
桜吹雪の明治通り
東京タクシー日記 (6)
三月末、東京は年に一度の混乱期に入る。
桜のせいだ。あの花は、この街の交通を毎年きれいさっぱり狂わせる。目黒川沿いへ向かう人波が歩道からはみ出し、タクシーを呼ぶ手が普段の倍は上がる。
花見客というのは例外なく、自分が特別な用事で移動していると信じているから始末が悪い。
四ノ橋の交差点を過ぎたあたりから、流れが完全に死んでいた。
バックミラーに後部座席のカップルが映っている。欧米系、二十代後半だろうか。
二人ともスマホを覗き込んで、英語で何やら話し合っていた。目黒川の桜並木の写真でも検索しているのだろう。わざわざ桜のシーズンに合わせて日本へ来る外国人が毎年増えている。
彼らにとってこの国の春は、SNSで何度も見た「憧れの光景」を確かめる巡礼の旅なのだ。
「目黒川、まだですか」と彼女が聞いた。日本語だった。たどたどしいが、ちゃんと通じる日本語。
「もう少しかかります。この時期は仕方ないんですよ」
彼女は小さく頷いて、また彼氏のスマホを覗き込んだ。
天現寺に差しかかったところで、信号が赤になった。
明治通りの両側に街路樹が続く。桜だ。目黒川ほど有名ではないが、この区間の桜もなかなかのものだと、タクシーで走ってきた私は知っている。ただ、知っているだけで、毎年ちゃんと見たことはなかった。
風が吹いた。

それだけのことだった。
街路樹から、花びらが一斉に舞い上がった。晴天の青空をバックに、白とピンクが混ざり合いながらフロントガラスへ降り注いでくる。信号待ちの車が全部、花に埋もれていくような錯覚があった。
後部座席から声が上がった。
「ビューティフル——!!」
彼女が窓に顔を押し付けていた。鼻先がガラスに触れるほどの距離で、目を見開いて空を見ていた。彼氏がスマホから顔を上げた。二人とも、しばらく黙った。スマホも、検索も、目黒川も、全部どこかへ行ってしまったような沈黙だった。
「エクスキューズミー」
彼氏が前のめりになった。
「ここで降りてもいいですか。写真、撮りたい。目黒川、またにします」
片言の日本語と英語がごちゃまぜだったが、言いたいことは完全にわかった。
私は少し考えた。目的地まではまだある。渋滞の中で後ろのドアが開けば、後続車に迷惑をかける。段取りとしては、お世辞にも褒められない。
でも。
「ノープロブレム」
気がついたら、そう言っていた。
料金を受け取り、領収書を渡した。二人がドアに手をかけた瞬間、車の流れが少し動いた。後ろからクラクションが一つ。私は窓を開けて、外へ向かって叫んだ。
「ビーケアフル!!」
彼氏が振り返った。日に焼けた顔で、白い歯を見せて笑った。彼女はもうドアを閉めていて、空に向かって片手を伸ばしていた。花びらを手のひらで受け止めようとしていた。子供みたいに。
信号が青になった。
私は走り出した。バックミラーで二人を確認する。彼氏がカメラを構えている。彼女が桜の下で何か叫んでいる。こちらには聞こえない。花びらが二人の周りで舞っている。
次の信号手前で、二人の姿がミラーから消えた。

明治通りの渋滞は、まだ続いていた。前の車が一向に動かない。私はハンドルの上で少し考えた。
目黒川の桜並木は確かに美しい。毎年テレビで映される、絵になる場所だ。でも今日二人が出会ったのは、誰も特別視していない街路樹の花吹雪だった。検索しても出てこない、予定にも入っていなかった光景だ。
旅というのは、目的地だけが全てではないのかもしれない。計画通りにたどり着けなかった場所で、思いがけず本物に出会うことがある。
あの二人は今頃、誰もいない明治通りの歩道で、自分たちだけの花吹雪の中にいる。少し感傷的すぎるかもしれない。
それでも、窓の外の桜を見ながら思わず叫んだ「ビーケアフル」は、長年、この道を走ってきた中で、間違いなく一番気持ちのいい言葉だった。
「本文はすべて実体験です」
*「本作品の画像はAIによって生成されております」
ということで、ロック好きですから大好きな曲をお聴きください。
The Beatles - Any Time At All
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