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『太陽を盗んだ男』の伝説のロケ現場に、私が偶然「入り込んで」しまった奇跡。映画屋一代記(8)



    「おい、そこ退け! 何やってんだ!」

    突然、地を這うような大声で怒鳴られた。
    初夏、新宿住友ビルの広場でのことだ。

    当時、私は大学受験に失敗し、
    上京したばかりの19歳の浪人生。
    カメラの向こうに立っていたのは、
    歌謡界の頂点にいた沢田研二。
    そして私を怒鳴り飛ばしたのは、
    のちに日本映画界の巨匠となる、
    若き日の助監督・相米慎二だった。

    自分が伝説的映画『太陽を盗んだ男』の撮影を
    止めてしまったことさえ知らず、
    私はただ呆然としていた。

    大学に落ちて新宿を彷徨っていた少年が、
    のちに映画のプロになる――。
    そんな私の運命が交差した、
    生涯忘れられないエピソードです。



    1979年、私は19歳だった。
    中野のアパートに住み、
    高田馬場の予備校へ通っていた。

    中野南台から新宿西口までバス、
    新宿から高田馬場までは山手線。
    往復バス代は、
    当時の私にはバカにならない金額だった。
    だから予備校の帰りは、
    新宿で降りて南台まで歩いた。

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    4キロ余り、一時間の道のりである。
    西新宿の高層ビル街を抜けていく。

    田舎から出てきたばかりの人間には、
    その風景そのものがまだ珍しかった。


    初夏の頃だったと思う。

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    新宿住友ビル。
    当時、私たちは三角ビルと呼んでいた。
    その広場を通りかかると、

    何かの撮影をしていた。
    映画なのかテレビなのかも分からない。
    撮影現場を見るのは初めてだった。

    何をしているのだろうと、
    興味津々で近づいていった。

    すると、突然、怒鳴られた。
    「おい、そこ退け! 何やってんだ!」
    私はキョトンとした。

    自分がカメラの前に入り込み、
    撮影を止めてしまったことさえ、
    すぐには分からなかった。

    邪魔にならない場所を指示され、
    そこから撮影を見た。

    カメラの向こうに立っていたのは、
    沢田研二だった。

    1979年の沢田研二である。
    テレビで毎日のように見る、
    歌謡界の頂点にいた男。

    その沢田研二が、新宿のビルの広場で、
    映画を撮っている。
    東京とは、すごいところだと思った。
    その時点では、
    作品名も監督の名前も知らない。

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    後になって、
    それが長谷川和彦監督の
    『太陽を盗んだ男』だと知った。

    製作は山本又一朗。音楽は井上堯之、
    助監督には相米慎二。

    公開は1979年10月6日。
    受験を控えた浪人生だったが、
    私はすぐに観に行った。

    『太陽を盗んだ男』は、
    容赦しない映画だった。
    教師が手製の原爆を作る。
    国を脅す。警察が追う。

    1979年、原発は、
    誰もが「安全」だ!
    信じさせられていた時代。

    原子爆弾を個人が作るというストーリーは、
    相当な覚悟がなければ撮れない。

    でも、俺たちは本当に信じていたか?
    原発が安全だなんて。

    誰も本気で信じちゃいなかった。
    ただ、そういうことになっていただけだ。

    長谷川監督は、その嘘を映画にした。

    アメリカのスリーマイル島
    原子力発電所事故があった、
    その年の秋に公開であった。

    あの時代にこれを撮って全国公開した
    という事実。

    当時、
    『イージー・ライダー』のニューシネマ、
    カウンターカルチャーとしては、
    この手の映画のNo.1と勝手に思っていたが…

    自国に、それを超える映画があった!

    打ちのめされた。


    そして映画の中に、あの広場が映った。
    場所を見て、すぐに分かった。

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    映画の中で、主人公が新宿の高層ビルに現れるシーンが一瞬出てくる。

    そのシーンが映った時、心の中で叫んだ。

    「俺はここにいた」

    映画に出演したわけではない。
    スタッフとして参加したわけでもない。
    撮影現場を知らずに横切り、怒鳴られ、
    離れた場所から眺めていただけである。

    それでも、スクリーンに映った場所には、
    自分の記憶があった。
    撮影が行われた日に、
    私は確かにそこに立っていた。


    希望した大学には入れなかった。
    しかしその後、私は映画館に入り、
    興行と宣伝の仕事に就くことになる。

    考えてみれば、
    私が初めて映画の撮影現場を見たのは、
    映画会社へ入ってからではない。

    映画屋になる10年前、
    19歳の浪人生だった時である。
    しかも、それが『太陽を盗んだ男』だった。


    後年、27年の時を経て、
    仕事として再び沢田研二という名に
    出会うことになった。
    2006年公開『幸福のスイッチ』に関わった。

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    沢田研二さんが出演していたので、
    今度こそお会いできるかもしれないと
    思ったが、その機会はなかった。
    公開は10月14日。
    27年前のあの映画と、同じ10月だった。

    プロデューサーの山本又一朗氏には、
    あるイベントでお会いすることができた。

    『太陽を盗んだ男』のことを聞いてみた。
    返ってきたのは、

    「次の作品のことしか考えない」
    プロらしい言葉だった。


    それでも、新宿三角ビルに、
    「俺はここにいた」
    生涯忘れられない撮影現場だった。


    「本文はすべて実体験です」
    映画評論ではない。映画を生業とした者の、ありのままの観察録です。





    劇中歌、忘れられない名曲があります。

    カルメン・マキ - Easy Come, Easy Go





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    10代でロックと出会い、ロックと人生の記憶と並走するブログ15年継続中。  映画宣伝の世界で27年。 東日本大震災が退職の日、帰宅困難者となった。 縁あってタクシーに乗り12余年。還暦を過ぎ、 一期一会の喜怒哀楽に感謝。 音楽と映画屋だった日々と、運転席の東京を綴ります。

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