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「生きたい」人と「死にたい」人とのコミュニケーションの齟齬

    『「死にたい」とつぶやく:座間9人殺害事件と親密圏の社会学』は、希死念慮に関して、斬新な視点をもたらしてくれる本です。

    本書は座間9人殺害事件を取り扱いますが、メインとなる考察対象は、「死にたいとSNSで呟く人」です。

    事件では、犯人はSNSで「死にたい」と呟いているアカウントを探すことで、被害者との接点を持っていました。本書は、この「死にたい」というSNSでの呟きに焦点を当てたものです。

    Sは複数のTwitterアカウントを保有しており、また、9人の大半とは「Twitterで知り合った」と供述し[3]、そのうち「首吊り士」を名乗ったアカウントでは自殺志願者に方法などを助言するような投稿を盛んに発信し、また「死にたい」と投稿したアカウントに対しては個別にメッセージを送るなどしており[142]、積極的に自殺志願者たちと連絡を取り合っていた様子があった[142]。自殺志願者に対しては自殺前に家族や友人、SNSに連絡をしないことを勧めることもしていた[142]。そして、SはTwitterで自殺幇助を称しつつ自殺志願者と接触しており、相手を殺害後は新たな自殺志願者を装う目的で複数のアカウントを使い分け、相手を次々に誘い出していた可能性がある[143]。

    出典:座間9人殺害事件 - Wikipedia



    本書において、個人的に印象に残った内容は、「現代社会は『生きたい』という気持ちを前提としてコミュニケーションが取られている」という指摘です。

    希死念慮を抱かない人からすれば、自明のことかのように思うでしょう。しかし、希死念慮を抱く人間からすれば、必ずしも「生きたい」という気持ちが確固たるものとして存在するわけではないのです。「死にたい」と強く思っていないとしても、「別に死んでもいいかな」と思いながら、惰性で生きている人がいます。

    「生きたい」を前提とするコミュニケーションと、「別に死んでもいいかな」を前提とするコミュニケーションは、同じ日本語を話していても、噛み合わないでしょう。何せ前提が違うのだから。

    このようなコミュニケーションの齟齬が蓄積されることで、希死念慮を抱く人達と、そうではない人達の分断は深くなるばかりでしょう。この状況は、望ましくないと思います。家族や友人が自死を選ぶのは辛いでしょうし、その出来事が、健康な人のメンタルに悪影響を及ぼす可能性があります。



    一口に希死念慮と言っても、各人の「死にたい」という気持ちの機微は千差万別かと思います。「死にたい」という気持ちの純度が高ければ、とっくの前に自殺しているでしょう。今生きていることから、完全に「死にたい」とは思っていないのでしょう。「生きたい」と「死にたい」のグラデーションのどこかに位置するようなイメージです。

    私の場合、ADHDとASDを抱えていることもあり、一種の「生きづらさ」を感じる場面が、人生において多かったです。「生きるのが面倒くさい」という感情は常に付きまとっており、「苦労して生きるくらいなら死んでもいいかも」という気持ちで生きてきました。

    鬱を患ったことにより、ストレス耐性が著しく低下しました。「苦労して生きるくらいなら死んでもいい」という気持ち自体はこれまでと変わらないのですが、「苦労」のハードルが格段に下がりました。

    今は療養を優先した生活を送っており、ストレス源から極力離れているのにも関わらず、メンタルが健全な人が思うであろう程度には、「生きたい」という気持ちが湧き上がっていません。

    「生きたい」という気持ちを湧き起こすことが、当面の目標になるでしょうね。



    本書は、希死念慮を抱かない人にとっては、希死念慮の一面を理解する手助けに、希死念慮を抱く人にとっては、自身が抱える希死念慮を客観的に理解する手助けになると考えます。


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