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【マンダラ夢分析】奇妙な主語たちが動く、その述語的様相がマンダラを描く:姉がアイドルになり鶏肉料理を推してくるも結局食べず、エスカレーター横でのパフォーマンスを眺める夢

    はじめに
    心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

    夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。

    神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動が表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンであり、そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。

    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。
    正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

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    視覚的イメージとしてのマンダラ
    語りに現れる「述語」としてのマンダラ

    このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。

    例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

    夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。

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    神話論理と夢分析

    マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。

    神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

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    神話の語りはじめには、まだΔはない。

    何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
    そこに野生の思考の神話論理が動く。

    経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

    神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

    これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。

    この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

    一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。


    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

    このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

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    ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

    そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

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    私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

    このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。ことによると神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠くへだったものと感じられるかもしれない。しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

    * *

    主語たちの述語的様相にフォーカスする

    「何であるか」はとりあえず脇に置いて
    「どう動くか」をみる

    この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」、特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

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    マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

    夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。

    つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

    「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

    そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。

    『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

    ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

    河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8

    分離したり結合したり伸縮する述語

    この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

    <<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、結合しようと動くが、うまく結合できない>>

    あるいは

    <<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、分離しようと動くが、うまく分離できない>>

    実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

    夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

    マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。


    ◇ ◇ ◇

    以上を踏まえ、今回は、筆者自身の夢を対象として、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。

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    **

    少々長いが、修行のつもりでご高覧願いたい。

    バンコクか、ハノイか、それともジャカルタか。
    東南アジアの活気ある大都市といった雰囲気の場所に私は来ている。

    *

    私はひとりで、いや、だれかもう一人と一緒に歩いている。
    この連れは、誰であるかはっきりとはわからないぼんやりした感じなのであるが、とにかく親しい人であることは確かである。

    *

    目の前にはショッピングモールか空港のターミナルのような巨大な建物が聳えている。外壁に飾られた色とりどりの看板がにぎやかで、中にはたくさんの店や飲食店が入っており、多くの人が出入りしているのが遠くからでも見える。

    一緒に歩いている人が、「このモールの中に美味しいチキンの店がある」という。
    「ほら、黄色看板に赤文字でかいてあるでしょう」と。

    見上げると、モールの建物の外壁に無秩序に貼り付けられた色とりどりの看板のうちに黄色い大きなものがひとつあり、そこに文字が書いてある。
    現地の文字であり、私には読めない文字ばかりだが、一部漢字で「鶏肉」と書いてあるのが見える。
    我々はどうやらその店へ向かっているようだ。

    *

    巨大モールの横の立体駐車場の入り口のような急坂をのぼって、私たちは巨大モールの建物の中に入る。
    巨大な建物の一階は自動車の乗降場所と物流トラックの荷捌き場になっており、薄暗い空間に排気ガスが立ち込めよく見えない。クラクションが鳴り響き、隣で喋る人の声もよく聞こえない、たくさんの人があちらへこちらへ、大きな荷物をもって動き回っている。

    *

    さて、チキンの店に行くとして、どこから入って、どのルートを辿ったら良いのか、と私は迷う。
    建物にはいったものの、ここから先、どこへ向かえば良いかよくわからないのである。

    そうすると一緒にいる人が、「床に描かれたラインを辿ればいい」と教えてくれる。みると床に黄色のペンキで50センチ幅くらいの線がずーっと引いてあって、ところどころに例の「鶏肉」の文字がある。


    「なるほど、看板の色と、床のラインの色を黄色に統一して、わかりやすく道案内してくれているのだ」と感心する。


    * *

    私は一緒にいる人とエスカレーターで上のフロアへと登っていく。
    何度か乗り換えながら上層階へ、上層階へと登っていく。

    そうして適当な階でおりて歩き回り、貸し会議室のようなスペースに出る。
    チキンレストランに向かっているものと思っていたが、食事の前に仕事の会議に参加する予定になっていたらしい。
    会議室といってもフードコートの隅をパーティションで区切ったような具合である。なにかの飲食店の裏方の事務所の一部なのかもしれない。

    * *

    会議室に到着すると、それまで一緒にいた親しい連れは、いつのまにかどこかへ行ってしまう。私は一人になる。

    会議室の中にはいると、私の知り合いのとある会社の社長がいて、こちらに声をかけてくる。また他にも二人、私の知らない人が座っている。全員スーツを着てる。私もその場に参加し、四人でなにやら事務的に仕事の打ち合わせをする。

    そうして会議は滞りなく終わる。

    社長も、「この上のフロアにうまいチキンのレストランがある」という。
    「はい、話には聞いております。私もそこに行ってみるつもりです」と応じる。

    ここから、社長も一緒に行くものと思ったが、同行はせず、私は一人、またエスカレーターを探してうろうろし始める。黄色のラインを見失ってしまって、いったいどこから行けばチキンレストランにたどりつくのか、よくわからなくなって迷う。

    *

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    とりあえず、近くにあったエスカレーターで上のフロアに昇る。
    昇り切るとそこはこれまでとがらりと様子がかわって、外からの光が入らない空間で、黒や赤を基調とする絨毯や壁紙、天井に、電球色の照明がいくつか並んでいる。雰囲気のあるバーといった感じだろうか。
    人は大勢いて、みんな何かを飲み食いしている。よくみるとそれは鶏肉を焼いたものらしい。フロアにはバーベキューのうまそうな香りが漂っている。どうやらここが例のチキンのレストランらしいが、しかしここへ来て看板が掲示されていないのでよくわからない。

    店のホールの一角から、私を呼ぶ声がする。
    行ってみると知らない若い男性が鶏肉料理を手に持ってがつがつと食べながら、こちらに話しかけてくる。
    私は彼を知らないが、向こうは私のことをよく知っているらしく、フレンドリーにはなしかけてくる。
    私は彼と同じテーブルにつき、いろいろと会話をする。

    彼は大急ぎで鶏肉にがっついて食べている。
    私は、何をそんなに急いでいるのかと不思議に思い聞いてみる。
    すると、これから、上のフロアにあるホールで、とあるアイドルのライブが開催されるのだという。彼はそのアイドルのファンということで、ライブに参加する前に、急いで腹ごしらえをしているらしい。

    彼は私を、一緒にライブに行かないかと誘う。

    私としては聞いたこともないアイドルのライブに特に何の興味もないが、とはいえ他にすることもないので、ついていって見物してみることにする。

    そうと決まれば、一応どういうアイドルなのか事前に情報収集してみようという気になる。あまりにも無関心なのが周囲に居る他の熱狂的なファンにバレると、なにかまずいことになりそうだからである。鶏肉を貪る見知らぬ若い男は、このアイドルについてあれこれ説明しながら、ライブの告知チラシをカバンから取り出して見せてくれる。

    チラシを見て私は非常に驚いた。
    なんと、そこに写真で載っているアイドルの女性は、私がよく知っている人物であった
    。
    ただしこの時点では「よく知っている」という感じだけがあり、具体的に誰なのか、ということがいまいちぼやけている。
    いずれにしても私は、そのよく知っている人物がアイドルをやっているとは初耳である。

    そしてチラシには「群馬県が生んだ奇跡のアイドル」といったようなことが書いてある。ご当地アイドルということだろうか。
    しかし私は、この彼女は「栃木県足利市のあたりの出身」だったはず…と思う。いつから群馬県出身になったのだろう??
    とはいえ、ここはアジアのどこかの都市だし、群馬も栃木も区別はつかないだろう、と楽観的になる。「そもそもどちらも「毛野国」だもんね」と。


    * *

    そうして彼がチキンを食べ終わると(私はなぜか食べていない)、一緒にエスカレーターでライブホールに上がる。

    ステージでは、もうすでに歌唱パフォーマンスが始まっている。

    歌っているアイドルの女性を見て、改めて驚く。
    遠くから見ても、やはり私がよく知っている人物であるらしいことがわかる。知っているどころか、家族くらい近い関係の人物である。しかし、まだいまいちはっきりと誰であるか確証できない。
    いずれにしても、親しい人ががアイドル風の衣装を身につけて元気よく歌っているので「楽しそうだなあ」と思いながら眺める。それにしても一体いつからアイドル(しかも出身地を偽装したご当地アイドル)になったのだろう?

    一曲歌い終わると、彼女はわざわざステージを降りて、一目散に私のところへやってきて「どう、おもしろかったでしょう? それはそうとチキンは食べた?」と聞いてくる。

    ここで、私は、このアイドルの女性が、最初にこのビルに案内してくれた同行者と同じ人物であることにと気づく。

    私が「チキンはまだ食べていない」というと、彼女は「それなら食べてきたらええやん」と、私を追い立てるに会場の外へ送り出す。栃木県出身の群馬県が生んだ奇跡のアイドルのはずがイントネーションは大阪である。
    この時私は、ようやく、このアイドルは私の「姉」が変装(失礼)しているのだ!と確信する。

    それにしてもこの夢、皆がよってたかって私に鶏肉を食べさせようとする。

    * *

    ライブ会場の爆音も苦手なので、私はまたひとりでいそいそとエスカレーターを降りる。鶏肉を食べるためである。
    ところが、この下エスカレーターは、先ほどのチキンレストランのフロアを通り過ぎて、下へ下へと降りていってしまう。そして貸し会議室があったフードコートのようなフロアに辿り着く。
    降りすぎてしまった。
    さて、また上がらないと、と、迷子になってうろうろしていると、先ほど一緒に会議をしていた社長がまだこのフードコートにいて、声をかけてくる。彼もまた「チキンレストランには行きましたか?」と聞いてくる。

    私は「いいえ、まだなんですよ、店には行ったのですが、すぐに次の用事ができてしまって。そうして一度出たら今度はレストランの場所がわからなくなって」という。社長は熱心に、裏の従業員用の階段から回ればいい、などと教えてくれるが、私はそもそも自分がそこを通って良いのかどうか疑心暗鬼になり、このルートを使うことは丁重にお断りする。

    そもそもついでに言えば、そもそも私は、特にこの鶏肉料理を食べたいのだろうか?いや、食べたいと思っていないのである。もちろん食べたくないとも思っていない。どちらでもよいのである。「それにしても、ここの人たちはなぜやたらとチキン料理を勧めてくるのだろう?」というのが不思議で仕方ない。

    * *
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    * *

    ここで私は、夢から覚醒し、意識が明晰になってしまう。

    おもしろい夢だし、アイドルをやっている姉らしき人物のことが気になるので、「よし、もう一度振り出しに戻ろう」と決めて、冒頭の、ショッピングモールの入り口を目指して歩いている場面にタイムリープする。


    ・・
    ・
    ・

    またバンコクか、ハノイか、それともジャカルタか。
    東南アジアの活気ある大都市といった雰囲気の場所に来ている。
    私はひとりで、いや、もう一人と一緒に歩いている。目の前にはショッピングモールか空港のターミナルのような巨大な建物が聳えている。色とりどりの看板がにぎやかで、中にはたくさんの店や飲食店が入っており、多くの人が出入りしているのが遠くからでも見える。

    さて、今度は一緒にいるのがどうやら姉らしいということがわかっているので「あなたはいつからアイドルになったの?栃木出身のはずなのに、どうして群馬出身の設定になっているの??」と聞いてみる。

    彼女のほうは不思議そうに、「アイドルは昔からやっているし、出身地の設定は事務所の社長が適当に書いたんじゃない?」という。
    実に適当、自由で良い。
    ・・・・というか、アイドル、昔からやっていないだろう。

    私は「この夢、チキンレストランに行くようにみんなから言われるんだよね」という。彼女(アイドル)は「そうだね、ほら、看板も出てるし」という。私は、看板が出ているからと言って、行く必要はない、とおもう。

    また彼女と一緒に排気ガスが立ち込める車寄せからモール内に入り、エスカレータを登ってフードコート脇の会議室に向かう。今度は彼女も一緒に会議室のまわりをうろうろする。私は、会議室の中に、今回もちゃんとくだんの社長と知らない二人のスーツ姿の男性がいることを確認し、挨拶して会話をする。

    そしてすぐに会議室を離れ、上の雰囲気のいいグリル風の店へ上がる。
    今度はアイドルの彼女も一緒である。
    といっても、この時はアイドルの衣装を纏っていないので、ファンに囲まれることもない。私は先ほどと同じ席に彼女と共に行く。

    さきほどはファンの男性がいたはずであるが、今回はいなくなってしまっている。消えてしまったようだ。
    仕方なく、私は彼女(姉=アイドル)とテーブルについて、チキン料理を注文する。
    そして料理が運ばれてくる。
    ああ、ついに、いよいよ食べることになりそうだ・・と観念したところ、彼女が「下にいる社長たちに、テイクアウトで持っていってあげよ」と提案をする。確かに、彼らも食べたいと言っていたはずである。
    会議といえばお土産差し入れである。

    そうして、給仕されたチキン料理を紙でできたランチボックスに移してもらい、私たちはまたエスカレーターを降りて、フードコートの会議室にいる社長たちに渡す。とても喜んでくれて、その場で開けてむしゃむしゃ食べてくれる。ただ、残念ながら、その様子をみても私の食欲は喚起されない。

    * * *

    ここへきて、私は「この夢はいったいいつ終わるんだろう」と思う。

    ふと、姉(アイドル)がまだ私と一緒にいるので、「そろそろライブが始まってしまっているのでは?というか、さっきはこのタイミングでもう歌唱していたはずだから、早く会場に行って歌唱してきたほうがいい。」とすすめる。

    すると姉(アイドル)は、「だいじょうぶ、ここで歌えばいい」と、フードコートフロアのエスカレータの近くで、突然アイドル風の衣装に変身して(着替えるのではない、突如変身するのである)歌唱パフォーマンスを始める。繰り返すが、衣装を脱着して着替えたのではなく、瞬時の変身である。時空間が三次元を超えている。

    さてその歌唱の様子をみて、さすがプロ、どこで歌っても様になっているなあ、と私は思う。こういう衣装を着て踊りながら歌っていれば、そこがフードコートの一角であっても、「突然叫び出した不審者には見えないのだなあ」と客観的な気持ちで眺めている。

    ふと、「ここで歌うのもいいけれど、上のフロアのホールでライブを待っているファンが大勢いるのでは?」と思い、その旨を彼女に伝える。

    すると彼女(アイドル)は、「わたしが歌えば、どこであれ、そこがステージになるのよ」といった趣旨のことを言う。

    いやあ、かっこいいことをいうなあ、と思うが、ライブ会場のコアなファン層は放っておかれて怒りだし、暴動でも起こすのではないか?とも思う。
    その懸念を伝えると「いまはライブはやっていない、会場にはだれもいない」と彼女はいう。私はおどろいて「そんなはずはない、さっきはたくさんの人が集まっていたよ。念の為、様子を見てこようか」というが、彼女は「その必要はない、やってないんだから」という。

    あれ?ならば先ほどの熱狂するライブ会場はなんだったのか?
    夢でもみたのだろうか?(夢でみたのだけど)。
    タイムリープしたつもりで、いろいろとずれてしまったのか、ともおもう。

    アイドル衣装のまま真顔に戻った彼女がいう。

    「まったく同じもんが回帰しつづけるなんて、人間が考えたオバケじゃあるまいし、ありえへんよ。もちろん人間が同じものの回帰を望むようにできているのは理解できるけどね、それで人間は自分でオバケを大量生産して、自分で勝手に怖がって。だからあんまり気にせんでもええんよ。」

    これを聞いて、私はこの彼女が私の想像を超えた格好をしているが、やはり私のいつもの姉であることを明確に意識する。
    姉がアイドルの衣装を纏っているのは初めて見たし、違和感がないわけでもないが、おもしろいなあ、とおもう。

    …
    さて、こういう論理的に語れるモードになると、この夢はこれ以上展開しないことがわかるので起きることにした。

    いかがであろうか?
    我ながら面白い夢である。

    この夢でおもしろいのは、途中からかなり覚醒しており「これは夢だ」と知りながら見続けていることだろう。しかも覚醒していることをいいことに、意識的にタイムリープしようとして、同じ場面に二度も入り込もうとしている。そうなると後半は、夢というよりもアクティブ・イマジネーションに近いのかもしれない。

    非同非異・二即一一即二

    夢の冒頭、東南アジアの都市にいる。
    この夢見者はしばしば東南アジアの都市にいる夢を見る。

    夢見者は日本に在住する日本人である。東南アジアの都市というのは、夢見者にとっては経験的な日常世界と遠からず近からず、異なるが同じ同じだが異なる感じがする場所なのだろう。おそらくこれがヨーロッパだとかアフリカとなると「遠からず」が消えて単に「近からず」だけになる。

    自/他の対立でいえば、この夢見者にとって欧米は端的に「他」である。「自」と鋭く対立する端的な「他」である。端的な自他の「他」極に振れ切ってしまっては、自/他の距離を伸縮させる夢のβ脈動が展開する軸を設定しようというときにはおもしろくない。Δ二項対立のどちらか一方を選ぶのではなく、その中間で動き回る両義的媒介項(β)のための場をひらく。そのためには「東南アジアの都市」は、この夢見者にとってはちょうど良いのである(あくまでも「この夢見者にとっては」ということに注意しよう)。

    自 =β= 他

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    夢の冒頭、夢見者「私」は一人ではなく、二人一組になっている。二人ペアで動き回るのは一即二二即一の両義的媒介項らしい姿である。

    またこの私と一緒の相手方が、目覚めた世界で経験的に知っている特定の「誰」であるかがはっきりしていないというのもいい。

    面白いのは、私は同行者が「誰」であるかということ気にしていないとうことである。

    私はこの同行者が「誰であるか」ということに、全く関心をもっていない。そもそも私は一人でいるような感じもするし、誰かと一緒にいるような感じもする。しかもその誰かは明確に私とは別人である誰かではなく、私とひとつに結びついた存在者のような気配がする。

    特定の誰かである =β= 特定の誰かでない

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    立体マンダラモール

    さて、私たちはまるで須弥山のような多層構造をなす立体マンダラの中に入っていく。感覚的経験的な様相としては立体駐車場が併設された巨大なモールという姿を纏わされているが、いろいろなものが一堂に会して忙しく動き回っている。殺伐とした感じはない。

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    さてここで「鶏肉」が登場する。
    私は「鶏肉」の看板に誘われて、鶏肉レストランを目指してこの立体マンダラモールに近づき、入り込んでいく。立体マンダラモールには、あからさまにチキンレストランの看板が掲げられている。私が理解できない言語で書かれた看板が多い中で「鶏肉」だけは漢字で書いてある。こういうのは東南アジアでも華僑のひとが多く暮らす街では実際によくある。

    読めないわけではないが、読めるわけでもない。
    わからないことはないが、わからない。

    これもまた読める読めない、わかるわからない、という分別の二極に対して不可得な領域で振動しているあり方である。

    読める =β= 読めない
    分かる =β= わからない

    この状態で夢見者(私)は、排気ガスが立ち込め、自動車のエンジン音やスリップ音が鳴り響く立体駐車場に入る。ここでは音をよく聞き取ることができず、目でよく見ることができない。眼、耳、といった基本的な分別をする識がうまく機能しない状態になっている。この眼と耳の失調は、述語のマンダラの伸縮に入り込むための準備体操になる。

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    鶏肉レストランに向かっているはずの私たちを、床にペンキで描かれたラインが導く。親切な話である。この、地面に塗られた色を辿って進むというまるでカーナビの実空間化のような道案内の形は以前に下記の記事でご紹介した夢にも登場している。

    さて、このラインのおかげでレストランへまっしぐら、と思ったら、なにやら途中で脱線し、突然の会議参加となる。

    いや、もしかすると、ここへ来たのはこの会議の仕事があったからで、レストランは「ついで」なのかもしれない。はたしてどちらが目的で、どちらがついでか。そもそも私は、なぜここにやって来たのか、その目的も知らないし、特に目的を意識することもない。ここが目的地であるようなないような。ゴールであるようなないような。

    目的地に直接向かうのではなく、途中で寄り道をして回る。出発点と目的地の二点を短絡しないというのもβ脈動のひとつのあり方である。

    ゴールである/?/ゴールでない

    四者会合

    そして会議室には全部で四人が揃う。

    1. 私

    2. 私の親しい知人ではあるが、他所の会社の社長であり、多少の緊張を要する相手

    3. 知らない男性その1 外国の人のような感じもする

    4. 知らない男性その2 外国の人のような感じもする

    この四人がひとつの四角形のテーブルを囲み、粛々と会議を進める。緊張を要する四者の会であるが、しかし淡々と、まさに仕事の作業のようにやるべきことが進んでいく感じがする。

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    四人が四角形のテーブルを囲むとくれば、これはもうマンダラである。
    巨大な立体マンダラのなかに、小さな四人のマンダラ。

    ただし、この会議「マンダラ」は極めて強く、経験的で感覚的な視覚像をともなっており、述語的様相に対する主語的様相が強く固まっている。硬いマンダラである。

    * *

    この四人はユングに習って、意識の四機能の象徴であるといえるかもしれない。

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    ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

    • 「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
    この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。

    この夢の場合、「私」の自我が「直観」を、社長が「思考」を、知らない外国人風の二人(外国人かどうかも不確かである)が「感覚」と「感情」を担っているようにも思える。

    • すなわち、「直観」が分別するような自分の行き先、行方、これから現れてくる世界がどこのどのようなものなのか、よくわからなくなりながらも平然と進んでいるのがこの夢の自我「私」である。

    • それに対して「社長」は、何をなすべきか、何をなすべきでないか、といったことを損得という極めて明確な分別に従ってバッサリと切っていく「思考」タイプの情報処理をする。この社長との対峙は「直観」型の自我にとっては緊張感のあるものであるが、この夢の場合、社長と私は喧嘩腰ではなく、適度に協力し合えているように見える。

    • そしてこの夢の場合は「感情」と「感覚」は、思考と直観に対してあまり強くは主張しないというか、思考を(そしておそらくは直観をも)横からサポートするくらいの関わり方になっている。

    この四者の「会議」は何事もなく終わる。つまり四者の協力関係が、意識の四機能の協調、統合が仮に打ち立てられたということになろうか。

    そしてどういうわけか仕事相手の「社長」(思考)も、私(直観)に対して鶏肉レストランへ向かうことを強く進める。この夢、みんな鶏肉が好きやねえ。

    一時的に迷子になり、目的地に着いたのか着いていないのか不可得になる

    ところで、私(直観)は、この時点で、鶏肉レストランには全く興味がない。しかし、みんながよってたかって勧めてくるので、そこまでいうならと、特に拒否することもなく、深く考えずに鶏肉レストランに向かって移動を再開する。

    画像

    ここでふと、私は迷子になる。

    夢の最初に一緒だった同行者がいなくなっており、また経路を表示していた床の黄色のラインも見失ってしまい、社長が一緒について来てくれるわけでもない。

    わたしは一人だけになってしまい、立体マンダラモールの中を右往左往、迷うことになる。

    振り返ってみると、冒頭モールに入るくだりでは「私」と「道案内をしてくれる同行者」が結合状態にあり二人一組で移動している。その後、目的地あるいは経由地と思われる会議室に着いた時には「私」と「道案内をしてくれる同行者」は分離する。後者がどこかへいってしまうのである。それもある瞬間ある場所で「それじゃあね」と去っていくのではなく、いついなくなったのかわからない、もしかすると姿が見えないだけで、すぐ近くに居るような感じもする、という付かず離れず、分離しているのか結合しているのかどちらともつかない状況である。(のちに、さらに上のフロアのライブ会場にいることがわかり、そこでまた結合するのであるが)。

    分離してあること =β= 結合してあること

    この入り口からの同行者と分離する代わりに、私は、元々分離していた「社長」たち三人と、一つの机を囲む形で結合状態に入る。

    「道案内をしてくれる同行者」
    || <結合から分離へ>||
    「私」
    || <分離から結合へ>||
    「社長たち三名」

    第一の二項関係で結合すると第二の結合関係は分離し、逆に第二の二項対立関係が分離すると第一の結合関係が分離する、という関係になっている。

    β
    β←ーーーーーーーーーーー→β
    β


    β
    ↑
    |
    |
    ββ
    |
    |
    ↓
    β


    * *

    さて、次に、「私」「冒頭からの同行者」「社長たち」に次ぐ、第四の登場人物、「私」とのあいだで、近づいたり離れたりする、第四の登場人物が出てくる。「鶏肉を貪り食っている若者」である。いや、社長たちは三人いたのだから、「鶏肉を貪り食っている若者」は六人目ではないか?と思われるかもしれないが、夢では同じような人はまとめてしまって構わない(驚)。

    画像

    迷いながら適当に乗ったエスカレータで運ばれて行った先で、私はどうやら鶏肉レストランであろうと思われる場所にたどり着く。とはいえここへ来て看板が出ていない。「鶏肉レストランであると思われるが、違うかもしれない」、鶏肉レストランであようなないような、看板が示していた店と異なるような同じのような…、なんともみごとな非同非異の不可得感である。

    同=β=異

    * *

    第三の同伴者

    ここで私が出会うのは「鶏肉を貪り食っている若者」である。
    向こうは私を知っているが、私は向こうを知らない、というちぐはぐな関係にある二者の関係である。知り合いであるが知り合いでない。既知か未知かどちらか不可得である。

    知り合いである=β=知り合いではない

    私は、第一の道案内してくれる同行者と分離し、第二の社長たちとも分離し、そして第三の人物と接近〜結合状態に入る。

    さて、私がまだ食べていない鶏肉を、この若者は貪り食っている。

    画像

    私は鶏肉と分離しているが(この夢の最後まで、結局鶏肉を食べないので、過度に分離されていると言っておこう)、私の同伴者である彼は鶏肉と過度に結合している。こちらで分離しあちらで結合する。鶏肉がβ項らしい述語的様相にある。

    わたし <ー過度に分離ー> 鶏肉β >過度に結合< 若者

    *

    さて、この鶏肉を貪る若者は、私を「アイドルのライブ」に誘う。
    私は経験的には実際には、一度もアイドルのライブに行ったことはないのだが、つまり夢見者私とは遠く分離された縁遠い世界が「アイドルのライブ」なのだが、この夢では私はどういうわけだか、ついて行ってみることにする。

    するとすぐに不思議なことになる。

    アイドルと親しい?アイドルが家族?

    ここでくだんのアイドルが、私のごく親しい人であることがわかる。
    姉である。といっても、この親しさというのは夢の中での話である。現実の昼間の世界の特定の人物としての姉が、アイドルの装束で登場したわけではない。

    このアイドルとしての姉はひとりでいくつもの不可得βを体現している。

    • 私はごく親しい彼女がアイドルをやっていることを知らなかった。
      既知であるが未知。既知か未知か不可得

    • 栃木県足利市出身なのに群馬県出身になっている。

    ここでなぜ急に群馬と栃木が出てくるのかはわからないが(私自身は群馬と栃木、どちらの出身でもない)、私のご先祖は、ちょうど足利や新田の周辺に居たとわかっているので、それが引っ張り出されて述語の振幅に被せられたのかもしれない。いずれにしても空間的な分別、他ではない「どこ」であるかが、どこでもあるような状態に開けている。

    さらに、次の点でもこのアイドルは不可得である。

    • 私は彼女がアイドルの格好をして歌唱パフォーマンスをしているのをはじめてみて心底驚いているのだが、彼女の方はさも当然という様子である。

    • 夢の冒頭、一人目の案内者は、実はこのアイドルをやっている彼女と同じ、というか非同非異だった。

    現実の経験的な私は、アイドルを応援するといった活動はまったく嗜んだことがない。その点、アイドルとである女性というのは私にとっては最も縁遠い、分離された存在者である。ところがなんと、一番身近な女性である姉が、実はアイドルをやっていた、という。このアイドルと私の関係は、極めて近いけれども極めて遠い、という遠/近のどちらか不可得な様相にある。

    遠=β=近

    画像
    家族のアイドル型歌唱パフォーマンスを見て唖然とする
    (画像はAI生成によるイメージです。実在の人物とは一切無関係です)

    なんとしても鶏肉を食べさせようとする人たち

    さて、ライブパフォーマンス中の彼女(姉=アイドル)は、マイクを持ったままステージから降りて、熱狂するファンたちを掻き分けて、わざわざ「私」のところへやって来くる。通常はありえない、過度な結合の様相といえるかもしれない。そうしてパフォーマンスがよかっただろうといい、さらに鶏肉を食べるよう促す。

    「観客を差し置いて、家族と個人的な会話をするなんて
    そんな場合ではないのでは?」

    と私は思うが、ここで議論している暇もないので、言われるがまま、鶏肉を食べにいくことにする。

    そしてこの時点で、私は、最初にこのビルに案内してくれた同行者も、この姉だったと確信するに至る。誰だかよくわからない状態から、次第に誰であるのかはっきり分別が効いてくる。

    *

    しかし、今度はエスカレータがあらぬフロアに繋がっており、私は鶏肉レストランのフロアを突き抜けて通過して、さらに下階まで降りてしまう。

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    そして今度は登ろうとするが、登りのエスカレーターが見つからずに右往左往する。

    ライブ会場のフロア
    /
    ↑鶏肉レストランのフロア↓
     /
    会議室があるフードコートのフロア

    このような三層構造になっていて、ライブ会場のフロアと会議室があるフードコートのフロアは直結しているが、真ん中の鶏肉レストランのフロアには、上の層からも下の層からもアクセスできない。

    目的地と結合しようとしても分離されたままになり、目的地を挟む上下の間で振幅する。ぐるぐるとその周囲を動き回っているうちに、そこに運動の「中心」が次第に定まってくる、という感じである。

    フードコートフロアで迷っている私のところへ、くだんの社長も再登場、再結合して、鶏肉を食べたかと聞き、まだなら食べにいくよう促す。

    エスカレーターが見つからないという私に対して、「思考」社長は、従業員用の裏口から回るルートまで教えてくれる。思考において、すでに正解は与えられたのである。

    しかし、私は勝手に従業員専用の通路を使うのはまずいだろうと逡巡し、このルートは選ばないことにする。分離を結合に転換するルートが判明したというのに、あえてこれを使わない、結合しないままに宙ぶらりんにする。

    *

    マンダラ構造をイメージする

    ここで、私はこれ以上どこへも行けなくなってしまった。上下運動するエレベータの周囲をぐるぐると回り続けるしかなくなっている。ライブをしている身内を置いて帰ることもできず、かといって鶏肉レストランに近づくこともできず。立体マンダラモールから出られない感じである。

    それにしても不思議である。

    画像

    私は、遠くから「鶏肉」に近づいていきながら、ごく近くに来ると「鶏肉」の場所を見失い、うろうろ、ぐるぐると彷徨うことになる。目の前で鶏肉を食べている人がいても、私は食べることをしないまま、席を立つよう急かされる。

    社長たち三人組
    ↓
    ββ
    ||
       私 ←→ββ←→ 鶏肉  = ββ = アイドル
    ↑↑
    ββ
    ↑↑
    鶏肉を貪るアイドルファンの若者

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    私と鶏肉のあいだの距離は伸縮している。私は鶏肉へ、分離から結合へ向かうよう誘われるも、実際に結合するとすぐに分離に転じている。

    一方、鶏肉を貪るアイドルファンの若者は、鶏肉を貪り食うという姿そのおままに鶏肉と過度に結合している。

    対して社長とアイドルは、鶏肉を食べたかと執拗に私に聞いては来るものの、彼ら自身が鶏肉を食べているわけではない(この時点では。社長はのちに、アイドルファンの若者が姿を消した後に、鶏肉を食べる役割を引き継いている)。

    この鶏肉をめぐる四者の動き方、鶏肉との距離の伸縮(分離したり結合したり)が、マンダラ状のパターンをぐにゃぐにゃと引っ張ったり縮めたり、不定形に動揺させる。

    先ほど、社長と、外国人風のスーツの男性二人と、そして私という四人一組で「自己」に相当する四即一にして一即四のマンダラを描いたが、今度はこの「四」を一極に据えた、上位スケールの四が出てきている。

    ΔβΔ
    β β
    ΔβΔ
    ΔβΔ         ΔβΔ
    β β    ↑↓    β β
    ΔβΔ         ΔβΔ
    ΔβΔ
    β β
    ΔβΔ


    **



    ここで一旦、私はうっすらと目覚める。
    夢の中の話ではなく、リアルに目覚めた。

    そして半分夢の中で半分意識的に、おもしろいので「もう一度」最初から見てみようと冒頭の場面に戻っていく。

    二周目

    ここでタイムリープ!

    現実にはタイムマシンはまだ発明されていない様だが、夢の中なら意識さえ明晰に保っていられるならば、時間の分別、空間の分別をぐにゃぐにゃと伸び縮みさせることは容易い。

    そして最初の場面から、立体マンダラモールに入る前からやりなおしである。

    ところが今度は、一緒に居るのがあらかじめ誰だかわかっているので、展開が早い。まだ立体マンダラモールに入る前に、連れの女性(姉=アイドル)に対して「いつからアイドルになったのか」「なぜ出身地を偽っているのか」「なぜこの夢ではみんなで私を鶏肉レストランに向かわせようとするのか」と質問をする。

    それに対し、ちゃんとここも両義的媒介モードで「どちらか不可得」な様子になる。姉のような存在者は、アイドルは昔からやっていたというし(やっているはずはない)、出身地の話も興味がなさそうである。いつからアイドルを始めたのか、つまりアイドルであるアイドルでないの分別がつくのはいつであるか、とか、出身地はあちらかこちらか、といった「分別」で物事をはっきりさせようという私の態度、質問には、まったく答えにならない答えしかかえってこない。鶏肉レストランに行かなければならない理由だって、「看板がでているから」という理由にならない理由である。

    ここで私は、分別をはっきりつけてほしいと怒り出すこともできるはずだが、なにぶん私も無意識の述語の伸縮が描くマンダラに慣れていることもあって、「まあ、こっちではこんなものだよな」と気楽についていく。

    • 彼女と一緒に排気ガスが立ち込める車寄せからモール内に入る。

    • エスカレータを登ってフードコート脇の会議室に向かう。

    • 会議室にくだんの社長と知らない二人のスーツ姿の男性がいる。

    ここまで何10倍速で一周目と同じ展開を繰り返す。

    少しちがうのは、連れの女性が、先ほどは途中でどこかへいってしまったのだが、今回は会議室の外まで一緒についてきてくれる。そうして会議室を出た私は、今回は彼女と一緒になって上のフロア、くだんの鶏肉レストランだと思われる場所に入る。

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    そして、一周目には登場した「鶏肉を貪るアイドルファンの若者」が居なくなっている。その代わり、一周目には居なかった私の連れの女性すなわちアイドル姉本人が一緒にいる。

    そしていよいよ、ご注文である。

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    ついについに、散々食べろと言われ続けたチキン料理がご登場である。

    満を持して、ついに供されたものは、とあるフライドチキンのようなものであった。ありふれたものという感じで、あまり驚きはない。というかこれ一周目で「鶏肉を貪るアイドルファンの若者」が貪り食ってるのを見たことがあるやつである。

    画像

    そうして私はついに、目の前の皿に盛られた鶏肉料理を口へ運ぼうか・・・という時に、姉が止めに入る。

    自分たちで食べないで、下のフロアで会議をしていた社長とスーツ姿の二人のために、テイクアウトにしてもっていってあげよう、というのである。

    営業には手土産の差し入れ。さすがぬかりがない。

    結局私は、鶏肉料理を食べることがなかった。
    鶏肉は再び私から分離していく。
    とはいえ、特にがっかりもしていないのである。
    そもそも、食べたいと思っていないのである。

    テイクアウトした鶏肉料理をまたワンフロアおりて社長たちに渡すと、大喜びで、その場で開けて貪り食ってくれた。

    なるほど、貪り食うという述語的様相がこっちの主語の方へ移ったのだろう。レヴィ=ストロース氏の神話公式で説明できそうな転換である。

    *

    画像

    一周目と比べると、β諸項の鶏肉を中心とした集まり方が、ぎゅっと凝集しているように思われる。

    社長たち三名β
    ↓  
      鶏肉から分離=私β →  鶏肉 ← βアイドル=鶏肉を分離 
    ↑
    鶏肉を貪るということβ=結合Γ

    一周目では、私とアイドルの間は元々遠く分離していて(まさかそういう人がこの建物に来ていることすら、鶏肉を貪る若者に教えられるまで知らなかった)、それがいざアイドルに会いにいってみると、それが私の家族だったと判明して驚く。過度な分離から結合へと転じたのである。

    それに比べると二周目では、私とアイドル=姉は、最初から最後まで、付かず離れず、一緒になって行動している。分離と結合の間を伸縮させる両義的媒介項が、はじめから二つ適度に付かず離れず、分離しつつ結合した状態を保ち続けている一周目で設定された二番目のマンダラをそのまま引き継いで、二周目を演じているのである。。

    この二周目では、すでにアイドルのライブは開催すらされていない。
    一周目のライブのステージは、夢見者私とアイドルの彼女を、遠く分離した状態から過度に結合した状態へと急激に伸縮させるための舞台装置だったわけであるが、これが二周目ではもう必要ないのである。私の姉=アイドルは、私から離れて、ライブのステージへと向かい、そしてそこで私と改めて再結合する必要はないのだ。

    とはいえ一応引き続き「アイドル」だということになっているので、ついでのように社長たちが鶏肉を食べている会議室の隣のエスカレータ横でアイドルの衣装に変身し、歌唱パフォーマンスを行う。

    ゲリラライブというやつであろうか。

    社長たち、鶏肉、そしてアイドルの距離がこの夢で最初から昇ったり降りたり、上下方向の伸縮運動を引き起こしていたエスカレーターを中心にぎゅっと集まっている。私も歌唱するアイドルが姉であるとすでに知っているので、特に驚くでもなく(驚くというのは、分離されているとおもっていたものが結合していた、ということである)、「それらしい衣装を着ていれば不審者には見えないな」などと考えている。

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    (画像はAI生成によるイメージです。実在の人物とは一切無関係です)

    社長たち三名β
    ||
    /
    ||

       私β =/=     上下するエスカレーター  =/= βアイドル

    ||
    /
    ||
     衣装(仮面:ペルソナ)β

    上がったり降ったりするエスカレーターに乗っている「私」は、最下フロア(駐車場)と最上階フロア(おそらくライブステージがあったところ)を上下の二極二端として、そのあいだを行ったり来たりしている。つまり上/下の軸において「私」は最大値と最小値が一定に定まった幅の間を正弦波をえがくように動いている。この動きは正弦波のような振幅を描く動きを、極座標の平面に写像すると「円」が、マンダラが見えてくる。

    画像

    最後に、一周目で見たライブは実は「なかった」とか、「わたしが歌えば、どこであれ、そこがステージになるのよ」とか、「まったく同じものが回帰しつづけるなんてありえない」とか、意味深な言葉を聞かされることになる。これは要するにマンダラを示現するということを言いたいのかもしれない。マンダラが示現するところに分別が始まり、意味ある世界が始まる。

    すでに一周目でマンダラが引っ張り出されたので、二周目では「私」と「アイドル」の間の距離を伸縮させるための媒体であるライブステージは必要ない。二周目では、出来上がったマンダラをリズミカルに伸縮させるエスカレータ的動きの方が強調できればよかった、ということになるのだろう。

    一度始まった分別された意味ある世界は永久にそのまま残るのではなく、マンダラの脈動に応じて、あるからないへ、ないからあるへ、未知から既知へ、既知から未知へ、分離から結合へ、結合から分離へと、変容していくのである。

    ここへ至って、漠然と「知ってる人だわ」と思っていたこの同行者の女性が誰であるか、私も完全にはっきりと意識するに至る。

    Δ私 / Δ非-私

    このΔ分別が躍り出て定まったところで、この夢でのβ両義的媒介項の間を伸縮させる動きも役目を終えたようで、意識は昼間の覚醒モードへと切り替わっていく。

    このΔ分別が明らかになったところで、アイドルに変身した姉がいいことをいう。「まったく同じもんが回帰しつづけるなんて、人間が考えたオバケじゃあるまいし、ありえへんよ。もちろん人間が同じものの回帰を望むようにできているのは理解できるけどね、それで人間は自分でオバケを大量生産して、自分で勝手に怖がって。だからあんまり気にせんでもええんよ。」これはつまり、Δは無自性にして空である、ということを言いたいのであろう。

    分別すればよい。分けたらいい。おおいに分けて、選んだらいい。しかしそれでいて、選べなかった方と分離するのをなんとか結合に転じようと焦ったり、分離したはずの方と結合してしまうのをなんとか分離に転じようと焦ったりしないこと。伸び縮みしているだけで、「すべて」は、いまここ、いいや、いまと非いま、ここと非ここの分別を超えて、ずっとそのままあるがまま、である。

    要するに、経験的感覚的に意味ある「この」現実を示現させるためには、マンダラをつどつど瞬時に示現させる必要があるのだが、それに成功するかどうかは中央で飛び跳ねたり歌ったり踊ったりする本尊といかに親しく結縁できるかが重要であるということがわかる夢であった。

    ちなみに、前回の夢も同じような感じの夢であるが、前回は、どうやらマンダラの建立に失敗している。のたうち回るウロボロス型の巨大機械を、私は止めてしまうのである。

    同じような述語の伸縮を、度々ほんの少し違う経験的感覚的イメージを用いて繰り返し描く。マンダラを窓にして、そうした心の源底の動きを如実に観察することができるようになる。

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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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