
おとんの鼻歌
「はよせぇや! 日ぃくれるぞ!!」
早朝からおとんが吠える。
言い返すと火に油を注ぐのが火を見るより明らかだから(冗長!!)黙って荷物を車に入れるおかん。
運転席のシートには高島屋の包装紙みたいな薔薇柄のバスタオルがぐるぐるに巻かれ、白い伸びきったゴムで固定される。おとんの汗をこれから半日吸ってくれるのだ。そりゃ薔薇柄くらい必要ってもんだ。どこで買ってきたんかしらんけど。
車のサイドボードにはおとんの手書きの地図。
高速のどのインターチェンジでどっち方面に行けばいいかとかが細かく書かれている。
カーナビなんて無かった平成初期。おとんは前日に目的地までの脳内シミュレーションを何度も繰り返し、こうして手書きの地図まで作成する。
予習は完璧。だけど道は間違う。それもいつものこと。
旅行の朝ってだいたいワクワクするものでしょ。
うちは違ったんです。こんな時しか運転しないおとんはテンパってるし、10個上の姉は重度の障がいがあって寝たきりだから、荷物も多いし車椅子も乗せなあかん。その準備は全部おかんの仕事。
どこ押してもおとんが飛び出して来そうなドキドキハラハラのおとん危機一髪状態。
旅行のドキドキって、なんかもっと違うやつやろと思いながら、両親のピリピリした空気に黙るしかない私。
「年に1回の旅行なんやからもっと楽しくしようよ!」って泣いたこともあったけど、そんな可愛らしい子供の泣き言でも危機一髪おとんがびょーんと飛び出して大惨事になって以来、何も言わなくなった。
昔から学習能力には定評があるのだ。
永遠に思えたドタバタ劇も終わり、ようやく車がスタートする。さらば日常。
ここからの2泊3日、何回この家族は喧嘩するのだろう。
白い目で青い空を眺めながら、開け放った窓から入る風を浴びる。
ほどなく聞こえてくるラジオの声。
うちは朝から晩までテレビが付いてる家だったからラジオを聞けるのは旅行の時だけ。
さっきまでのドタバタが嘘のように、みんな黙ってお通夜のような車内。
日常から非日常に切り替わるそのあわいを埋めるのがラジオだった。
パーソナリティのお姉さんの軽快なトークと心地よい声。
聞きなれない洋楽。
時折挟まれるローカルなCM。
おとんが流れてくる音楽を一緒に口ずさむ。
その頃にはおかんも鬼瓦の仮面を脱いで穏やかな表情になる。
私もようやく安心して旅行気分に浸れる。
あと何回喧嘩するかなぁ。
でも普段飲めないファンタがぶ飲みできるの楽しみやな。
おなかすいたな。
おとんの鼻歌が車内で跳ねる。
ほんま、危機一髪やったで。
