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【夢分析】南米の大都市で高架鉄道に乗る夢・中庭で蝶の幼虫を観察する夢ー心の深みの均衡へ分離と結合を分離しつつ結合するマンダラ夢

    はじめに
    心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

    夢のビジョンにおいて見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動パターンが、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるものである。

    神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底を揺さぶり、そこから浮かび上がらせた波紋のようなものである。その波紋状のパターンが意識によって自覚される相に写像された姿が「マンダラ」である。

    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

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    視覚的イメージとしてのマンダラ
    語りに現れる「述語」としてのマンダラ

    マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。

    しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

    結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方

    この分離する動き、結合する動きは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

    分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
    結合しようと動くが・・・
    うまく結合できない

    あるいは

    結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
    分離しようと動くが・・・
    うまく分離できない

    実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

    夢は、いや、夢として記憶の残像を表層に残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

    マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。

    マンダラと『神話論理』と夢分析

    ここで「マンダラ」について説明してこう。

    マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。

    神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

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    図1

    神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない。

    何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。

    Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

    神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

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    図2

    これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

    一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。


    分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き

    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

    このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

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    ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

    以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる。

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    図2(再掲)

    もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする。

    そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである。そこで尊重されるべきは一貫性ではなく脱輪、脱線である。

    +

    ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。
    私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

    このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。

    しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

    伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起 

    「何であるか」はとりあえず脇に置いて
    「どう動くか」をみる

    『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

    ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

    河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8

    この神話や夢に表現された、心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも扱いやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。

    特に、分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

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    マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

    夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。

    つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

    「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

    そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。


    以上を踏まえ、筆者自身の夢を分析してみよう。

    南米の大都会を走る高架鉄道で巨大なビルの中に突っ込む夢

    夢見者は、南米はブラジルかどこかの国の大都市に来ているらしい。

    日差しが強く、湿度も高め、そして都市の上空は排気ガスの熱気に満ちているが、日陰に入るとどこかしっとりとしたひんやり感もある。

    夢見者私は子どもの時代の姿に戻っている。
    私は男の子
    で、同じく子ども姿の姉と弟と、母親と一緒にいる。

    この四人で列車か、高架橋の上を一直線に走る新交通システムのようなものに乗っている。
    四角形の箱型の乗り物である。

    この乗り物に乗って、最近できたばかりだという、鉄道駅と一体化して線路を跨ぐように建築された巨大なビルに行くつもりである。

    乗っている鉄道車両は極端に横幅が薄い構造をしている。
    大都市の高架鉄道であるが、車両の横幅はずいぶんと狭い。
    大人ひとりが両手を少し広げれば、両側の壁に手がついてしまう。
    昔よくあった「馬面(うまづら)電車」のような具合である。

    不思議な感じを受けるが、「地球の反対側までくると電車の車両の形もいろいろなのだ」と思い、勝手に納得する。

    *

    電車は高架の上を走り続ける。
    途中、駅をゆっくりと通過している途中に、突然、車両の扉が開いた。
    私は一瞬、降りようとするが、車両はまだ動いている。
    しかも駅のホームドアは閉じたままである。

    二枚重ねの扉の一方が開いているのに他方が閉じている。
    開いているのに閉じている。

    わたしは混乱するが、どうやらこの電車はこの駅に止まるつもりはなく、ただ故障か何かで走行中にも関わらず扉が開いたのだ、と理解する。

    *

    車両はさらに、高架線上を進む。
    再び扉は閉まって、軽快に走行する。

    大きな窓から外を見ると、日本の郊外によくある建売住宅がたくさん並んでいる街区が、我々が今その上を高速移動中の高架橋に沿って、広がっているのが見える。

    私は、「地球の裏側のブラジルにも、日本と同じような方式の建売戸建街区があるのだなあ」と感心する。

    *

    ふと気がつくと、電車はもう目的地の駅に着いたという。
    ここが目的地の、駅の上に巨大なビルがある場所らしいが、とはいえ、もうそのビルのお腹の中に入り込んでいる形なので、車内から窓越しに外を眺めても、当の巨大なビルの全貌を外から対象化して眺めることはできない。

    私たち四人は、ゾロゾロと電車から降りる。
    今度は車両の扉も、ホームドアも開いている。

    *

    ここで私たちは三人とも子供の姿をしているので、母親から駅に着いたのでトイレに行きなさいと言われる。
    母は姉を連れて女性用の方へいく。
    わたしと弟は男性用の方へ、分かれていくことになる。

    ただ、私はトイレには用はないので、改札のあたり、トイレの入り口から出入りする人を遠くから確認できるくらいの場所でひとりうろうろする。

    この駅、新築巨大ビルのお膝元にしてはあまり活気がない。
    改札のまわりにも我々以外誰もいない。
    降りる駅を間違えたのではないかと心配になる。

    そのうち姉が女性用の出入り口から出てきて、外にいる私からもその姿が見えるようになる。姉がこちらに気づいて手を振って、こちらに向かって走り出そうとするので、わたしは少しホッとする。

    ところが、姉は思い出したように急に立ち止まったかと思うと、くるりとUターンする。こちらに向かうのはやめて女性用のトイレの中に再び戻っていく。姉は母親と私と一緒にいないのを確認して、まだ中にいる母親を探そうと戻っていく様子である。

    そこで私もふと、弟がいつまでたっても出てこないなあと思う。

    姿が見える者が私と姉。
    姿が見えないが近くにいるはずなのが母と弟。
    姉と母は女性、弟と私は男性。
    姿が見える見えない軸と、男女軸とが交差しているなあ、と思う。

    この夢は、大きく二つの場面からなる。

    第一の場面は、高架橋の上(天/地の中間)を、四人がひとかたまりになって、妙に薄い(縮んだ)列車で高速移動する。

    第二の場面は、その列車から降りて、巨大なビルの腹の中と思われる場所で、四人が姿が見える見えない軸と、男女軸ではっきりと分離しつつ、お互いを気に掛けることで結合も保つ、という状況である。

    詳しく見てみよう。

    *

    地球規模の球体

    まず夢見者たちは、普段は東アジアの日本に住んでいる。それが地球の反対側である南米のどこかの大都市に来ている。

    地球という球体の直径の両端、球体表面で最大の距離にまで分離した反対側に移動してきたことになる。

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    四即一に収縮しながら高速移動

    いわば球体をぐるりと大きく反転させたところで、夢見者たちは四人一組、ひとまとまりになって都市交通に乗っている。

    四人は、母親、長女、長男、次男、である。三人の子どもたちは夢見者がこの夢を見た時点では実際にはもういい大人だが、夢の中では子どもの姿に戻っている。四人は血を分けた親子きょうだい関係であり、強く結合している。これは図2で言えば、1)

    β
    β   β
    β

    このような結合・凝縮の様相である。

    神話の場合もそうであるが、夢においても、心の深みの分離と結合の伸縮する動きが表層の意識に浮かび上がる時には、あくまでも表層の分別、図1でいうΔ諸項の対立関係を転用して、Δ項たちを過度に結合したり、過度の引っ張って分離したりすることで両義的媒介項を作り出さなければならない。

    Δ→β←Δ

    β←Δ→β

    親子きょうだいというのは、経験的感覚的にもそれぞれ別々の人間であり、その点ではそれぞれがΔである。まず親子でいえば「大人/子供」の対立も際立つ。また家族内でも「男/女」の分節は際立つ。この夢でも男女と大人子供の対立関係がはっきりと見える。

    この経験的に分離しているΔたちを近づけ、バラバラにならないようにまとめておくために、鉄道車両という容器の中にまとめて入れておくのである。四人はこの車両が動いている限り、勝手に飛び降りたりしてバラバラに距離をとることはない。

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    神話や夢の冒頭の、四即一にして一即四になったかたまりは、Δ四つを過度に凝縮することで一つでありながら四、四でありながら一のものを作り出している。図2の1)の四つで一つのβはこのことを表現している。

    妙に幅の狭い車両

    おもしろいことに、この凝縮感を高めているのが、四人が乗っている乗り物の形である。それは極端に横幅が薄い、鉄道車両にしては不安定にすぎると思われるほどの左右の縮み具合である。これが仮に四角形、特に正方形に近い断面をしている車両であれば、正方形の四つの角は付かず離れずに分離と結合が均衡していることになる。もしそうならば、これはそのままマンダラ状の均衡である。しかし潰れた車両は縦長の長方形、あるいは縦に一本の線に近いものであり、四角形で象徴されるマンダラ状の均衡には程遠い。

    しかも、その薄い車両が高速で走行している場所は、高架橋の上である。
    つまり天/地の区別でいえば、地上から高く持ち上げられた、樹上のような、街路樹の梢を上から見下ろせるような高さである。とはいえこの車両はあくまでも鉄道であり、天高く飛翔するわけではない。

    つまり、この高架橋上の車両は天/地のどちらにも属さない、中間領域を広げているのである。あるいはこの車両、左右に潰れているというよりも、上下に伸びているのかもしれない。もちろん、どちらでも相対的には同じことである。これは図2の3)の様相を思わせる。

    ー
    ||
    ||
    ||
    ||
    ||
    ー


    β
    |
    |
    |
    β   β
    |
    |
    |
    β

    ちなみに、2)の様相は、水平方向に出発点と到達点の間を高速で移動するこの都市交通自体の姿が体現している。

    β
    β ー ー ー ー ー ー ー β
    β



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    この『容器』としての鉄道車両は、それ自体が左/右の対立において収縮しているような姿をしており、また、地面から高架橋の上に持ち上げられている点で、上/下の対立において伸展している。この車両はマンダラの均衡を思わせる「四角形」であると同時に、縦に横に伸び縮みする述語的様相を体現してもいる。

    閉じているのに開いている

    さて、この車両の走行中、夢見者は不思議な光景を二つ、目撃する。

    ひとつは走行中、駅を通過しながら突然扉が開くが、ホームドアは閉じたままという「開いているのに閉じている」光景である。

    ふたつめは地球の反対側、南米まで来たのに(つまり元いたところからみれば真逆の世界に移動してきたはずなのに)車内から見える建物が、元いたところ日本と変わらないという「異なるのに同じ、同じなのに異なる」光景である。

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    どちらも、開/閉、異/同、経験的な対立二極のどちらであるとも言えない「不可得」な様相である。これはこの高架橋上を移動する乗り物とその中の四人が、両義的媒介項たちが分離したり結合したりと伸縮する、経験的な区別がかっちりと分節される手前のモードにあることを象徴している。図2の1)から3)である。


    さてそうなると、次なる展開は4)になるはずである。

    夢見者たちが目的地に到達したあとの動きが、まさに4)である。

    気がつくと巨大なビルの内部に

    夢見者と、姉・弟・母の四人は、目的地の駅に降り立つ。
    この駅は、新しく建築された巨大なビルの中に作られている。
    高架鉄道が、そのままビルの中につっこむような形になっているのである。

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    この画像は降りずに通過していく

    夢見者は、このビルの全貌をみてみたいと感じている。
    四角形の建物なのか、円形の建物なのか、あるいは卵形の建物なのか、気になるのである。

    しかし、見ることはできない。

    夢見者が気づかないうちに、車両はビルの中に突き進んで止まっている。
    気づいた時にはもうそのビルの中に入ってしまっており、中からでは外観を俯瞰することはできない。

    ただいずれにせよ、巨大な四角形か円形か、つまりマンダラ状の構造体であると思しき場所に入っていることは確かである。

    この手の巨大建築物の中に入る様子は、この夢見者がしばしば見るビジョンである。例えば、下記の記事で分析した夢もそういうものである。

    四者の間に距離がひらく

    ここで夢見者たちは、さきほどまで四即一でひとつのかたまりに結合していたところから分離へと向かう述語的様相を呈する。子どもとの外出ではよくあるように、母親から、トイレに行っておくように促されるのである。

    ここで四人が、まず、男/女で分離される。
    姉と母が「女性」、夢見者と弟が「男性」である。

    男/女をはっきりと分離する経験的な枠組みとして「トイレ」というのは都合よく分かり易い。

    *

    ちなみにトイレというのは、その排水が上から下へ、しばしば地下へと降りていく仕組みである。先ほどの高架鉄道が下から上へと持ち上げる仕組みであったのと見事に対立している。

    下から上へ揚げる / 上から下へ降ろす
    ||        ||
    高架鉄道 / トイレ


    * *

    姿が見える/姿が見えない
    結合している/分離している

    次に、女性二人、男性二人、それぞれの間でも分離が生じる。

    母と姉が、女性用トイレの内と外に分離する。

    夢見者と弟も、男性用トイレの内と外に分離する。

    この場合の内/外の区別というのは、夢見者の観察している場所に対する相対的なものである。夢見者から「見えている」場所がトイレの外、夢見者から「見えていない」場所がトイレの中である。
    内/外というのを、夢見者からみて、

    隠されている/隠されていない(見えている)

    の区別に置き換えてみてもよいかもしれない。
    隠されているとは、すなわち夢見者との関係が「分離」であり、見えているとは、すなわち夢見者との関係が「結合」である。

    男/女

    そして

    内/外
    (入っている/出ている)
    (見えていない/見えている)
    (分離している/結合している
    )

    ふたつの対立軸が交差しようとしている。

    ここでおもしろいのは「動き」である。
    姉が、トイレの内から外に出てきて、夢見者から見える位置へ近づいていくる。この時夢見者と姉の間には分離を結合に転じる動きが動いている。しかしすぐに、姉はUターンして、トイレの中にまだ入っている母の方へ戻っていく。この時夢見者と姉との間には結合を分離に転じる動き、先ほどとは逆の動きが動いている。

    この姉の動きを見て、夢見者もトイレの外に出ていながら、まだトイレの中に入ったままである弟を気にかける。気に掛けるというのは、分離しながらも結合している様相である。

    内/外、男/女

    経験的感覚的にはっきりと分離している対立二極のあいだで、分離と結合の様相を転じたり、分離しながらも結合しようとしたりする。これは分離と結合の対立という経験的世界を意味分節するために必要な最も基本的な対立、分別を区切り出そうとする、絶対無分節が分節する動きであるとも言えそうである。そこから分離と結合が緊張しつつ均衡に向かおうとしている。これは図2でいえば、3)が4)へと、いままさに転換しようとしている様相であるといえようか。

    *

    以上のようにして、私たちの心は、睡眠中に夢を見ることによって、仮にマンダラ状の図で表現できるような分離と結合が均衡した付かず離れずのしなやかさを回復しようと、まずぎゅっと凝集させ、そしてある方向に伸展させ、また別の方向にも伸展させ、そして伸び切ったままにせずに適度にあつめて付かず離れずにする、といったぐあいのストレッチをしているわけである。

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    ロの字型の建物の中で

    同じ夢見者の、この夢とは別の日の夢で、より伸縮感が小さいものを紹介しておこう。これも同じく、筆者自身の夢である。

    この夢は、どうやらマンダラ状の均衡の中に、すでに入っているところからはじまっている。

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    いや、ここがはじまりというよりも、おそらくここに至る手前で、心は激しく凝縮したり、長く伸びたり、伸び切ったところで一旦止まったりしていたのかもしれないが、そこは覚醒後に意識的に思い出すことができない。そしてそこを思い出す必要は特に無いのである。

    夢見手は、ロの字型をした集合住宅の一階に居る。

    ロの字の真ん中に当たる中庭から、清々しい光が室内にまで差し込んでいる。

    部屋は広々としており、奥の方までは光が届かず薄暗くなっている。薄暗い中へ目を凝らすと、コンクリート造りの乾いた壁やドアが見える。もしかすると地下室に繋がるドアかもしれない。
    若干湿り気のある室内なので、ああいうところは放っておくと埃にカビが生えるかもしれない、と思う。あとであの辺りも掃除をしよう、と思う。

    *

    中庭に出てみる。
    なにか荷物を運び出すために出たような気もする。

    中庭に出てみて、空を見上げる。
    良い天気である。

    この中庭は我が家のプライベートな庭として利用しているらしい。

    中庭の様子を見渡す。
    建物は三階建くらいで、上の階の家からも、中庭を見下ろせるようになっている。

    ここで、夢見者わたしは、ふと自分が下着姿のまま中庭に出て来たことに気づく。

    いくらプライベートな中庭でも、別のフロアの居住者から丸見えではないか。
    わたしは急いで室内に入ろうと歩き出す。

    +

    ふと、足元で動くものがいる。
    小さな毛虫である。
    わたしはこれを踏んでしまったら不殺生の戒に反すると思い、足を止める。
    また、自分が裸足であることにも気づき、毛虫を踏んだらこっちも大変だ、と思う。

    よく見ると他にも何匹か毛虫が地面を這っている。

    中庭の木から落ちたのだろうか。それとももっと上階の方から落ちて来たのだろうか。と思う。

    毛虫たちが無事に木に辿り着けるように願いながら、わたしはもといた室内に戻っていく。

    まず、夢見者は、三階建くらいの四角形の建物の中にいる。
    四角形というか、上から見れば「ロ」の字の形をした正方形であると、全貌を見たわけでもないのに意識されている。
    これ自体がマンダラであろう。

    この建物は、上/下の方向で、まず上に向かって明るく開けている。空からの光が差し込み、空と直接連続的に結合した中庭を照らしており、その中庭に溢れる光が薄暗くしっとりとした室内にも入ってくる。

    同じく、この建物の上/下の方向で、地下室の気配も漂っている。薄暗い室内の奥に、どうやら地下室に繋がるであろう、閉じられた扉が見える。といっても、この扉や地下室にはおどろおどろしい感じはなく、それどころか逆に、「掃除をしよう」というくらいに夢見者自身によって適切に管理されている様子である。

    上/下とも、極めて良好に分離しつつも結合するよう通達しているように思える。

    *

    そこから中庭に出る。
    空を見上げる。空は心地よいが、ふと、この建物の2階、3階の部屋の窓も、この中庭に向けて開いていることがわかる。

    2階、3階は、夢見者の家ではなく、別の人、あまり親しいわけではない、とはいえ仲が悪いわけでもない、穏当なご近所さんが住んでいるという感じがする。

    ふとその時、夢見者は、自分が下着姿のままで中庭に出てきてしまったことに気づく。そうして直接、上の階の人から見られたわけではないが(直接的には2階3階の窓のそばに人の姿は見えないので、おそらく誰にも下着姿を見られていないと思うが)、このままうろうろするものではないと思い、急いで室内に戻ろうとする。

    見えているのか、見えていないのか、どちらか不可得。

    分離したまま結合しているのか、それとも結合していないのか、不可得。
    それでいて、見えてよい / 見えてはいけない、という、どうあるべきでどうあるべきではないかの思考の分別ははっきりしている。

    そうして見えてはいけない様子を見られないように、急いで、その場から隠れようとする。

    ここでも第一の夢と同じく、見える/見えない、つまり視覚において分離したまま結合しているか/結合していないか、という分別が眠りの中の意識に浮かんでいる。

    *

    木から落ちてきた毛虫
    蝶になって舞い上がる

    さて、室内に戻ろうとすると、中庭の地面を一匹の毛虫が大急ぎで移動している様子が見える。よく見ると毛虫は何匹かいる。

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    著しくデフォルメ

    これを踏んでしまったら大変だ、と思う。
    夢見者は裸足であり、毛虫を踏み潰しでもすると、足の裏が腫れたり爛れたりするかもしれない。そして毛虫の方は生きていられなくなってしまう。

    踏む、というのは結合、過度な結合である。
    もしこの毛虫を踏むという過剰な結合が起きると、毛虫の内/外、自/他を分つ輪郭は崩壊し、毛虫は生きていられなくなるし、夢見者も、おそらく足の裏の皮膚が爛れたり破けたりして、内/外の境界たる皮膚を脅かされることだろう。神話であれば、タールが溢れて全地上を多い尽くす、といったビジョンになるところである。

    過度に結合しないように、付かず離れずのモードを保ち続ける必要がある。
    よく見ると毛虫は複数移動中であり、夢見者の方が気をつけて分離を保たないと、間違って結合し=踏み潰してしまいそうであるが、夢見者わたしは、うまい具合に毛虫たちをふまずに室内に戻ることができる。

    毛虫に気をつけつつ、「彼らはどこからやってきたのだろう」と思う。中庭には数本の木が生えているが、その木の梢から落ちてきたのか、あるいは2階や3階の窓に置いてある植木鉢のようなものの葉っぱから、落ちてきたのかもしれない。

    ここで、上/下 の方向で「落ちてくるもの」の気配が直観される。

    おもしろいのは、彼らが毛虫だということである。

    つまり彼らは、うまく中庭の木まで辿り着き、葉っぱにありつくことができるなら、おそらくこの相対的に安全な中庭の樹上で、うまいぐあいに蝶へと羽化することができるはずである。そうなればこの虫たちは、やがて中庭からひらひらと飛び上がって、風に吹き上げられて空へ空へと、上昇していくことだろう。もちろん、目の前で蝶が舞っているわけではないが、毛虫君たちを見れば、まだここにはいない未来の蝶が直観されるのである。

    落下して、そして上昇して。

    上下の軸で振幅を描く動きが予感される。

    この場面で夢見者は、まちがっても毛虫くんたちを殺虫剤で駆除しようなどとは思っていないのがポイントである。必要なのは毛虫くんたちを抹消して、夢見者から完全に分離することではなく、夢見者は自分の室内へ、毛虫たちは中庭の木の上へ、付かず離れずの距離感で分離して、過度に結合しなければよいのである。

    第一の夢とおなじく、分離と結合の均衡ということが直観されている。

    +

    はじめに紹介した夢では、鉄道で水平方向に高速移動したり、排水溝から激しく排水が流れ落ちて行ったり、という強めの振幅を描く動きが激しく浮かんでいたが、二つ目の夢では、落ちてくるのが小さな毛虫だったり、上がっていくのも軽い蝶たちであったりと、振幅を描く動きがずいぶんと穏やかになっている。

    * *


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    ユングの意識の四機能モデルと転識得智、八識を転じて曼荼羅を描くこと

    さて今回の夢で浮かび上がったマンダラ状のパターンを、ユングの意識の四機能モデルに照らし合わせて解釈してみよう。

    ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

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    • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
       八識でいう「前五識」

    • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
       八識でいう「第六意識」

    • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
       八識でいう「第七末那識」

    • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
       八識でいう「第八阿頼耶識」

    この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。

    一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。

    私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの分別ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
    例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。この感覚、思考、感情、直観(前五識、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識)は、それぞれ特有の分別・分節をするように動き、特定の分け方に固着したり、複数の分け方を重ね合わせる中で、分けられたものたちのうちの「どちらを選ぶか」にこだわるようになる。

    *

    これに対してマンダラ状に均衡した状態とは、四つの機能の分別が、それぞれはっきりと分ける働きを果たしつつも、同時にその分けることが「仮」のこと「方便」なのだと知悉している状態である。

    四機能がマンダラ状に、付かず離れずに調和するためには、四機能がいずれも、分けつつ分けない、分けるけれどもゆるく分けない感じも残しつつ、分けるでもなく分けないでもない、分けるけれどもどちらだこちらだと選んでこだわらない、ただ分かれて見えたり分かれて見えなかったりするなあ、というのを観じるモード(瞑想の境地)に入る必要がある。

    これは仏教でいう、識を転じて、四智を得る、「転識得智」に通じるものである。識を転じて得られた四智が、それぞれはっきりと働きつつもいずれも他を妨げず、四即一にして一即四になっている状況(大日如来の瞑想の境地=法界体性智)を、人間の意識、特にそのイマジネーション能力(意密)が感得できるように視覚的に表現すると、四角形と円を組み合わせたような「マンダラ」になる。

    • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別|前五識
       
      →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「成所作智」

    • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別|第六意識
       →
      これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「妙観察智」

    • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別|第七末那識
       →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「平等性智」

    • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別|第八阿頼耶識
       →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「大円鏡智」

    こうして、八識を四つの「智」に転じたところで、マンダラ状に調和した心、如実に自らを知ることができる心のあり方を組むことができる。

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    + +

    さて、これらの夢で感覚、思考、感情、直観(前五識、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識)は、それぞれどのような主語的なもののどのような動き方(述語的様相)によって象徴化されていると対応づけられるか、順に見ていこう。

    • 「感覚」(前五識→成所作智):上/下、暗/明、上る/降りる、といった分別が際立ちつつ、どちらか一方を選ぶのではない、両方のあり方を両睨みしている様相がこれらの夢では強い。

    • 「思考」(第六意識→妙観察智):鉄道である/鉄道でない、夢見者の居住地風である/地球の反対側である、開いてある/閉じてある、など「なにであって/なにでないか」の分別がありつつ、しかしどちらであるか二者択一で選べず、どちらであるとも不可得な様相が続いていく。

    • 「感情」(第七末那識→平等性智):好き/嫌い この二つの夢では、感情的な好き/嫌い、結合したい/分離したい、といった分別はほとんど動いていない。毛虫を踏みそうになってびっくりしたり、下着姿を上階の住人に見られたらちょっと嫌だと思ったり、トイレに行けと言われてなんだか汚いかもしれないからなんとなく嫌だなあと思う程度のことであるが、どれもあまり切実ではない。どうしても嫌、絶対嫌、といったことはない。

    • 「直観」(第八阿頼耶識→大円鏡智):すでに現れていて見えているものごとばかりではなく、最初の夢でいえば全貌が見えないビルとか、排水が流れていく先とか、トイレの中に入っていて姿が見えない人たちとか、感覚的には「ない」けれども「ある」様相を直観し続けている。2番目の夢でも、姿が見えない上階の住民とか、扉の向こうに繋がっている地下室だとか、目には見えないがおそらくうっすら積もっている埃と小さな黴の胞子と、そして目の前の毛虫たちが蝶になった時のビジョンの幻視など、直接的にすでに見えているものだけではなく、見えないものたちのありうる姿が次々と直観されている。現れている/消えていく(消えている)を分別しつつ、現れている方ばかりに意識を持っていかれずに、むしろ今の所は消えている方、見えていない方、その気配しかない、気配すらないところへ思いを馳せている。

    いずれもうまい具合に分別する「識」が、不可得な「智」モードへと転じているように思えるが、いかがであろうか。


    以上、夢のビジョンの想起できる記憶を、分離と結合を伸縮させる動きがマンダラ状の調和に向かっていくプロセスとして分析することで、私たち心の深層が、意識が直接自覚しない無意識が、まるで傷口がおのずから固まって瘡蓋になり、そしてまた柔らかい皮膚が再生していくかのように、破壊的な動きの様相から、固着しかけた様相へ、そしてしなやかな様相へと、柔軟にその生きたあり方を回復しようとしている様相を観察することができる。

    マンダラ夢分析の技法は、私たちひとりひとりの「心(意識的な心に限らず、無意識までも)」の現在のあり様を、ありありと観察することができる観測装置になりそうである。

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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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