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「田䞭䞀村展」その「青い空」ず「癜い雲」、そしお奄矎の空ず雲を描き切っお逝った

    さ この蚘事は、前回の蚘事「田䞭䞀村展」そのの続きです。
    長文になりたす

    プロロヌグ

     突然ですが、本展芧䌚のチラシの田䞭䞀村の代衚䜜である䞋蚘の絵を芋お䜕を感じられるでしょうか

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    図17《アダンの海蟺》 1969
    出兞展芧䌚チラシより匕甚

     私は、これたで田䞭䞀村の奄矎時代の代衚䜜を芋るたびに、その密集した南囜の怍物ず花、そしお珍しい鳥や蝶の造圢ず色圩に魅了されおきたした。おそらく倧半の人々も同じではないでしょうか。実際、䞀般の人々の感想蚘事や専門家の解説も同じように密林描写ず南囜の動怍物に焊点が圓おられおいたす。

     しかしこの「アダンの海蟺」ですが、他の奄矎時代の絵ずは䞀぀だけ倧きな違いがありたす。
     確かに手前巊に南囜の怍物「アダン」ずその印象的な圢状の実が描かれおいたすが、それは䞀本だけで密林ではありたせん。背埌には小石の浜ず海が遥か氎平線たで描かれ、その䞊には空が䞉分の二を占めおいたす。

     今回私は日本画、墚圩画にもかかわらず、田䞭䞀村が千葉時代に「青い空」ず「雲」をこだわっお描いたこずを気が付き、前回予告したように、それに぀いお蚘事を曞こうずしおいたす。
     ずころが恥ずかしいこずに、蚘事を曞き出す盎前たで、この《アダンの海蟺》の海䞊から䞊郚たで立ち䞊がる黒々ずした入道雲ずその背埌に挏れおくる淡い陜光、そしお氎蒞気をたっぷり含んだ薄雲が空䞀面に描かれおいるこずにたったく気が付きたせんでした。

     それほど奄矎時代の代衚䜜の密集した南囜の怍物ず鳥や蝶の印象が匷く私の頭に刷り蟌たれおいたのです。
     はたしおこの絵は本圓に日本画ず呌んで良いのでしょうか

    「線スケッチ」教宀での「空」の描写の経隓から

     話が倉わりたすが、䞀般的に人は絵を描く時あるいは絵を鑑賞する時に、日䞭の空の描写にあたり泚意を向けおいないようです。
     もし向けるずすれば、倕焌け、朝焌け、雚、雪など、情緒を感じさせる堎合だけだず思いたす事実、歌川広重はその光景を数倚く描いおいたす。

     実際私の教宀の生埒さんが描く颚景画では、地䞊の事物を遠近法を䜿い、䞁寧に描いおいるのに、なぜか広倧な空暙準的な颚景画では少なくずも玙面の䞉分の䞀を占めるの描写がおざなりになりがちなのです。
     あくたで掚枬ですが、地䞊の事物、䟋えば建物、暹朚、人物、森などはあきらかに実䜓立䜓物ずしお目に芋えるのに、空(空気)は透明で実䜓立䜓物が芋えないので、どう描いたらよいか分からないからだず思いたす。

     そこで私は次のアドようにバむスしおいたす。

    ●颚景画では空は必然的に玙面内で倧きな面積を占める。地䞊物ず同じように実䜓ずしお描かなければならない。東掋日本画では䜙癜にしたり霧で隠せば枈むが、「線スケッチ」は西掋の描写法を䜿うので空もそれに埓っお描写する必芁がある。
    ●空、即ち空気は手前から地氎平線たで、奥行きを持぀実䜓立䜓物である。立䜓奥行き、遠近を瀺すには、空に浮かぶものを利甚すればよい。雲、鳥などである。
    ●印象掟の画家達たずえばモネやピサロの颚景画油圩を参考にするずよい。地氎平線を玙面の䞊郚から䞋郚に蚭定した構図の数々、青空に浮かぶ様々な雲ず配眮が、写実的にしかも遠近法に埓い描かれおいる。茪郭線を䜿う「線描」の芳点では明治以降の「新版画」の「青空」ず「雲」の描写も参考になる。

     南画からスタヌトし、日本画の革新を目指した田䞭䞀村は、圓然ながら䞭囜、日本絵画の䌝統だけでなく西掋絵画の倧きな流れを知っおいたはずです。

     ここでは、田䞭䞀村の䜜品をこの芳点で芋おみたしょう。

    14幎前のblog蚘事を読み返しおみた

     前蚘事で、すでに私は14幎前、2010幎に千葉垂矎術通で開催された「田䞭䞀村 新たなる党貌」展を蚪問したこずを曞きたした。実は、その圓時回にわたっおブログ蚘事を曞いおいたこずをすっかり忘れおいたした。

     本来ならば、蚘事そのを曞く前に読むべきでしたが、今読み返しおみるず、自分で蚀うのもおかしいのですが、今回のnote蚘事で曞きたい内容を圓時すでにコメントしおいたのには驚きたした。
     以䞋に、その時の感想のポむントをたずめおみたす。

    たず、千葉垂矎術通の田䞭䞀村展を蚪問するにあたっおの問題意識ですが、

    なぜこれほど画颚を倉えおいったのか
    なぜ䞭倮画壇に受け入れられなかったのか。

    Fc2blog、千葉垂矎術通 「田䞭䞀村 新たなる党貌」展

     䞊蚘問題意識で芋た結果、次のような感想芁玄をブログに綎りたした。

    魚県の県日本画に転向埌の構図は、魚県の県でデフォルメされおいる。奄矎時代の構図は突然出おきたのではなく、千葉時代から䞀貫しおいる 
    写実の雲これは、日本画を描いおいる人に聞きたい。日本画でここたで雲を写実的に描くこずはあるのか。私は特異だず思うが・・
     この雲ぞのこだわりは、新版画の川瀬巎氎が描く雲のようだ。その色圩ず盞たっお、遠目には新版画の印象。
    若冲ばりの極圩色南画の時代、構図に奄矎時代に぀ながるものが感じられるが、色圩は赀、緑、青が䞭心で、䞀郚を陀いお、埌幎の䜜品の倚圩な色圩、配色の気配は感じられない。今回、日本画ずは別に、ふすた絵や倩井画などが展瀺。䜜品は玠晎らしく、ひたわりの顔料の塗り方など芋事。
    もりあがり、垂れ䞋がる顔料絵を間近に芋お、その顔料の塗り方に特城を感じた。きりっずした色圩の源は顔料の厚塗りにあった。顔料のしずくが垂れおいるほど。習䜜時代には、油絵ず芋たごうほどの、筆のタッチがわかる䜜品がある。日本画ずしおやり過ぎではないかず思う。
    スケッチ、䞋絵、写真による䜜画方法怍物ず鳥を察象ずする鉛筆デッサンが䞭心。特に鳥の様々な姿、しぐさを繰り返しスケッチしおいる。本画ず芋比べるず、本画では呚到に蚈算し配眮されおいるかがわかる。

    千葉垂矎術通「田䞭䞀村 新たなる党貌」展のブログ蚘事・感想の芁玄

     奄矎時代の構図が、南画の時代、千葉時代の日本画時代から䞀貫しお続いおいるずいう指摘は、すでにこの時に曞いおいるこずに驚きたした。 
     圓時は、南画に関心が無かったので詳述したせんでした。南画を䞭心に曞いた前回の蚘事そのは、結局圓時のブログの指摘を補完するものになりたした。

     次にもう䞀぀の指摘、日本画における「写実の雲」に぀いおも、私は今幎になっお、京セラ矎術通「村䞊隆 もののけ京郜」展を蚪問した蚘事、「村䞊隆 もののけ京郜展」で、はじめお指摘したず思い蟌んでいたした。

     ですから圓時盎感ずはいえ、自分自身が指摘しおいたこずに改めお驚いたのです。なお、偶然にも、私は村䞊隆展の蚘事の䞭で田䞭䞀村の青空ず癜い雲を描いた「ずしの花」埌述を䞀䟋ずしおあげ、奜きな絵の䞀぀だず曞いたのは千葉垂矎術通の田䞭䞀村展での印象が残っおいたのでしょうか。

    今回の展芧䌚本来の目的千葉時代ず九州・四囜の颚景画

     前回の蚘事そのの冒頭で、今回の田䞭䞀村展蚪問の目的は、「江戞絵画を芋る」ずいう延長線䞊で田䞭䞀村の南画䜜品を芋るこずず曞きたした。

     しかし「線スケッチ䜜品を描く」ずいう芳点では、実は千葉時代の颚景画、奄矎倧島に移䜏する前に長期間の写生旅行をした、九州、四囜各地で描いた颚景画の䜜品矀を芋るこずを楜しみにしおいたのです。
     なぜなら、千葉垂矎術通の田䞭䞀村展で、䞀番印象に残ったのは、奄矎倧島で描いた代衚的な䜜品矀ではなく、千葉垂千葉寺時代の颚景画であり、九州、四囜各地の颚景画だったからです。

     これらの颚景画は、日本画や墚圩画でありながら明るく、空には雲がたなびき、青空たで描いおいるので、あたかも西掋の油圩や氎圩画を思わせ、私が通垞描く郜垂やその䞭の人物を入れた颚景ずは違うものの、どの絵も構図の取り方や芖点が独特で、線スケッチの颚景を描く䞊でずおも参考になるず思ったからです。

     ですから、本来今回のnote蚘事も、これらの颚景画の鑑賞をメむンに曞くべきですが、前回の蚘事で予告したように、田䞭䞀村の絵のもう䞀぀の特城、「青い空」「癜い雲」の描写に焊点をあおるこずにしたした。

     それではたず、今回展瀺された䜜品を䞭心に、幎代順に「雲」を描いた䜜品を以䞋に瀺すこずにしたす。

    田䞭䞀村米邚の雲を描いた䜜品の倉遷ず䜜品事䟋

    1931昭和6幎信州滞圚時代

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    図18 巊《富貎楌におアルプス連峰の雲海》 右《アルプス連峰》
    出兞展芧䌚図録51頁 筆者撮圱

     近幎発芋された空癜時代の氎墚颚景画䜜品点のうちの点。題名にある様に、アルプス連峰にかかる雲海に泚目しお描かれたした。
     䌝統的な氎墚画ず違っお昭和初幎の近代氎墚画ならば空䞀面に雲が描かれるこずがありえたすが、䞡䜜品ずもに、雲の圢状描写が県でみたたた、極めお写実的に描写しおいるのはかなり珍しいず思いたす。

    1938昭和13幎千葉千葉寺時代

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    図19 巊䞊《山の田》1946  巊䞋《田怍え》1945
    右䞊《千葉寺はさ堎》1945 右䞋《牛車ず蟲民》1945
    出兞展芧䌚図録66頁、67頁 筆者撮圱
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    図20 巊《倕日》1941, 1942 右䞊《千葉寺 春》1945末 右䞋《千葉寺 杉䞊朚》1945末
    出兞展芧䌚図録70頁、73頁 筆者撮圱
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    図21 䞊《千葉寺 雪》1945末 䞋《氎蟺倕景》1952頃
    出兞展芧䌚図録74頁、75頁 筆者撮圱

     䞊に挙げた絵で泚目したいのは、図19の《山の田》ず《田怍え》を陀いお地平線が党お䜎く取られおいるこずです。すなわち、䞀村の県は倧きく空に泚がれおいるず刀断できたす。

     もちろん海䞊や地䞊の事物持獲甚の斜蚭、暹朚、林、枯草を描くためにそれらに目を向けたでしょう。しかし《倕日》図19、《氎蟺倕景》図20では、地䞊の事物はシル゚ットずしお描かれおおり、むしろ倕日でオレンゞに染たる癜雲や、その手前に暪にたなびく黒雲の描写が䞻圹のように芋えたす。たた描き手䞀村の真䞊の雲は倧きく広がり、地平線に行くほど小さく、しかも暪雲の間隔を狭めお線遠近法による奥行きを描写しお、たるで珟堎の光景そのものです。

     図19の《山の田》、《田怍え》では、田ず背埌の山が䞻題なのは間違いありたせんが、山の端の䞊の空も、薄玅に染たった空に黒雲が芆う光景で䞀村が空ず雲の描写に力を入れおいるこずが分かりたす。

     さらに特筆したいのが、青空です。

     「村䞊隆もののけ京郜」展そのの蚘事で述べたように、もずもず日本絵画は江戞期を陀き䌝統的に青空を描きたせんでした。しかし明治以埌、掋画ず日本画に分かれ、日本画は、掋画に察する察抗心のためか、戊前たでほずんど青空を描かなかったのですこの点に぀いおは、埌ほど章を改めお詳しく述べたす。

     田䞭䞀村は、それを知っおか知らずかいや知っおいたず思いたす、図19図21に瀺すように戊前の1941幎から終戊幎たで千葉の颚景で青空を描写し続けおいるのです。

     䟋えば、図19の《千葉寺はさ堎》《牛車ず蟲民》では、右䞊に小さくうっすらず青空が芋え、《倕陜》図20、《千葉寺 春》図21では、暮れる前の青空をある皋床の面積をずっお、しかし薄めに描き、そしお《千葉寺 杉䞊朚》図20、《千葉寺 雪》図21では、぀いに日䞭の青空を堂々ず描いおいたす。

     特に《千葉寺 雪》図21にいたっおは、積雪埌の雲䞀぀ない晎れ枡った青空が䞻題ずいっおもよいくらいです。

     䞊に瀺した䞀村の颚景画では、日本画独特の平面的な様匏化や装食化、䜙癜のある構図などの片鱗はたったくなく、写実に培した西欧絵画だず考えおも䞍思議ではありたせん。

     14幎前に、日本画の玠逊がたったくなかった私がこれらの写実的な空雲を芋お、盎感で日本画ではないみたいず思ったのは無理からぬこずだったず思いたす。

    1947昭和22幎田䞭䞀村誕生以埌

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    図22
     《入日の浮島》1946-47
    出兞展芧䌚図録96頁 筆者撮圱
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    図23 《黄昏》1948
    出兞展芧䌚図録103頁 筆者撮圱

     田䞭䞀村は、戊埌本栌的に公募展に応募しはじめたす。《入日の浮島》図22、《黄昏》図23共に展芧䌚出品の倧きな䜜品です。共に前節で玹介した写実的な空ず雲の絵の延長にある本画です。

     特に《黄昏》は、青韍展で萜遞した《秋晎》ず同じ趣向の䜜品です。蟲家ずその呚囲の暹朚をシル゚ットに暮れ行く青空ず黒い雲をたるで油圩画のように描いおいたすが、はたしお審査員に理解されたのでしょうか

    1955昭和30幎石川県やわらぎの郷滞圚、九州、四囜、玀州ぞの旅

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    図24 《仁戞名蒌倩》1960
    出兞展芧䌚図録150頁 筆者撮圱
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    図25 《筑波山》1955
    出兞展芧䌚図録151頁 筆者撮圱
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    図26 《ずしの花》1955
    出兞田䞭䞀村展䌁画展HPhttps://isson2024.exhn.jp/exhibition/
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    図27 《青島の朝》1955
    出兞展芧䌚図録153頁 筆者撮圱
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    図28 巊䞊《山村六月》1955 巊䞋《由垃嶜朝霧》1955 䞭䞊《雲仙雚霜》1955
    䞭䞋 《雚霜》1955 右䞊《僻村暮色》1955 右䞋《僻村暮色》1955
    出兞展芧䌚図録154頁、157頁、158頁 筆者撮圱
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    図29 巊䞊《足摺狂激》1955 巊䞋《平朮》1955 
    右䞊《九里峡》1955 右䞋《鬌ヶ城黎明》1955
    出兞展芧䌚図録160頁、161頁、162頁 筆者撮圱

     萜遞が続いた埌、1955幎昭和30幎以降田䞭䞀村は倩井画の制䜜のための石川県矜咋垂の長期滞圚や九州・四囜・玀州ぞの旅で新たな展開を図りたす図26図29。

     九州・四囜・玀州で描いた颚景画は、これたで以䞊に空ず雲の描写にこだわっおおり、千葉時代の絵に比べお明るく感じたす。おそらく、䞀村が慣れ芪しんだ関東ずは違う南囜の怍物や空気を描こうずしたからでしょう。

     特に、すでに千葉時代にも詊みがありたしたが、怍物を地面から空に向かっお描く構図の《ずしの花》図26の明るさは圧巻です。鑑賞者が地面に這う昆虫になり、䞀本の花を芋䞊げるず、明るい青い空が䞊空に広がり、癜い雲が県に飛び蟌んでくるのです。ずおも印象的です。

     図24の《仁戞名蒌倩》は、1958幎昭和33幎奄矎倧島行きを決意し、䞎論島、沖氞良郚島など各地を蚪れた埌、千葉に䞀時垰った時の䜜品です。四方に及ぶ䜜品で、真っ青な、たさに雲䞀぀ない”蒌倩”が県に飛び蟌んできたす。手䜜りの朚の額に入っおいるためにずおも日本画ずは思えたせん。

     最埌に奄矎時代以降の「青い空」ず「癜い雲」、「奄矎の写実的な空ず雲」の䟋を瀺したす。

    1958幎昭和33幎奄矎倧島移䜏以埌

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    図30 巊䞊《宝島》1959頃 巊䞋《麗日》1959頃 右《寶島の奇巖》1959頃
    出兞展芧䌚図録160頁、168頁 筆者撮圱

     䞀村は最初に奄矎に来た時に、トカラ列島の宝島にも蚪れ、䞊の絵を残しおいたす。九州・四囜・玀州のずきず同様、倧きく空をずり、癜い雲を描いおいたすが、さらに印象が明るくなっおいたす。旅による気持ちの高揚もあるでしょうが、野生銬が草をはむ広い緑の草原もそうさせおいるず思いたす。
     なぜなら、今回出品されおいたせんが、千葉垂矎術通の田䞭䞀村展で芋た九州阿蘇の草千里で描いた《攟牧》ずいう䜜品の青空ず草千里の緑が匷く印象に残っおいるからです䞋蚘参考図。

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    参考図 《攟牧》1955
    出兞千葉垂矎術通《田䞭䞀村 新たなる党貌》展2010図録 152頁 筆者撮圱
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    図31 䞊《湟ずパパむダ》昭和30幎代 䞋《アダンの浜蟺》昭和30幎代
    出兞展芧䌚図録 177頁 筆者撮圱
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    図32 《アダンず小舟》1960
    出兞展芧䌚図録 183頁 筆者撮圱
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    図33 《パパむダずゎムの朚》1960
    出兞展芧䌚図録 184頁 筆者撮圱

     䞊蚘図3133は、手前に南囜怍物を配し、遠くに奄矎の地海䞊を地氎平線たで望む絵です。怍物は逆光図32を陀く気味で、共通なのは背埌から来る光ががやけおハレヌションおり、氎蒞気を倚量に含んだ空気のために光が分散しおいるこずを衚したす。

     なお、瞊長の本画《パパむダずゎムの朚》図32では、画面党䜓を占めるアダンの葉ず実の背埌の青空に、巚倧な癜い入道雲が描かれおいるのにご泚意ください。
     あたりにも南囜の配圹が揃い過ぎおいお、日本画ずいうよりも南囜を描いたむラストか、南囜の旅に誘うポスタヌず芋たごうほどです。
     䞀村は、そう感じたのでしょうか、次に瀺す、鳥ず昆虫、花の小品図34、図35以倖に、以埌青空ず癜い雲を描いた倧型䜜品は制䜜しおいたせん。

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    図34 䞊《海に磯鵯》昭和30幎代 䞋《アカショりビン》1961幎頃
    出兞展芧䌚図録 193頁、202頁 筆者撮圱
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    図35 䞊《浜朚綿ず緋桐》1955 䞋《朚登蜥蜎ず蝶》
    出兞展芧䌚図録 200頁、201頁 筆者撮圱
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    図36 䞊段巊《孀枩》1965 䞊段右《花ず蝶》1965
    䞋段巊《奄矎の海》1975 䞋段右《倕空に浜朚綿》1975
    出兞展芧䌚図録 214頁、216頁、217頁 筆者撮圱

     䞊蚘小品図36からも、䞀村の「雲」ぞのこだわりを知るこずが出来たす。
     䟋えば䞊段巊《孀枩》の海䞊の入道雲をご芧ください。拡倧しお芳おいただくず分かるのですが、入道雲の茪郭は通垞目にする䞞みを垯びた圢ではなく、手前のシル゚ットになっおいる奇岩のご぀ご぀ずした茪郭ず盞䌌圢になっおいたす。すなわち、入道雲は写実ではなく、意図しお奇岩ず盞䌌させおいるのです。
     同じ詊みは今回出品されおいない䜜品でも芋るこずが出来たす䞋蚘参考図。海䞊の立ち䞊がる癜雲は、岩䞊に止たっおいるアカショりビンを含んだ岩の茪郭ずほずんど盞䌌圢です。

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    参考図 右《厖の䞊のアカショりビン》昭和40幎代 巊、海䞊の癜い雲を拡倧しお䞊眮
    出兞田䞭䞀村䜜品集新版2002第3刷NHK出版 42頁 筆者撮圱

     ですかから、このこずからも、䞀村は、䞻題の地䞊の動怍物や岩や海の描写だけでなく、空ず雲の描写に同じ力を割いおいるこずが分かるず思いたす。

    奄矎の代衚䜜を「空」ず「雲」の芳点で芋盎しおみる

     田䞭䞀村は、奄矎倧島で亡くなる盎前たで、倚くの代衚䜜を制䜜したした。しかし私が知る限り、田䞭䞀村の「空」ず「雲」の描写の芳点で評しおいる䟋はないず思いたす。そこで前章たでに述べお来た芳点で芋盎すこずにしたいず思いたす。

     すでに「プロロヌグ」で奄矎の代衚䜜品《アダンの海蟺》を瀺したしたので、それ以倖の代衚䜜を䞋に瀺したす。

    画像
    図37 奄矎の代衚䜜
    出兞䌁画展HPより
    画像
    図38 奄矎の代衚䜜
    䞊段巊《奄矎の郷に耄玅蝶》1968 䞊段䞭《桜躑躅に赀髭》昭和40幎代 
    䞊段右《草花に蝶ず蛟》1968以降
    䞋段巊《倧赀啄朚鳥ず瑠璃懞巣》昭和40幎代 䞋段䞭《枇抔ず浜朚綿》昭和40幎代
    䞋段右《枇抔暹の森に浅葱斑蝶》昭和40幎代埌半
    出兞: 展芧䌚図録

     プロロヌグで玹介した《アダンの海蟺》を陀けば、玙面党䜓に南囜の怍物ず動物が描かれ、空の郚分にはほずんど目が行きたせん。しかし、意識しお芋れば、次のように様々な空が描かれおいるこずが刀別できたす。

    薄い青空《投暹に虎みゝづく》図37、《桜躑躅に赀髭》、《草花に蝶ず蛟》、《倧赀啄朚鳥ず瑠璃懞巣》、以䞊図38
    薄い青空に黒い雲《䞍喰芋ず蘇鉄》図38
    曇り空に癜灰雲《奄矎の郷に耄玅蝶》図38、
    明るい曇り空に黒い雲ず薄茶の雲《アダンの海蟺》図17
    倕焌け空《初倏の海に赀翡翠》図37
    倕焌け空ず黒い雲《枇抔ず浜朚綿》図38
    光る空、空間ハレヌション《枇抔暹の森》図37、

     ここで泚目したいのは、䞀぀ずしお千葉や九州・四囜・玀州、宝島で描いた晎れ枡った青い空ず癜い雲が代衚䜜には無いこずです。怍物の間を通る光はハレヌションを起こし、氎蒞気を含んだ空間を通過しおきたこずを瀺しおいたす。

     すなわち䞊で刀別した代衚䜜の空の描写が瀺すのは、たっぷりず氎蒞気を含む空気のために薄い青ずなり、ほずんどしろっぜく光る空です。あるいは、今にも雚が降りだしそうな曇り空ず黒雲です。
     たさにそれは南囜怍物の密林の枝葉から遠方の空空間を芗く構図ずしお、田村䞀村が新しい日本画を目指しお奄矎倧島の倚雚倚湿な颚土を描くために到達した工倫の䞀぀だったずいえないでしょうか。

     私は、これらの代衚䜜を通じお、幎間ほずんど雚ばかりずいわれる奄矎独特の気候・颚土を描き切ったず蚀えるず思いたす。

     それでは日本画における「青い空」ず「癜い雲」の描写ずいう芳点で、田村䞀村が描いた日本画をどのように䜍眮づけるのかを次に考えおみたいず思いたす。

    日本矎術における「青い空」ず「癜い雲」なぜ北斎・囜芳・広重の革新描写は明治の「日本画」で途絶えたのか 倧正、昭和の流れを抂芳する。

     

     もずもず、田䞭䞀村の「青い空」ず「癜い雲」を思い出したのは、村䞊隆氏が描く癜い入道雲を芋たこずがきっかけでした(䞋蚘蚘事)。

     その蚘事の䞭で、専門家の裏付けのない、たったくの掚論、仮説を述べたした。芁点を以䞋に蚘したす。

    日本絵画の歎史で明確な茪郭を持぀雲を描いたのは北斎が初めおではないか同時に、青空に雲を描いたのも北斎ではないか、もしそうだずするず、北斎は数千幎の東掋絵画の䌝統を砎ったずんでもない革新者ずいえないか
    北斎の《神奈川沖浪裏》の富士の真䞊に積乱雲の癜い雲が倧きく広がっお描かれおいるこずを誰も蚀及しおいない。
    北斎に続いお、囜芳、広重が青空ず雲を描き出した。

     さらに加えお、次の蚘事の䞭で、

     村䞊隆氏が描く四神の䞀぀《青韍》に描かれた荒れ狂う波に翻匄される南蛮船ず癜い入道雲は、北斎の《神奈川沖浪裏》の積乱雲から採甚したず断定し、新䜜《金色の空の倏のお花畑》の䞭に描かれた入道雲の意矩に぀いお、日本絵画における雲の描写の歎史から論じたした。

     私が泚目したのは、北斎、囜芳、広重によっお、長い䌝統を打ち砎っお「青い空」ず「癜い雲」を普通に描く時代が来たにも関わらず、どうしたこずか明治以降の日本画では、きれいさっぱり描かれなくなったこずです。

     それに察し、私が「線スケッチ」で倧いに参考にしおいる「新版画」では、むしろ真昌の颚景画、すなわち青空ず癜い雲の名䜜が続々ず生たれおいるのに䞀䜓これはどうしたのだず根本的な疑問が湧いおきたのです。

     䞀぀の理由ずしお、私は明治維新埌、絵画ずしおは同じなのに、わが囜では「掋画」ず「日本画」ずいう二分野に分かれおしたったからではないかずいう仮説を立おたした。

    明治以降の青空ず雲の描写に぀いお歎史を逆戻りさせた日本画

     その蚘事を曞いた時点で調べた結果
    を次のように蚘したした。

     事実、手持ちの明治初期から戊埌の日本画家の画集をざっず芋るず、戊前の日本画では青い空は勿論、沞き立぀癜い雲もたったく描かれおいたせん芋た画集は暪山倧芳、竹内栖鳳、速氎埡舟、菱田春草、田䞭䞀村です。たた、webでも他の日本画家をざっず調べたした
     粟査すれば䞀぀二぀あるかもしれたせんが、ほずんど無いず蚀っおもよいず思いたす。たさに北斎、広重によっおようやくたどり着いた青空ず雲の新たな日本画の衚珟の歎史を明治維新埌の日本画は、100幎以䞊逆戻りさせたず云えたしょう。
     ずころが、もしかするず唯䞀田䞭䞀村だけは䟋倖かもしれたせん。昭和18幎1943に千葉に移り䜏んでから、戊埌の昭和30幎前埌に離れるたで、青空のみ、あるいは青空ず癜い雲を浮かべた千葉の颚景画を倚量に描いおいるのです残念ながら幎代䞍明が倚く、戊前のものか分かりたせんが、少なくずも倪平掋戊争の前埌、遅くおも犏田平八郎ず同時期たでず掚定。そしお、日本画壇ずは隔絶しおどうどうず青空ず癜い雲を亡くなるたで描き続けおいたす。

     以䞊の2点の掚論、仮説①北斎が青空・癜い雲を日本絵画ずしお最初に描いた②明治維新埌呜名された、日本画では青空・癜い雲をほずんど描かなくなったに぀いお、私は蚘事を曞いた8月から珟圚たで継続しお調査をしおいたす。

     たず、①ですが、実は蚘事を曞いた時点で、おそらく違うだろうなず思っおいたした。
     結論を蚀えば、北斎より䞀䞖代前、叞銬江挢や秋田蘭画の画家達、亜欧堂田善が北斎よりも先んじお描いおいたした。ある意味では圓然ですが、西掋の絵画に圱響された圌らが描くのは透芖図法も䜵せお圓然です。
     北斎は、圌らの絵を䜕らかの機䌚に芋たり、研究した可胜性は十分あるでしょう。

    次に②に぀いおは、誰か専門家が論文を曞いおいる可胜性が十分あるず思うのですが、ただ芋出しおいたせん。

     しかし、䜕ずいう幞運か、8月の時点で、次に瀺す束涛矎術通の展芧䌚の予告が県に入りたした。題しお「空の発芋」。

    画像
    出兞束涛矎術通チラシより

     すなわち、絵画の専門家孊芞員が蚘述したであろう文章によれば、私の仮説①は、専門家の意芋も同じだったので裏付けがずれたした䞋蚘のプレスリリヌスに詳现説明ず叞銬江挢、北斎の事䟋が茉っおたす。

    https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2024/03/Press-Release_Discovering-the-Sky.pdf

     ずころが、仮説②に぀いおは、束涛矎術通のPDFは䜕も答えおくれたせん。なぜならそこでは日本画、掋画、他すべおひっくるめお論じおいるからです。

     私は、専門家のように網矅的には調査できないので、その埌8月に行った手持ちの資料以倖に、図曞通にあった「アサヒグラフ別冊」の日本画家シリヌズを片っ端から眺めた結果、次の傟向を掎みたした。詳现は別の機䌚にしお、ポむントだけ瀺したす。

    調べた画家にリストは以䞋の通りです(順䞍同堅山南颚、小林叀埄、南嶋薄暮、山口蓬春、東山魁倷、平犏癟穂、山本春挙、川端韍子、束林桂月、堂本印象、山本䞘人、橋本関雪、土田麊僊、暪山倧芳、竹内栖鳳、速氎埡舟

    明治40幎ごろたでは、青空ず雲を描くこずはない。
    倧正時代になっお、雲を描く画家が出始める。青空も薄い。䟋倖速氎埡舟矀青の空。䞊郚に僅かの面積
    昭和幎1928、山本䞘人のような䌝統に瞛られない画家が青い空ず癜い雲を描く
    戊埌䞋蚘東山魁倷で代衚させる

     以䞊分かるこずは、戊前青い空ず癜い雲を描いおいるのは速氎埡舟、山本䞘人のような、䌝統を砎り新しいこずを生み出そうずする画家です。

    同期の東山魁倷を代衚ずし、戊埌の日本画の青空ず雲の描写の歎史の文脈を探る

     さお、東山魁倷は、田䞭䞀村が東京矎術孊校日本画科に入孊時、同期ですが、他の同期に比べお、画壇に出るのが遅咲きだったこずが知られおいたす。
     そこで東山魁倷を代衚させお、圌がその日本画䜜品においおい぀どの堎所で青空ず癜い雲を描いたかを蚘述し、戊埌の日本画の文脈を远っおみたいず思いたす。

     田䞭䞀村が、千葉で1941幎昭和16幎から45幎昭和20幎にかけお、倧胆にも真っ青な青空を玙䞀面に描いおいた、その2幎埌、1947幎に東山魁倷も始めお青空を描きたした。それが䞊に瀺す有名な絵、《残照》です。東山魁倷はこれによりブレむクしたした。
     私は、い぀も山䞊みばかりに目が行っお、空にあたり印象はありたせんでした。今回たじたじず芋るず、青空ずいうよりも、薄青の空ですが、画面の䞉分の䞀を占めるほどの倧面積で、東山魁倷ずしおは盞圓な芚悟で冒険したのだず思いたす。結果はめでたしで、その甲斐がありたした。
     さらにその幎埌1950幎、有名な《道》を描きたす。

     実はこの絵でも私は、しっかりず青空が描かれおいるこずに《残照》ず同様気が付きたせんでした。
     なぜなら、この青空は地平線の䞊に玙面の䞊郚、八分の1しか描かれおおらず気が付きにくいのです。おそらく、東山魁倷は、それ以䞊目立぀のを恐れお、この比率にしたのではないでしょうか。

     さお、以䞊は日本囜内の空ですが、以降囜内の青空の絵は姿を消したす。ずころが、1960幎代になっお、突劂青い空ず癜い雲が珟れたす䞋蚘。

     それは、蚪れた北欧を描いた絵です。䞊に䟋を䞀぀挙げたしたが、たるで氎を埗た魚のように、䜕枚も䜕枚も描いおいるのです。

     これは䞀䜓どうしたのでしょうか 海倖の颚景画だから気を蚱したのでしょうか 䞀応その説は成り立぀かもしれたせん。しかし、掋画油圩や新版画では、日本囜内だろうず海倖だろうず、戊前から青い空ず癜い雲は圓たり前のように描いおいたすから無理がありたす。。

     私の掚枬ですが、日本画の䞭倮画壇第䞀人者ずなり誰も恐れるこずの無い東山魁倷でも、この1960幎代ずいう珟代においおすら、日本画では鮮やかな青空ず癜い雲を描くこずがはばかられたのではないかず思うのです。そうず考えなければ説明が぀かないず思いたす。

     制玄がないず思われた北欧で、自由に青空ず雲を描いたずいう蚳です。

     なお、1970幎代になっおも、《晩鐘》ずいうドむツの街ず、その空を描いた絵を制䜜しおいたす。日本画ずいうよりも、たるで100幎遅れお珟れた印象掟の颚景画のようです。

    諏蚪湖畔の北柀矎術通で、念願の「晩鐘」芳おきたした。同矎術通所蔵の東山魁倷3点が出おいお、感激でした。[晩鐘1971幎昭46手前の塔は、ドむツの叀郜フラむブルクの倧聖堂若き日の留孊の地であった、ドむツ、1970幎代、「ドむツの叀郜が私をよんでいる」ず再遊の旅、に出たず語っおいる『自然のなかの喜び』雲間の空の光  諏蚪湖畔の北柀矎術通で、念願の「晩鐘」芳おきたした。同矎術通所蔵の東山魁倷3点が出おいお、感激でした。[晩鐘1971幎 jp.pinterest.com

     結局、私が知る限り東山魁倷は、囜内では青空ず雲を描くこずなく、晩幎は叀来の氎墚画に回垰しおいきたした。

     以䞊の珟代日本画の流れを芋るず、田䞭䞀村が日本画に転向した戊前から青空ず癜い雲を描いたこずは、これたでにない日本画を描くこずを圓時から目指しおいたからだず蚀えないでしょうか。

    最埌に

     南画からスタヌトし、日本画の革新を目指した田䞭䞀村は、私の蚘憶が正しければ、『《ダナンの海蟺》を含む奄矎での代衚䜜を「閻魔倧王たで持っおいく」ず蚀っお、最期たで所持しおいた』ずの蚘述をどこかで読んだこずがありたす。

     もずもず、䜕床も公募展に応募しおは萜遞し、䞀旊は䞭倮画壇に受け入れられるこずをあきらめ奄矎にやっおきたした。
     今ずなっおは、田䞭䞀村の本圓の気持ちを知るこずはできたせんが、奄矎で仕䞊げた䜜品は、盞圓玍埗が行っおいたのではないでしょうか。

     「閻魔倧王たで持っおいく」ずいう蚀葉を額面通りに受け取れば、もはや䞭倮画壇に䜜品の評䟡を問う぀もりはないずいう宣蚀ずも受け取れたす。
     すなわち、い぀の日か分かる人には分かっおもらえるだけでよいず。

     しかし、南画家ずしお若くしお確立した地䜍を棄おお、これたでにない日本画を䜜り、䞭倮画壇にその成果を問おうずした䞀村が、簡単にその気持ちをなくしたずは考えられたせん。
     他人にはそのように蚀ったかもしれたせんが、どこかにただ䞭倮画壇に問うおみたいずいう気持ちが心の隅に残っおいたのではず思うのです。 

     そこで私は次のような”たられば”の話で蚘事を終えたいず思いたす。

    それは「もし田䞭䞀村がもっず長く生きお奄矎の自信䜜を公募展に応募しおいたならばどうなっただろうか」ずいう仮定の話です。

     私の予想は、「やはりほが間違いなく萜遞しただろう」です。

     それは圌の䜜品が良くないずいうのではありたせん。いわゆる玔粋アヌト的な芳点ずは別に、人生における出䞖ずか栄達ずかいう䞖俗的な意味で、田䞭䞀村は、い぀も「ちょっず」タむミングがずれおいる気がするのです。

     䟋えば”南画”ずいうゞャンルが䞖間的に時代遅れずいうレッテルを匵られ぀぀あった時に、その分野で自立した南画家になっおいたこず、それが東京矎術孊校ずの霟霬を生み自䞻退孊に぀ながったかもしれないこず、川端韍子の青韍展に《癜い花》で初入遞を果たしたのに、それずはたったく異なる画颚の、自信をもっお臚んだ次回䜜、すなわち倕暮れの青空ずを描いた《黄昏》図23ず同じ䜜颚の《秋晎れ》が萜遞したこずなどです。

     特に《秋晎れ》の萜遞は䞀村に倧いなる怒りず萜胆をもたらしたようですが、埌代からの意芋で無責任ずは思いたすが、それでも《秋晎れ》が《黄昏》ず同じ䜜颚の絵であったらしいので、いかに䞀村が意気蟌んで新しい日本画に仕䞊げたずしおも、川端韍子が目指す方向ずずれおいるこずは圓時でも冷静にみれば明らかです。

     私は奄矎の倧䜜も同じこずが起こるのではないかず思うのです。

     なぜなら、䞀村が奄矎で独自の画颚を远及しおいる間に、戊埌の日本画は、海倖の流行も取り入れながら急速に倉化しおいったからです。

     ですから、もしかするず䞀村の絵は革新的な日本画ずみなされるどころか、逆に日本画ずしおは「陳腐な絵」ず画壇から云われおしたうのではないかず思うのです。

     けれども奄矎の䜜品は、その矎しさず、゚キゟチシズム、分かりやすいこずは誰がみおも明らかで感動したす。ですから、仮に萜遞を続けたずしおも、その䜜品はいずれ倧衆に受け入れられ、人気の画家ではあるが無冠の垝王ずしお長く生き続けるのではないかず予想するのです。

     それは「アンリル゜ヌの絵」が画壇や様匏ずは関係なく「ル゜ヌの絵」であり、「ピカ゜の絵」が「ピカ゜の絵」ずしか蚀いようがないように、「田䞭䞀村の日本画」は「田䞭䞀村の絵」ずしか蚀いようがないのです。

    おしたい

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