
【短編小説】それでも、彼は笑った
お客様への説明は、必ず「笑わないでください」から始める。
シートベルトの締め方も緊急帰還の手順も、そのあとに回している。
クロノス・トラベル社が過去観光を事業にして14年になる。
創業時から掲げているルールは2つあり、歴史を変えないこと、笑わないこと。
後者は前者の言い換えにすぎないが、社内研修では倍の時間をかけて教わる。
驚けば人は息を呑み、悲しければ黙る。
どちらも小さな音で済む。
笑いだけは、周囲に聞かせるために出る音だ。
もうひとつ、時間には定員がある。
過去のある日のある時刻に滞在できるのは1組、客1名とガイド1名まで。
同じ瞬間に未来人が何組もいれば、歴史は混み合ってほつれてしまう。
だから人気の瞬間ほど順番待ちが長くなり、最後は抽選になる。
今回の枠は1633年6月22日、ローマ。
ガリレオ・ガリレイの異端審問である。
倍率は3800倍と聞いた。
入社11年目、ガイド歴300回を超える私にとっても、この枠は初めてだった。
待合室で会った客は、大阪から来た矢島さんという55歳の男性だった。
金属部品の町工場を営んでいて、当選の知らせが届いた日は、機械を全部止めて従業員と万歳したという。
ジャケットの袖が少し短い。
慣れない手つきで結んだネクタイは、もう緩みかけている。
「歴史、お好きなんですか」
私は訊ねてみた。
「いやあ、ガリレオさんのことは正直ようわからんのです。娘が高校の世界史で苦戦しとりまして、土産話でも仕入れて帰ったろ思てね」
動機としては悪くない。
私は用意してきた説明に入り、いつもの口上を述べた。
何があっても、絶対に笑わないでください。
矢島さんは胸を叩いた。
「任せてください。
人前で笑たんは、親父の葬式が最後ですわ」
「葬式で、ですか」
「香典袋の名前が間違うてましてね。『矢島』が『矢鳴』になっとったんです。あれはあかんかった」
聞かなかったことにして、私は耳に入れるイヤーピースの説明に移った。
当時の言葉は、ほぼ遅れなく標準語に訳されて届く。
着替えも済ませてある。
矢島さんは当時の簡素な毛織の上着に袖を通し、「ちょっと暑いですな」と首元を引っ張った。
ゲートをくぐる。
暗転は一瞬で、次に来るのは匂いだった。
冷えた石、溶けた蝋、羊毛にしみこんだ人の汗。
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院の広間は天井がやけに高く、6月なのに空気がひんやりしている。
壁際には傍聴人が20人ほど立っていて、私たちはその端に紛れ込んだ。
誰も振り向かない。
正面の長椅子に、枢機卿たちが並んでいた。
赤い衣の列は10人ほどで、全員が同じ角度で扉のほうを見ている。
やがて扉が開き、ガリレオが入ってきた。
69歳。
白い悔悛者の服を着て、杖をついている。
目が悪いと聞いていたが、足元を確かめる歩き方でそれがわかった。
思っていたより小柄で、背中が丸い。
書記官に促され、彼は広間の中央で膝をついた。
膝が石に当たる音がした。
書記官から宣誓文が手渡される。
ガリレオは紙を顔に近づけ、しばらく黙ってから、読みはじめた。
声が小さい。
私のイヤーピースは一拍遅れて訳文を流し込んでくる。
「私、ガリレオ・ガリレイは、フィレンツェの故ヴィンチェンツォ・ガリレイの子……」
私は息をひそめて聞いた。
歴史の教科書のこの場面を、いま自分が見ているという実感が、遅れて背中に来た。
隣の矢島さんも、さすがに神妙な顔をしている。
宣誓の中ほどで、気配が変わった。
矢島さんの肩が、小さく上下している。
見ると目を閉じ、天井を仰いで、唇を内側に巻き込んでいた。
私は肘で軽くつつき、口の形だけで「だめです」と伝えた。
矢島さんはうなずく。
うなずいた拍子に、鼻から細い息が漏れた。
ガリレオの声は、訳文を通さずに聞くとまるで別物だった。
トスカーナの訛りで、語尾が間延びして下がる。
重々しい文言のはずなのに、抑揚だけが妙に柔らかい。
どこかで聞いたことがある節回しだ、と思い、すぐに見当がついた。
大阪の下町の、老人の話し方に似ている。
矢島さんは両手で自分の腿をつかんでいた。
指の関節が白い。
私は視線で必死に制した。
耐えてください。
あと少しで終わります。
矢島さんが歯を食いしばったまま、薄目を開けて私を見た。
目の縁が赤く、涙がたまっている。
口の端が、勝手に上がりかけているのが見えた。
そして鼻から、音が出た。
「ブフォッ」
広間に、はっきり響いた。
衣擦れの音が一斉に止まり、壁際の傍聴人が振り向く。
枢機卿のひとりが、手にした杖の先で床を叩いた。
誰かが小声で何か言い、近くの数人が、押し殺した笑いをこぼした。
ガリレオ本人を嘲る笑いと受け取ったのだろう。
さざ波のように、それが広がっていく。
宣誓が止まった。
ガリレオは読むのをやめ、紙を下ろした。
ゆっくりと顔を上げる。
濁った目で広間を見渡し、最初は誰を探しているのかわからなかった。
やがて彼の視線は、壁際の矢島さんで止まった。
長い間があった。
矢島さんは口を押さえ、顔を真っ赤にして固まっていた。
ガリレオの口元が、わずかに動いた。
笑ったのかどうかはわからない。
ただ、丸まっていた背筋がほんの少し伸びたのは、確かに見えた。
彼は視線を床に落とし、誰にともなく、低くつぶやいた。
「Eppur si muove」
イヤーピースが、ほんの少し遅れて訳文を流した。
「それでも、動いている」
足元の床が抜けたように感じた。
それは教科書に載っている一言で、後世の創作とも言われ、いつ誰に向けて発せられたのか、誰も知らないはずの言葉だった。
ガリレオは何事もなかったように宣誓文の続きを読み、終えると、判決を聞いた。
幽閉と、著作の禁止。
のちに自宅軟禁へと緩められる。
広間を出ていく後ろ姿に、傍聴人の何人かが道を開けた。
嘲りの色はもう消えていた。
帰還ゲートの中で、矢島さんは何度も頭を下げた。
「すんません、ほんまにすんません。わし、やってもうた」
「お怪我はありませんか。気分は」
「それは大丈夫です。けど、あの人の喋り方がね」
矢島さんは、言い訳を探すように手のひらを見つめた。
「じいちゃんにそっくりやったんです。河内の生まれでね、死ぬ前の病室で、ちょうどあんな調子で『えらいこっちゃなぁ』言うてたんですわ。重たい話を聞くほど、あの声が耳の奥で鳴りよるんです」
私は何も返せなかった。
叱るべき場面のはずなのに、言葉が出てこない。
帰社した私は、すぐに事故報告を提出した。
翌朝、緊急の会議が招集された。
法務部長、広報部長、そして歴史班の主任である成瀬さん。
成瀬さんは70近い小柄な女性で、会社創立当初から公文書館を渡り歩いてきた人だ。
彼女は無言のまま、薄い紙束を会議机に置いた。
「異端審問関連文書の写本です。17世紀の末に作られたもので、原本の欄外注記まで丁寧に写してあります」
示された箇所を、全員がのぞき込んだ。
細い字の一行がある。
「宣誓の最中、広間に嘲る声あり。出所は詳らかならず」
法務部長が眼鏡を押し上げた。
「これは、いつの写本です」
「うちの会社ができる、300年以上前のものです。つまりこの笑い声は、最初からありました」
誰も口を開かなかった。
成瀬さんは静かに続けた。
「矢島さんは歴史を変えていません。むしろ、あの方が笑わなければ、この一行は存在しなかった。名言のきっかけもです」
「待ってください」
広報部長が割り込んだ。
「では、ガリレオが屈しなかったのは、矢島さんのおかげということですか」
「宣誓のあとの評価は、嘲笑の中でも彼が屈しなかった事実によって、ずいぶん高まっています。嘲笑がなければ、あの一言も、その一言を支えた空気も生まれなかったでしょう。その嘲笑を本当に引き起こしたのが、あの方です」
法務部長がこめかみを押さえた。
「つまり、わが社の鉄則は、この件に関して誤りだったと」
「誤りというより、順番が逆だったんです」
結論は、その日のうちに出た。
鉄則は変えない。
変えれば、笑うために応募する客が殺到する。
枠が1組に限られていても、抽選の倍率は跳ね上がり、社会問題になる。
矢島さんには違約金を課さず、代わりに守秘義務契約を結んでもらう。
そして歴史班は、記録の中に残る「出所不明の声」を洗い出す。
咳、拍手、笑い、くしゃみ。
誰のものかわからない音の枠に、会社は、こっそり客を送り込む。
その「特別協力者」の第1号が、矢島さんになった。
半年後の私は、1599年9月のロンドンにいた。
泥の匂いがする。
テムズ川の南岸にそびえる、できたばかりのグローブ座。
木造の円形劇場の立ち見席に、私と矢島さんは、他の観客に紛れて立っていた。
演目は『ジュリアス・シーザー』の初演。
成瀬さんが見つけた記録は、ある旅行者の日記の一節だった。
「悲劇の最中、場違いな笑い声が起きた。出所は知れず」
矢島さんに与えられた任務は、ブルータスがシーザーを刺す場面で、笑うことだ。
「あの、千里さん」
矢島さんが小声で言う。
「わし、さっきから腹の中、石みたいになってますねん」
「大丈夫です。笑いのコツは、頭で考えないことです」
「それが一番むずかしいんです」
幕が進んでいく。
陰謀の場面が終わり、シーザーが登場した。
観客の熱が上がり、矢島さんの顔がこわばる。
私は袖口を引き、ささやいた。
「そろそろです。思い出してください、お父様の葬式を」
「あきませんて、あれ、もう何べんも思い出してますねん、もう効かんのです」
ブルータスがナイフを振り上げた。
矢島さんは大きく息を吸い、頬に力を入れ、目を見開き、歯をむき出しにした。
完全に、腹を壊した人間の顔である。
「出ません」
矢島さんが、唇をほとんど動かさずに言った。
「千里さん、出ません」
その顔があまりにも真剣で、あまりにも必死で、私の口の中で何かがぷつんと切れた。
「ブフォッ」
舞台のブルータスの手が止まった。
客席の全員が、一斉にこちらを振り返った。
シーザー役の俳優がブルータス役の俳優に目配せをするのが見えた。
私は両手で口を押さえたが、もう遅い。
矢島さんは安堵のあまり、隣で腰を抜かしている。
帰社後、成瀬さんは無言で、また別の写本を机に置いた。
新たに見つけた記録の欄外に、細い字でこうある。
「笑い声、女のものか」
私は始末書を書かされた。
題は「鉄則違反について」。
提出先は、いまや社内に新設された「歴史整合室」の初代室長に出世した、矢島さんである。
矢島室長は、受理印を丁寧に押しながら、笑いをこらえるように言った。
「千里さん、次の枠は、あんたが笑う係でっせ」
私は今日も、お客様の前に立つ。
「絶対に、笑わないでください。ただし合図をしたら、必ず笑ってください」
お客様はたいてい、こう聞き返してくる。
「どっちですのん」