟ヶ岳山頂へ着きました。スマートフォンを取り出し、地図を開きます。スマートフォンの画面には、一本の線がつながっていました。ずっと空いていた隙間が、ようやく埋まっています。でも、画面を閉じたあとも頭に残っていたのは、藪で笑ったことでした。

    「ああ」

    私が集めていたのは、一本の線ではなく、その途中でしか出会えない時間だったのかもしれません。

    平日は画面の前で考え続ける。休日は、藪の中で考えることをやめるまで歩く。そんな時間が、いつの間にか私には必要になっていました。私が本当に欲しかったのは、一本の線ではなく、そんな切り替わる時間だったのかもしれません。


    その後も私は、地図を眺めています。次はどの尾根を歩こうか。どこをつなごうか。そんなことを考える時間は、今でも好きです。

    南アルプスから駿河湾までの線は、まだずっと先です。これが成長なのか、ただの遠回りなのか。その答えは、未来の自分だけが知っています。

    でも最近、ときどき思い出す言葉があります。

    「今やっていることは、未来の自分にとって成長の糧になるか」

    そのたびに、"怠惰な多忙"という言葉が頭をよぎります。

    もし軌跡を集めることだけが目的になっていたら。もし地図を埋めることだけに夢中になっていたら。きっとセネカなら笑うでしょう。

    「そんなものは捨ててしまえ」と。

    そう考えると、大切なのは軌跡そのものではありません。その一本の線の中で、何を感じたか。誰と出会ったか。どんな景色を見たか。何を考えたか。

    「あの稜線を歩いて良かった」

    そう思える景色が一つでも増えるなら、今日の一歩は、きっと浪費ではなかった。そんなふうに思っています。

    セネカの言葉を借りれば、

    「人は生きる時間が短いのではない。その多くを浪費するから短く感じるのだ。」


    静かな稜線のあと、今日も机の上に地図を広げます。まだ白い尾根があります。鉛筆で一本、次の線をなぞります。その線の先で、また笑うのかもしれません。藪に埋もれるのかもしれません。途中で帰りたくなるのかもしれません。

    それでも、歩き終えたあとに残るのは、一本の線ではありません。

    振り返るに値する一日です。

    あの日つながったのは、尾根ではありません。

    山を歩く理由でした。


     
     
    静岡の山を中心に、稜線をつないで歩いています。 約10年かけて静岡百山を完登。 静かな山や深い山、山と向き合う時間が好きです。 ロングハイキングやトレイルランも楽しみながら、山で出会った景色や歩いてきた道を綴っています。

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